3 あの子が嫌い

 黄薔薇が足を水耕栽培の池に浸している。その姿はどう見ても絵になる、美しいものだった。足から栄養を摂取しているだけだとはわかっている。それでもその美しさは醜い感情を抱くには充分だった。わたしは彼女から目を逸らして暗い森を見た。風によって運ばれてくる森の空気は、湿っている。

「楽しいですね、沙良さん」

 黄薔薇はあの正確すぎる声で、そう言った。わたしはちょっと彼女を見ただけで、無視した。

「どうして無視するのですか?」

「そんなこと、どうでもいいじゃない」

「緑、美しいと思いませんか?」

 わたしは苛立った。木々や花々を素晴らしいと思う感情くらい、わたしも持っている。

「葉緑体がわたしの体に光を運びます。健気です。それと同じようにこれらの植物たちにも葉緑体があり、働いています。それを美しいと思いませんか?」

「思わないわ」

 第一、黄薔薇の感慨は彼女が植物であるという点から来ている。わたしとは相容れない。

「沙良さん」

 また黄薔薇がわたしに話しかけた。わたしの視線は森へ向かう。奥へ、奥へ。それでも黄薔薇は話し続けた。

「あなたはどうして笑わないのですか? 生きるということはこんなにも楽しいのに。太陽がわたしを照らします。葉緑体がわたしに光を巡らせます。わたしは生きます。生きています。こんなに楽しいことが、他にありますか?」

「うるさいわね」

 わたしは声を荒らげた。あなたは生きていない。そう言われているようで腹が立った。わたしは生かされているのだ。カメラの向こうの存在によって。そしてわたしは人生を生きるようにはなっていないのだ。それだけのことを叫ぶ代わりに、わたしは静かに意地悪く笑った。黄薔薇が首を傾げる。

「あなたたちヒト薔薇には、魂がないのよ」

「タマシイ?」

 黄薔薇が少し眉間を寄せた。わたしは暗い勝利の笑みを浮かべ、うなずいた。

「人間にも小さな虫にもあるもので、植物にはないものよ。それがないと生きていることにならないわ。それなのにそんなことを考えるなんて、変よ」

 わたしは次の瞬間の黄薔薇の傷ついた表情を、待った。しかし彼女はそんなことを意に介してはいなかった。大きく笑って、こう言ったのだ。

「わたしはタマシイがなくても楽しく生きていけます。どうしてあなたはタマシイがあるのに生きていないようなのですか?」

 わたしは黄薔薇を叩こうと手を振り上げた。しかし、すぐにやめた。遠くに静雄の姿が見え、こちらに近づいてきたからだ。わたしは黙り、黄薔薇も黙った。彼女はただ、池の水を足で蹴飛ばしていた。

「何黙ってるの」

 静雄は微笑みながらわたしたちに近づき、黄薔薇の体に触れた。黄薔薇は当たり前のように彼に笑いかけて、されるがままになった。彼女の体についた虫や病気を探すためだとあとで気づいたが、少し泣きそうになった。彼は黄薔薇のほうを大切にしている。そう思い込んでいたのだ。彼は黄薔薇の体の点検を済ませ、彼女に向き直った。

