10 別れ
夕方、家に帰ると父が玄関ポーチで待っていて、笑顔で家に入ろうとしたおれの腕を握って止めた。強い力だった。動けないくらい。
「お前、旧大陸人の女とつき合っているのか?」
背筋が凍りついた。あの日、オリビアの名前を言ったときから予想はついていたのだが、現実になってみると全身の力が抜けるくらい怖いことだった。あのときオリビアの名前をすんなり言わなかったら両親は怒っただろう。嘘をつけばもっとだ。調べればわかってしまうことだから言ってしまったが、少しは繕うべきだったと後悔した。せめて時間を稼げるからだ。
「最近は出かけてばかりいたが、その女のところに行っていたのか?」
おれは固まったまま動けなかった。父は「答えろ」と怒鳴った。やっとうなずくと、彼は大きなため息をついた。わざとらしい。昼の苛立ちも手伝って、怒りが増幅する。
「決めたよ。お前にはわが社を継がせない。お前は経営者の資格がない」
「そう。よかったよ。継げそうにはなかったから」
おれは、のどから出てくる冷たい声に驚いた。自分が言っているのかと思うと、信じられなかった。
「クソみたいな支配システムを運営するなんて、おれにはできそうにはないもんな!」
気づけば玄関ポーチでうずくまっていた。顔がずきずきと痛む。父が殴ったのだった。父は肩で息をし、ふん、と鼻を鳴らした。
「しばらく外で頭を冷やせ。帰ってくるころにはわかるだろう」
おれはうずくまったまま、笑った。そんなおれを、父は狂人を見るかのような目で見下ろす。
「わかんねーよ、くそじじい」
「そうは言うがな、お前」
父は思ったより冷静な声で返した。
「このわたしを侮辱して、そのアンダーソン家は無事でいられると思うのか?」
呼吸が乱れる。立ち上がり、父にすがりそうになった。オリビアたちを許してくれと。でも父は家に入ってしまっていて、おれたちを食事のために呼んだドニが、困惑したようにこちらを見ているだけだった。ドニはおれを心配そうに見つめた。そして、ドアを閉じてしまった。
終わった。全て。もう、取り返しがつかない。おれがどんなに頼んでも、父は許さないだろう。父を侮辱し、オリビアとつき合うおれを。
オリビアに謝ろう、と思った。謝ってどうにかできることでもないけれど。でも、森のほうに行く勇気はなかった。庭に回り、ソメイヨシノの根本に行って幹に背をもたせかけた。顔が痛い。シルヴァーノに殴られたときよりも痛んだ。時間が過ぎていく。父に謝って言うことに従えば、オリビアは無事で済むかもしれない。その時間を失っていく気がした。空が暗くなる。ソメイヨシノの葉の向こうに、無数の星が見えた。空気が澄んでいるようだった。きれいな星空だ。突然思った。やっぱり、オリビアのところに行こう。
おれはオートバイクを呼び、庭を飛び出した。夜空は美しく、そのせいか感情が暴走した。涙が漏れ、嗚咽が飛び出した。「ごめん、ごめん」と誰かに謝っていた。巻き込んでしまったオリビアへの謝罪なのか、守れないことへの謝罪なのか、その両方なのか、さっぱりわからなかった。おれは無力だった。
森は暗く、本当の闇で、星と月だけがおれを見下ろしていた。バイクのヘッドライトは、森を無遠慮に照らしていく。全速力で進む車体は、石をはね飛ばし、踏みつぶした小枝をパチパチと鳴らす。
彼女の家に着いたときには、顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。オリビアたちに気づかれないよう、手前でバイクを停め、歩いて門のほうに向かう。そこでじっと立ち尽くす。異常はないようだ。静寂そのもの。ハーブ園は変わらず鬱蒼とし、入り口に灯ったランプはささやかだ。そのまま三十分が経った。誰かが玄関を開け、バルコニーに出て来た。オリビアの母だ。
「そんなに泣かないで」
奥から誰かが、――おそらくオリビアが――何かを言っている。
「いずれ、あなたをここから連れ出すわ。イベリア半島に戻るのもいいと思っていたの。ここはわたしにとって、生まれ故郷でしかないから」
また、オリビアが答える。
「聡一郎はわかってくれるわ。あなたのことが好きなんだもの。会いにだって来てくれる」
母親は、家の中に入っていった。オリビアのためのハーブを採りに来ただけなのだろう。肩から一気に力が抜ける。このまま朝まで見張っていよう。おれがどんなに無力でも、できるとしたら、最後まで彼女を守ろうとすることだけだ。
