VOL.4

 俺は施設長氏に他言無用の念書を二枚も書かされて、田沼百合子の私物である手帳と日記四冊を見せて貰った。


 それは彼女が認知症になる前からつけていたものだったという。

 ここに来た時、彼女は衣類など、僅かな手回り品の他、私物らしい私物は殆ど持っていなかった。施設では規則として衣服以外は預かることにしているのだが、この日記と手帳だけはどうしても離そうとしなかったという。

しかし『失くしては困るから』と説得を繰り返し、どうにか今はこちらにあるそうだ。

 

 百合子は随分几帳面な性格だったらしく、それらにはいつ、どこで誰と逢い、何をしたかまで、実に詳細に記してあった。


 中でも一番多くの頁を割かれていたのが、他ならぬ田沼伸介のことだった。

 流石の俺でもゲップが出るほどの代物で、中身は・・・・いや、詳しく言うのは止そう。まあ、女性週刊誌に載っている”体験告白手記”とか”三文恋愛小説(官能小説と言うべきか)を想像してくれれば、自ずと理解は出来るだろう。

 俺は其の内の手帳だけを借り受け、最後の頁の住所録にあった”中村誠”のアドレスを探し始めた。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 狛江の駅から歩いて20分ほどのその家に着き、身分を名乗って訪問の目的を告げると、その家の主は玄関を開け、俺を中に入れてくれたが、あからさまではないにせよ、あまり歓迎はしていない様子だった。

 

 リビングのソファに座った俺に、人の好さそうな丸顔で眼鏡をかけた彼は、

”まあどうぞ”と、丁寧な口調で俺に声をかけ、妻が運んできたコーヒーを勧めた。

『正直に言って、私は”あのひと”についてはもうあまり喋りたくないし、関わりたくもないんですよ。』

 まるで何か吐き出すような口調でそう言ったのは中村誠・・・・田沼百合子が最初の夫との間に設けた一人息子だった。

 現在は都内にある某地方銀行の本店でシステムエンジニアの仕事をしている。


『”あのひと”の不倫が発覚したのは、私がまだ結婚する前のことです。』彼はコーヒーを一口飲み、話し始めた。


 当時彼はもう大学を卒業して某銀行に就職し、神奈川県の支店に勤務となっていたため、アパートを借りて一人暮らしをしていたのだが、たまたまある日曜日、暇が出来たので実家に顔を出そうと電話をかけたが、何度掛けても誰も出ない。


 不審に思い、車を飛ばして駆け付けてみたところ、昼間だというのに雨戸が閉まっており、チャイムを鳴らしても応答がなかった。

 彼は持っていた合鍵でドアを開けて中に入ったところ、父親が一人でリビングにパジャマ姿のまま倒れていた。


 救急車を呼び、そのまま病院に搬送してもらったところ、心臓発作を起こしかけていた。

 幸い措置が早かったため、命はとりとめ、十日ほどの入院で済んだ。

 それにしても何故母がいなかったんだろう?

 誠はそう思って彼女の携帯に繰り返しかけてみたが、こちらの方も電源が切れているという案内が鳴るばかりで、結局通じたのは午後三時を過ぎてからだった。

戻って来た彼女は、流石に心配をしていたものの、何処にいたかについては、

”職場の女友達と旅行に行っていたのよ”

などと、とってつけたような言い訳をしたが、何だかひどく不審に思った。

 そう思った彼は、母と親しいという友達の名前を調べ上げ、片っ端から連絡を取ってみたものの、誰も彼女と旅行などしていなかった。


 思い切って母を問い詰めた。 

 初めの内はシラを切り続けていたが、とうとう最後には職場の若い男性社員と不倫関係にあり、その日も三日間休暇を取り、旅行に行っていた事を認めたという。


 告白をしてから一週間ほど、彼女は家に帰ってこなかった。

 そうして父が退院し、家に戻ってきて間もなく、その不倫相手の男性と戻ってきて、

”私たちは愛し合っている。申し訳ないが離婚してほしい”

父にそう告げたそうだ。


 父はある建設機械メーカーで技術者として働いており、歳は母より四歳上。のんびりしているところはあったものの、至って真面目で温厚な人物だった。

 母に離婚届を突き付けられ、父はほんの僅か動揺したようだったが、

”分かった”とだけ答え、離婚届にサインをしたという。

 慰謝料の請求もしなかった。財産の分与はなし。母はそのまま男と一緒に家を出て行ったという。


『父が亡くなったのはそれから二年後の事でした。病気が悪化したんでしょうね。』

 隣の八畳ほどの和室に設けられた仏壇には、温厚そうな男の遺影が掲げられてあった。


『夫婦の間のことは、私にも分かりません。しかし真面目一筋の親父を裏切って、二年近くも若い男と不倫関係でいたんですよ。そんな女、許せると思いますか?』

 彼女とは父の葬儀の時に一度だけ再会したが、簡単な会話を交わしただけで、それっきり会っていないという。

 手紙も何通か来たが、全て読まなかった。

 俺は百合子が田沼氏と再婚をしたこと、直人と言う男の子をもうけたが、今その子は施設にいる事、そして本人は認知症を患って千葉県の特別養護老人ホームにいることなどを話したが、彼はただ、

『そうですか』と、冷淡に答えを返しただけだった。


『では、田沼氏から何か連絡があったということもないんですね?』

『ありませんよ。もう母親だとも思っていませんからね』


 取り付く島もないとはこのことだ。

 これ以上ここにいてもあまり意味があるとは思えない。

『有難うございました』

 俺はそう言って、ソファから立ち上がった。


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