第2話 理子との出会い




「慎ちゃんのことが心配だわ…」

 慎司の手を取り涙ながら、母・さやかはそう言った。

「お母さん……何でも言うこと聞くから…元気になってよ。お願いだから……死なないで」

 そう願った。

 だけど慎司の思いは空しく砕け散った。

 三月二十日。

 慎司の幼稚園の卒業を見届けた三日後、母・さやかは静かに息を引き取った。

 心臓弁膜症と聞いている。

 病室の片隅に残された、紺色の真新しいランドセルが、この世に残した彼女の未練を物語っていた。


   しんちゃん にゅうがく おめでとう


 ランドセルの中から出てきたさやか直筆のメモを握りしめ、慎司はひたすら涙に明け暮れていた。

 まだ二十六歳だった若い母。

 幼い慎司には、死というものがよく分からないまでも、二度と母に会えない事は理解できた。



「お母さん……」

 葬儀が終わった後も、慎司は自宅の玄関先で膝を抱え、体を丸めて泣きじゃくっていた。

 そんな時、

「ねぇ、泣かないで」

 慎司の前に見知らぬ女の子が立っていた。

 年の頃は慎司とあまり変わらないその女の子も、何故か泣いていた。

 そして慎司の顔を自分の胸に軽く押し当てると、そっと抱きしめた。

「慎ちゃん、元気出して」

「誰?」

 慎司が聞くと、女の子は抱きしめていた腕をほどいた。

「わたしは春日理子。四月からから慎ちゃんと同じ第一小学校に通うのよ」

「かすが……りこ」

「そう、理子よ。困ったことがあったら、わたしに話してね。どんなことでも、慎ちゃんの力になってあげるから」

 涙を流しながらも力のこもった理子の言葉に、慎司は小さく頷いた。

「大丈夫よ、慎ちゃん。わたしが付いているから」

 理子はもう一度慎司の頭を抱きしめた。

 不思議な感覚だった。

 慎司はまるで、母の抱擁を受けているような錯覚を覚えた。

  


 理子の言葉通り、第一小学校で二人は顔を合わせた。

 しかも同じクラスだった。

 だけど、慎司は新しい生活に馴染めないでいた。

 母を失った慎司の悲しみは、そう簡単に癒えるものではなかった。

 理子は慎司のそんな様子をつぶさに捉えている節があった。

 思い出して泣きそうになる時、慎司はそっと教室を出るのだが、その先にいつも理子はいた。

「どうして、いつもいつも、ついてくるんだよ」

 見られたくない涙を見られて慎司はついつい口調がきつくなる。

「慎ちゃん、大丈夫…じゃないよね。困った時や悲しい時は、わたしを頼って欲しいの」

 ガサツなクラスメイトとは違って理子は大人びていた。

 見た目ではなく、精神的に早熟だった。

 そして何よりも慎司に優しかった。

「泣きたいときは泣いたらいいわ」

 理子はそう言いながら、慎司の頭を自分の胸元で抱きしめた。

「お前、何でおれに優しくするんだよ」

「慎ちゃんが好きだからよ」

「理子は、おれのお嫁さんになりたいの?」

 理子はクスクスと笑った。

「そう言うのじゃないと思うわ。慎ちゃんは…そうねえ、大切な弟ってところかな。だから大好きなの」

 慎司は理子の胸に顔を預けた。

「誰も言うなよ」

「言わないよ」

「言ったら、絶交だからな」

「分かってるわ」

 慎司は理子に抱かれる心地よさを覚えていた。

(なんだろう。この感覚)

 慎司の頭を抱きしめながら、髪に指を絡ませるその仕草が、何処か母に似ていた。

(なんだか、安心する……)

 と同時に、秘め事のような甘い罪悪感もあった。  



 夏休みに入った頃、慎司の家に若い女性がやってきた。

「慎司、今日からお前の新しいお母さんだ」

(えっ?)