真夜中に近づいたころ、リングが鳴った。父かオリビアだと思って大慌てで確認する。母の上半身のミニチュアがそこにあった。イライラしているようだ。
「どこにいるの? 夜遊びもいい加減にしなさい」
通信を取ると、母は何も知らない顔でそうがなりたてた。
「お父様は出張に出たようだし、お客様もお帰りになって家には誰もいないのよ。アポリネールが夕食の処理に困っているわ。早くなさい」
出張? 突然のことに驚いた。父がいないのなら好都合だが、あまりにもタイミングがよすぎる。
逡巡したが、それならば大丈夫だろうと思って帰宅することにした。オートバイクでの帰路は、何となく心地よかった。オリビアがここから離れるのならば、そのほうがいいと思う。おれなんかと一緒にいるよりは。
家に入ると、使用人たちが普段通りに迎え入れてくれた。夕食も、ちゃんとあった。ドニが給仕してくれ、彼は微笑んで温かい料理の載った皿を持ってきてくれた。
「父は、出張?」
おれが訊くと、ドニは笑った。
「そのようですね。本当に突然で」
あの場面をどう思った? そう訊こうと思ったけれど、やめた。ドニの笑顔は鉄壁で、ぴくりとも動きそうになかった。彼の表情はちっとも作り物めいていなくて、それが余計に嘘くさかった。
*
あれから三日。父は未だ帰ってこない。母によると連絡もないのだという。でも、あまり気にはしていないようだ。むしろドニを堂々とはべらせることができて満足げだ。日の光が注ぐ真っ直ぐな廊下で、ドニと歩く母をよく見かける。おれを見るとドニに対する熱っぽい視線を外すが、角を曲がるまでは甘ったるい声で愛をささやいていたのが明白だ。おれはイライラしていた。
オリビアは、この間の外出以降、気鬱でふさぎこんでいた。毎日行って話をするが、元気がない。彼女に会いに行っているのに、彼女の母と話すことが多くなった。彼女が笑ってくれないというだけで、怒りの発作が増えた。彼女とのことが父にばれ、母娘が危機に晒されているのに何も言えず行動を起こしていない自分にも苛立っていた。父に謝罪をし、もうオリビアには会わないから彼女たちを助けてくれと頼むことも、父がどこにいるかわからない今はどうにもできなかった。
父の会社から特別何か言ってくることもない。会社は数人の新大陸人の重役を除けばほとんどが旧大陸人の社員で、仕事内容もプログラムやシステムの開発、改善が主だ。会社を運営している父の仕事も夏期休暇の今はセーブしてあるはずで、突然の出張は旧大陸への気分転換の旅行なのかもしれなかった。もちろん本当に仕事なのかもしれないが、そちらのほうが父らしい。父は親から勧められて結婚した母にうんざりしていた。おれが跡継ぎには適さないと決まったことも、家から遠ざかる理由なのかもしれなかった。
街に出ると、同世代の新大陸人たちから遠巻きにされた。オートバイクでオリビアの家に向かっていると、妙な目つきでこちらを見ている彼らの集団によく出くわした。彼らはおれが狂ったとでも思っているようだった。おれが父の息子だから手出しをすることはできないまでも、あとでシルヴァーノに取り入りやすいよう、おれと親しくしないように気をつけているのがわかりやすいほどだった。この間のあいつのように、堂々とおれを非難するような奴は滅多にいないらしい。言いたいことがあるなら言え、と怒鳴ってやりたい。
また、銃を撃つようになった。怒りの発作があると、すぐにシェルターに潜り込んだ。派手な花柄の壁紙は、もう貼られた当時の面影がないくらい破壊し尽くされ、汚れている。
オリビアの気鬱がよくなるといいのに。それなら、おれの気分もよくなるのに。銃を撃ち終わるたびに、そう考えた。でも、それは自分勝手な考えだ。彼女が落ち込む理由は新大陸にあり、おれ自身も新大陸の一部だからだ。
*
今日のオリビアは元気だった。おれを見て、「来てくれて嬉しいわ」と笑う。彼女に呼ばれ、木製の素朴な家具が配置された部屋に入る。相変わらずコットンの布のものが多い部屋だった。コットンは、アレルギーを起こしにくいということで未だに人気があるが、オリビアの部屋にはソファーの表地、クッションのカバー、テーブルクロスと、何かもかもと言ってもいいくらいコットンが使ってある。普通は空調があるから冬であっても厚い布団など使わないし、汚れやすく傷みやすいコットンは生活空間にこれほどたくさん置くものではない。これはきっと彼女の母親の、彼女の健康を祈る気持ちから来ている。彼女は、ずっと会っていなかった母親に本当に大切にされている。
