第3話 


 清水という人間は少々性格が悪い。

 しばらく彼女と長時間顔を合わすことはなかったから、中学校時代のように密度の高い接触が少なく忘れていた。いつも誰かしらのことを小ばかにして、授業の宿題やら提出物の存在を意図的に隠したり、その癖自分だけは被害が及ばないところにいる。そういう狡猾な奴だった。

 だけど、タチの悪いことをする人間ではなかった。小さい悪戯ばかりを好んでやる類いの人間であって、人が死んだなんて悪辣な冗談を言う人間でないことを知っていた。だから、私達は彼女の台詞を鵜呑みにして言われるままに顔を会わせた。

「……久しぶり」

「あぁ」

 葬式、私はこういう場面を経験したのは今で二度目。何となく雰囲気は覚えている。それでもよくよく見知った人間と共に、親友の死を弔う葬式に来るのは初めてだった。清水も、それ以外のみんなも酷い顔をしていた。

「じゃあ、行こうよ」

 忽然と、それぞれの高校の制服を着て久しぶりに顔を合わせた私達はただ立っていた。一瞬誰かと思うほどに姿を変わった奴もいた。けれどそんなことを気にしていられるほど精神的な余裕はまるでない。それは清水以外の沈黙しているメンバーも、抑揚のない声で喋る清水本人も、そうなのだろう。

「うそじゃ、なかったんだな」

 いまだ茫然と、清水についていく事しか出来なかった私達の沈黙を破ったのは、この中では一番古くからコウタと交友のある青木という名前の男だった。

「そこまで私は、馬鹿じゃないよ」

 顔だけを僅かに向けた彼女の姿は夕陽に赤く染められていた。唐突に呼び出されたからいまだ現実感がなく、いつ夕方になっていたのかも分からない。茜色に染められた世界もいまだ幻のように思えてならない。

「そこまで私は、薄情じゃない」

「……悪かった」

 逢魔が時とはよく言う物で、茜から刻々と紫陽花色に染まっていってやがて闇へと包まれる不思議な色合いの世界はまるで現世とは思えない姿を映しだす。その瞬きのような奇妙で目の魅かれる色彩の中に清水の小さい悲愴が溶け込んでいく。

 豪奢な金色が一転、悍ましいものに思えた。あるいはここは辺獄の消えぬ炎に包まれ焼ける、地獄なのかもしれない。

「私だって、まだ、信じられないよ」

「……ごめん」

 前を進む清水の姿が逆光で、真っ黒のシルエットになる。震える声は黒の塊から発せられて、それでも顔は見ることが叶わない。青木の声も何かに震えていて、私の右側にいる山下は鼻を時折啜っている。それがまた、取り残されている様に思えた。

 私には茫然とする感情はあっても、泣き出しそうなほどの荒れ狂う感情はない。そもそもコウタを中心としたこのグループの中で、一番仲が薄いのは私なのだ。

「ほら、さっさと行くよ」

 僅かな沈黙が紫色に染まり始めた空に融ける。気を抜けば世界と己を判別できなくなってしまいそうな、深い静寂が正常であるかのように重厚な空気が私たちを包み込む。落ち着いているくせに、小さいくせに酷く癪に障る心臓の拍動が、みんなからも聞こえてくる様な気がした。

「こんなところで、道草食ってても意味ないでしょ」

 再び沈黙を破ったのは、少し声色がおかしくなった清水の張りきった声。

「それに時間は無限じゃない」

 宵闇と夕焼のちょうど狭間、足を進めて葬儀場に向かう彼ら。意味が分からないながらも足を止めようとしない彼らが宵の向こうに進んでいって、私だけが燃える世界に置いて行かれる、そんな幻視を太陽が沈む直前に見た。


 制服を着て参加する初めての葬式。

 私たちの世代で、私たちの年齢で葬式を経験したことがあるという人間はどれくらいいるだろう。十六、十七歳、他の家のことなどあまり知らないし、葬式に出たなんて口に出すような話題でもない。ただ、祖父母がなくなってしまったという人は割といると思う。

 私の場合は今からちょうど七、八年前の小学二年か三年の頃、父方の祖父が亡くなった。とはいえ昔のことであるし、幼い時の話であったからあまり覚えていない。なんであれば、一年にほんの数回会話するだけの間柄でしかなかった祖父の死なんぞ、大して記憶に残っていない。

 ただ覚えているのは、異常な退屈と人は死ぬのだという強い実感を得たこと。

 だからこそ、真に当事者として参加する葬式は今回で初めて。けれどいまだ卒然とした思いで満ちた私には、悲しみ悔やみと言った明確な感情が発露するほど、胸中は整理されていなかった。

 あるいは、私は酷く薄情な人間なのかもしれない。皆は感情を隠すために鉄仮面をその顔に付けているというのに、私だけがただ何もなく座っていた。

 意味の分からない言葉で紡がれる、嫌気が差すほどの長ったるい坊主の読経と、心地の良い響きの木魚の音は心中の混乱を、入り混じった感情を整理するための時間なのかもしれない。かつておあれほど退屈に思われたその時間は、私の絡まった感情をある程度解してくれた。