「きれいになったね、黄薔薇」

「はい、わたしはきれいになりました。前よりますますきれいになりました」

 池の水に映し出される彼女の姿はさぞかし彼女を満足させるものだろう。

「沙良は大事にしてくれてる?」

「沙良さんはわたしのことが嫌いです。わたしは美しいのに、どうしてでしょう」

 静雄は驚いた顔をしてわたしを見た。わたしは森を見ていたが、その視線がわたしにぶつかると、唇をぎゅっと結んだ。静雄がわたしに近づく。

「黄薔薇を大事にしなきゃ」

 優しい声だ。

「だって、黄薔薇がわたしは生きていないようなことを言うから」

 声は、涙声だった。静雄は困った顔でわたしをどう扱うか思いあぐねているようだった。仕方がない。彼はまだ十七歳の少年なのだ。

「そうなの? 黄薔薇」

「沙良さんはわたしにタマシイがないことを言って威張りました。わたしはタマシイのことがわからなかったので、思ったことを言いました。それだけです」

 思ったこと? 植物が? わたしは嘲笑する顔になったはずだ。静雄は険しい表情になった。

「沙良」

「わたしは悪くないわ。黄薔薇がわたしを怒らせたんだもの」

「沙良、黄薔薇はまだ蕾なんだ。子供なんだよ」

「わたしと静雄さんもまだ子供だわ。それに黄薔薇はどう見たってわたしたちと同じくらいの年齢じゃない」

 静雄は黙った。考えるように視線を斜め上にやって、次に地面を見遣って、うなずいた。

「この話題は終わりにしよう。じきに黄薔薇はおれたちの精神年齢を越えるんだから。おれたちがまだわからないことを、黄薔薇はわかるようになるよ」

 それを聞くと、黄薔薇の寿命が気になった。静雄の薔薇と同じように短い年月を生きるのなら、それは少し、淡い同情のようなものを感じさせる。黄薔薇の生き死になど考えたことがなかった。生まれたばかりの黄薔薇にそんなものが付随しているようには、とてもではないが考えられなかったからだ。

 黄薔薇は何年生きるの?

 わたしは訊こうとして、黄薔薇の存在に気づいてやめた。それくらいの分別はある。静雄のほうは、何か隠しごとをしているようだ。ベージュの作業着のポケットに手を入れ、それをむやみに気にしている。

「静雄さん?」

 わたしが声をかけたのを弾みにしたように、静雄がポケットの中にあった拳を勢いよくわたしに突き出した。

「これ、おれの代わりに育てて」

 受け取ると、それはかすかな重みのある冷たい塊だった。よく見ると、爪があり、関節があり、しわがある。誰かの親指。

 小さく叫んで手を離すと、それは池にぽちゃんと落ちた。わたしは、静雄を見た。静雄もわたしを見た。二人とも少し怯えていた。

「どうして指が?」

「あれはただの指だよ」

「薔薇の指です」

 指を掬い上げて黄薔薇が頬ずりした。頬に水がつき、するっと落ちて池に戻った。指はぴくぴくと動き、黄薔薇の声に反応している。

「わたしの新しいお友達」

 黄薔薇は微笑んでわたしたちを見た。指は、新しいヒト薔薇となるものの原型なのだった。


     *


「黄薔薇が育ててるよ。いいの?」

 静雄はわたしの部屋の赤い布張りの一人掛けソファーに座り、マホガニー製の椅子に座っているわたしに弱々しく笑いかけた。わたしは遠すぎて見えない黄薔薇の池のほうを窓から見遣り、

「いいわ」

 と答えた。少し緊張していた。静雄がわたしの部屋に長くいるのは、極めて珍しいことだったからだ。静雄のほうも落ち着かなげに姿勢を変えながら、きょろきょろとわたしの部屋を見ている。

「どうせ水耕栽培の池に入れておけば、黄薔薇のように育つんでしょう?」

「そうだね」

「気になるんなら静雄さんがわたしの代わりに世話をしてくれればいいじゃない」

「うん」

 沈黙。静雄は床を見つめている。何か言いたいことがあるようだ。わたしは何かを期待し、その何かの正体がわからないまま、静雄をぼんやりと眺めた。静雄の手は相変わらず傷だらけだった。わたしはそこからあるものをイメージした。

「静雄さん、煙草は吸わないの?」

 静雄が顔を上げた。困惑した顔。

「いつも家で吸ってるんでしょ? どうして吸わないの?」

「染みつくんだよ、煙草の匂いは」

 静雄は小さな声でつぶやく。

「酒は? いつもどれくらい飲んでるの?」

「ビールを一缶くらいだよ。そんなことに興味あるの?」

 批難するようにわたしを見る。わたしはうなずいた。

「だってどうして静雄さんが酒や煙草を嗜むのか、知りたいもの」

 今時、酒はともかく煙草を嗜む人間は少数派だという。今なお依存性があることと、臭いがひどいこと、記憶がなくなるほど飲むような人間が軽蔑される価値観、世界的な健康志向、などが理由のようだ。静雄がその少数派に属する、具体的な理由が知りたかった。静雄が口から煙を吐き出したあの光景は、酒を飲んで酩酊する彼をイメージさせ、わたしを戸惑わせた。穏やかな彼にはそのどちらも似合っていなかった。