 父・西岡良助が慎司に紹介したのは、母・さやかよりも若い女の人だった。

「新しいお母さんのお腹の中には、赤ちゃんがいるんだよ。お前の妹だ。たぶんな」

「よろしくね、慎ちゃん」

 と女の人は握手を求めてきた。

 だけど慎司はその手に触れたくなかった。

 理由は説明できないけど、彼女に対して慎司は、嫌悪しかいだけなかったからだ。

「西岡愛理あいりよ。お母さんと呼んでいいのよ。わたしも慎ちゃんって…」

「違う!!」

 咄嗟にそう叫んでいた。

「お母さんじゃない!! それに、慎ちゃんって呼ぶな!! おれをそう呼んでいいのは、お母さんと理子だけだ!!」

「慎司!!」

 良助の手が慎司の頬を打った。

 慎司は床に飛ばされた。

「良助さん! いけないわ」

 愛理が良助と慎司の間に割って入った。

「大嫌いだ!!」

 そう叫ぶと、慎司は二人をすり抜けて裸足で外に飛び出した。



 玄関を出ると、まるで待ち合わせていたかのように理子の姿があった。

「慎ちゃん、どうしたの!?」

 理子は驚いた顔で慎司の頬にそっと手を置いた。

「大丈夫? 赤く腫れているわ」

「理子…」

 理子の顔を見てホッとした瞬間、涙があふれて出た。

 慎司は理子の手を引くと住宅の間の細い通路裏に入って行った。

 そして誰にも気づかれない場所に着くと、慎司は理子の胸に顔をうずめた。

 理子は肩を震わせる慎司の髪に指を絡ませてきた。

「安心して。何があっても、わたしは慎ちゃんの味方よ」

 理子は話をかさなかった。

 いつだってそうだ。

 慎司が話し出すタイミングをちゃんと待ってくれるのだ。



 涙が収まり、事の詳細を話すと、理子は小さくため息をついた。

「そう言うことだったのね。良助さん…」

 と言いかけて理子は言葉を切った。

「良助さん? お父さんの名前、知っているの」

 父の名前を知っていた事もそうだが、クラスメイトの父親をそんな風に呼んだのも、子供ながら違和感を持った。

「何でもないの。それでもね、慎ちゃん。お家の人とは仲良くした方がいいわよ」

「嫌だよ。あんな奴のこと誰がお母さんなんて呼ぶかよ」

 慎司はもう一度理子の胸に顔を埋めた。

「おれのお母さんは一人だけだ。西岡さやかだけだ」

 理子は慎司の髪に指を絡めながら「分かっているよ」と優しく耳元で囁いた。

「それじゃ、お母さんが無理なら、愛理さんって呼んだらどう?」

 慎司はしばらく考えた挙句、小さく頷いた。

 納得は出来なかったが、自分の住処すみかがそこにある以上、妥協しなくちゃいけないのは、慎司にも理解できた。

「わたしが付いて行ってあげようか?」

「いいのか?」

「いいよ」

 入ってきた時とは逆に、今度は理子が慎司の手を取る形で、路地裏を出た。

 慎司の家の前に愛理が立っていた。

「慎ちゃん! 大丈夫?」

 慎司を見止めるなり、小走りに駆け寄ってきた。

「大丈夫? お父さんも悪かったって言っているわ。だから、帰ってきて」

 慎司はそれには返事しないで、理子から一歩下がった。

 愛理は慎司の隣りにいる理子に目をやった。

「春日理子と言います」

「ああ、あなたが慎ちゃんが言っていた理子ちゃんね」

「愛理さんですね」

「ええ。そうよ」

 理子の眼差しがいつもとは少し違っていた。

「主産予定日はいつですか?」

 理子は少し膨らんだ愛理の腹を見て、唐突に聞いた。

「え? えっと…十二月十日よ」

 いきなりの質問に、愛理は戸惑いを見せながらも、そう答えた。

「十二月……」

 その時理子は、今まで慎司に見せた事のない憎悪の目を、愛理に向けた。

「どうしたの…?」

 愛理がたじろいだ様子で理子に言葉を掛けた。

「何でもないわ」

 吐き捨てるように呟くと、理子は俯いた。

「慎ちゃん、ゴメン。わたし、帰るね」

「理子…」

 戸惑う慎司を残して、理子は走り去った。

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