 どうやら、私も少なからず、悲しんでいることに気が付いた。

 別れの時くらい笑った顔を見せてくれよ、だなんて気障ったらしく中学校の卒業式に震えた声で宣った、コウタの滑稽な台詞が時折耳を掠っていくような気がした。その癖、その面白い記憶を笑うことが出来るほど私の心は強くなくて、悲しめるほど私の精神は胆略的でなくて、結局あまり分からない感情に、今私がどんな表情を浮かべているのかが分からないのだ。

 だから、こんな曖昧な思いのままに焼香を焚いてしまっていいのだろうかと思う。意味不明な感覚に流されるままに終えるのは、コウタのことを侮辱しているかもしれない。そんなどうしようもないことを考えているうちに、いつの間にか清水の番になってしまった。このまま深い感慨もなく焼香を焚くのかと、もやっとした。

 立ち上がって、焼香の前に立つ。コウタの眠る棺桶の前に立つ。

 確かに緊張はしていた。けれどそれは昔も同じで彼の存在をもう近くでは感じ取れないのだという実感からくる高尚なものではない。ここで手順を間違ってしまったらどうしようという、虚栄心からくる緊張感だった。

 あぁ、本当に、どうしようもない。

 死乳の死が現実のものとなった今も、眼前に彼の死体が安置されているというのイいまだ私は見栄ばかりを気にしている。愚かに評価に苛まれている。

 親友よりも己に注視する、救いようもない俗物である私は彼と真摯に向き合っていないのだろう。焦燥が如き感覚を伴って脳裏を占領するこの思いも、私の虚誇が生んだ上辺だけの感覚であるのかもしれないと思うと、本当に空しい。

 そうして私は抹香を掴む。それから何の意味があるのか分からない所作をした後、香炉の中に擦り落とす。彼にはまるで似合っていない、仰々しく荘厳な花に囲まれたその遺影を見て、ようやくなぜ死んだのかという思いが生まれ始める。

 野郎の癖に純粋無垢な笑みが、この空間には酷く異質で余計その思いは強まる。

 そうしてコウタに背を向ける。

 これが紺青の別れである。そこにいるであろうコウタの魂に、心の中で自然と言い放つ。悲観主義のくせに、私はアニミズム思想を持っていたことに今更気付く。

 そうして数歩、また数歩と元々座っていた場所へ歩いていく。


「……お前らでも、こんな状況になればシリアスな表情が出来るんだな」

 その一声に私の足は止められた。どこからか私の耳をほんの少し掠って言った声に、一切の思考が停止した。思うがままに振り返り、私の次の番だった宮原も驚愕の表情で硬直しているのにもかかわらず、私はそのまま声の主の顔を凝視した。

 けれど、それがいわば気の迷いだということは理解していた。この状況下でくだらない冗談なんて馬鹿げたことがあるわけがない。死者が生き返るのは、ファンタジー小説や、神話の中の話だけだ。

 私の頭は狂ってしまったのだ。どうかして、しまったのだ。

 本当に、本当に、どうかしている。幻聴が聞こえるだなんて。

「あまりに馬鹿が過ぎると一生を全うすることも、満足に成仏もできないのか」

 だからこれは私の、崩れかけの見栄だったのだろう。意味の分からない状況に苛まれ、親友として、悪友として、友愛を共に深めたヤツの死に、そうして彼死んだはずの姿を見た瞬間に自然と溢れそうになった涙をこぼさない様に。ようやく処理が追い付いて、明確になったそれに理性を奪われない様に、私の口から自然と漏れた軽口だったのだろう。

 涙がこぼれてしまいそうだった。目頭が熱を持ち、気を抜けばぽろぽろと涙が出てしまいそうだ。人前で泣くほど、子供ではなくなったと思っていたのに。みっともなく泣きたくない。そうは思っても、もう涙はそこまで来ていて、目を覆おうとした途端、涙は少しずつ流れ出てきて、

「お前まさか、俺の声が聞こえるのか?」

 茫然とした顔で、悄然とした口調で話しかけられた無粋なその声に涙は引っ込む。あぁ、なんて無粋な輩なのだろうか。確かにこいつは、こんな奴だった。

「引っ込んでろタコ。この私が泣いているんだ。黙って私の美貌に魅入られていろ」

これが幻聴であることはほぼ間違いのない事実だ。令和になってまで、死者が生者に問いかける、なんて古典的ファンタジーの横道な展開なんぞ誰が信じるというのか。

 そんなベッタベタな展開なんぞを誰が心から信じるとでも言うのか。

 清水に手を引かれるまで、私はその場で硬直していたらしい。


 そうして、清水達も半透明のコウタの存在をみえていたことを知ったのは、彼の両親が棺桶の目の前で泣きじゃくる中、ふざけたこと宣い続ける彼に小さく舌打ちをしていた時だった。

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