 静雄は再び床を見ている。ヒト薔薇の話をしたいんだ、と小さな声で言う。わたしはその話題にはあまり興味がなかったが、彼はわたしの疑問に答えるつもりはなさそうなので、黙って聞くことにした。

「実はね、おれはヒト薔薇が苦手なんだ」

 わたしは彼を見た。彼は曖昧な笑みを浮かべ、次に真顔になり、そうなんだ、と言った。

「薔薇は人の手でその姿を変えられながら遺伝子を残してきた。このこともおれは引っかかってる。その引っかかりがおれを薔薇に引きつけるんだと思う。おれだって、不満は持ってるから。でも、ヒト薔薇はやりすぎだ。あれは人造人間に近いよ。だって、話すし、走るし、考える。ヒト薔薇が作られた、そのこと自体におれは恐怖を覚えるんだよ」

「怖いの?」

「うん。あれは思い出させるよ。あれはまるで」

 ノックの音がして、ドアが開いた。驚いていると、義母が顔を出した。

「お父様が静雄さんにお茶をお出ししてとうるさいものだから」

 にっこり笑って静雄の前のテーブルに湯気の立つ緑茶を二つ置いた。濃い黄緑色。わたしは微笑んでお礼を言った。静雄の顔が明るく変化し、わたしはそれが気になった。

「ぼくらは話をしているだけなんだから、結さんも信行さんも、気にしなくていいんですよ」

「そんなことを気にしてるんじゃないのよ。ただ、話が込み入っているようだから」

 義母は微笑みながらそう言ったが、それにしても義母がわたしの部屋に入るのは珍しい。

「お腹の赤ちゃんは何ヶ月でしたっけ?」

 静雄が訊く。義母はことさらに笑みを深くし、七ヶ月、と答えた。静雄が同じように嬉しそうな顔をする。何が嬉しいんだろう。

「赤ちゃんが生まれたら、そうね、弟でも妹でも、沙良さんともっと仲良くなれると思うわ」

「そうですね。そうなれるといい」

 義母はお茶を載せてきたお盆を手に持って、部屋を出た。ドアが完全に閉まると、わたしは静雄をにらんだ。

「いいのよ。わたしと彼女を無理矢理仲良くさせようとしなくても」

 静雄はいつもの困った顔をわたしに向ける。

「仲良くすべきだよ。結さんは何も悪いところがないし、沙良を嫌ってもいないだろう?」

 彼女が美しいからわたしは嫌いなのだと言いたかったが、ますます惨めになりそうで、やめた。

「彼女だって不安なはずだよ。過去の記憶がなくて、いきなりここで人の妻と母親をやるように仕向けられたんだから。家族になった沙良が仲良くしなかったら、彼女はどうなるんだ」

 わたしは生母に置いていかれたのだから、いいのだ。わたしは新しく来た義母を嫌っても、仕方ないのだ。そう言ったら静雄に嫌われるだろうことはわかっていた。

「ただ馴染めないだけよ。それだけ」

 静雄がため息をつく。わたしはそれに少し傷つく。

「話したいことがあったけど、やめておくよ」

 静雄は立ち上がった。わたしは不安な顔を隠せずに、彼を見上げた。

「今の沙良はおれの気持ちなんてわからないよ。歳が離れてるから、仕方ない」

 わたしは子供だというのか? わたしは充分に成熟した心を持っている、と思う。静雄が隠したがる酒や煙草のことだって、話してくれればわかる。

「話す前に、ヒト薔薇たちは死んでしまうかもしれないな」

 それは、どういうこと?

 わたしの唇が動く前に、静雄はドアを出た。わたしは一人、取り残された。

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