彼女の部屋だといっても、彼女のベッドルームは隣にある。ここは居室だ。テーブルには冷やしたハーブティーが置かれ、彼女はおれと話をしながら笑っている。テーブルでは向かい合っていて、いつも隣り合ってくっついていたこの間までと比べると、距離を感じる。彼女は一人掛けのソファーに足を組んで座っていた。おれは三人掛けのソファーに座り、そわそわしていた。
父に殴られたあの日から、オリビアと別れないと、と強迫観念のように思っていた。オリビアの安全のために。彼女の母が仕事を失うようなことがあったら、未成年で他に後ろ盾もない彼女は母と共に路頭に迷うだろうから。父が帰ってくるまでに別れておかないと。もう四日も不在だが、今度会ったときに「オリビアとは別れたしもう会わないから彼女たちを許してくれ」と言えるように。でも、彼女と別れるなんて絶対に嫌だ。彼女がいないと、生きているとは思えそうにない。そんな風に、別れるかどうか、行ったり来たりを繰り返していて、彼女の前では落ち着くことができなかった。
気づけばオリビアは白地に薔薇が描かれたクッションを抱き、おれをじっと見つめていた。
「聡一郎、何だかそわそわしてるのね」
彼女の言葉にぎくりとしていると、彼女はおれが座っているほうのソファーのほうに歩いてきた。ぺたぺたと室内用の平たい靴を鳴らし、足音が止まったときには彼女はおれにくっついて座っていた。腕はおれの首に回され、彼女の熱い胴体はおれの体にくっついている。
突然のことに驚いていると、彼女は熱っぽい声でささやき始めた。
「あなたが好きよ。とっても。わたしは何にも持ってない無力な子供で、同じように無力なあなたを好きでいることしかできない。それなのにあなたはわたしをすごく好きでいてくれて、わたしのことをずっと想ってくれてる。信じられないことだわ。わたし、思うの。わたしはあなたをずっと好きでいるだろうって」
おれは彼女の言葉を、泣きそうになりながら聞いた。彼女は一生分の愛情をおれに注ぐ気でいるのだった。それなのにおれは彼女に対する秘密で一杯で、身動きが取れない。彼女とのつき合いを両親に反対されていること、別れて縁を切らなければ彼女たちの立場が危ういのに、言えないでいること、それに、怒りの発作のために銃を撃つこと。銃は、おれの暗部そのものだった。絶対に、彼女に言うことはできなかった。
おれは彼女を抱きしめた。彼女の首筋の甘い匂いがした。彼女の波打った黒髪を撫でた。指に絡みつく髪は柔らかく、彼女を抱きしめている実感があった。何よりもその体の熱さ、柔らかさが彼女の存在を表していた。彼女は確かにおれの腕の中にあった。
「聡一郎」
彼女がくぐもった声で言った。彼女の顔を見たいが、背中しか見えない。
「ベッドルームに行きましょう」
心臓が激しく鳴った。おれは、彼女を引き離した。彼女はおれを見て切なげな顔をし、唇を震わせていた。
「それは、駄目だ」
おれは拒絶した。彼女に対する後ろめたさで一杯だったから。彼女はおれの言葉に傷ついた顔をした。
「どうして?」
「おれたちは会って間もなくて、君は大切にされている娘で……」
一番の理由はおれにそんな価値があるとは思えなかったからだ。それが言えなくて、言い訳じみた言葉が口から出てきた。彼女はうなずいた。そうね、とつぶやき、顔を逸らした。
気まずいまま、彼女の家を辞することにした。庭に出ると、ハーブの濃い香りがした。庭の中央近くに、大振りの白いジャスミンが咲いていた。ここまで届く香りはかすかだが、出会った日のことを思い出した。
明日こそ、彼女にきちんと話そうと思った。話して、わかってもらって、別々の道を歩こうと。たった数週間しか一緒にいないのに、そう考えるだけで半身がもがれる思いがした。
「聡一郎、このサイトを見て」
オリビアはバルコニーに立ち、おれに何かのデータを送った。うなずき、「わかった」と答える。
「じゃあ」
おれが言うと、彼女は微笑んでこう言った。
「また明日」
大きく手を振り、彼女は一歩、二歩と踏み出した。きっと明日もまた会うのに、何だか今生の別れのようだった。
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