二ノ巻

 玄達と呼ばれた忍びの本当の名について、確かなことを伝える資料はない。毛利玄達と名乗る手裏剣術の達人が柳生但馬守宗矩との立会いを演じ敗れた、などという話が巷間に伝わるがこれは元より俗説であり、玄達という名の確かな記録が見られるのは、ただ『寛永武芸諸雑記かんえいぶげいしょざっき』の中に短い叙述があるのみである。それによれば、苗字は詳らかでなく(そのようなものがあったのかどうかも疑わしい)、相模国風間庄の人であったという。風間は東国随一の忍びの里であり、のちの世には風魔の名でも知られる。魔の字を用いるのは後世の創作であるとも、あるいは彼ら自身が神君入府ののちに賊徒と堕してから用いたのであるともいう。

 この風間庄も含め、元来、忍びというものは身分軽く軽輩の身であり、普段は耕作に従事し、戦があれば雑兵と扱われ、ごく稀には密命のもと捨て駒と処されることもある、それだけの存在であった。してみれば彼も幼少から玄達などという荘厳な名で呼ばわれたはずもないのではあるが、その幼名を知る手がかりなどあるはずもなし、始めから玄達で通すこととしよう。

 玄達は風間庄の、名も伝わらぬ父母のもとに生まれた。二人とも、忍びであり、そしてまた、農民であった。兵と農の分離という観念は、まだ無い。そして、忍びと兵の区分もまた、これは皆無ではないが希薄なのである。

 玄達が数えで五つの時である。母は、玄達が縫い針に手を伸ばすのを見た。叱り飛ばそうとして、間に合わなかった。玄達は、ぷっつりと手に針を刺した。だが、いつもはすぐに泣くこの子が、血の落ちるのを見ても泣き出さなかった。幼い玄達は、じっと、朱に染まった針を見ていた。

 それから三日の後である。母は、玄達が針を持ち出すのを見た。とんでもない、と母は思った。これは、もう一度しっかりときつく叱らなければならない。針は、貧しい農民にとっては貴重であるし、また無論童が遊ぶには危い。

 だが、とんぼに針を突き刺して戻ってきた玄達は、母にこう申し開きをした。針でとんぼを刺して遊んだのではない、針でとんぼを打って、落としたのだと。

 母はにわかには信じなかった。だが、玄達は、それを実演してみせた。たまたま飛んできた蠅を、針の一打ちで、宙空に打ちき、土壁に縫い止めたのである。

 翌日、玄達は村長むらおさの前に呼び出された。村長の前で三たび針打ちの業を成した玄達は、村一番の使い手である村長から直々に、棒手裏剣の術を教えられることとなった。

 いかに忍びの里といえど、数えの五つで術を仕込むのは、異例のことであった。そして、玄達の習熟の早さもまた、異例であった。数カ月も経つうちには、里の若い衆でも誰も及ばないほどの手裏剣術を使うようになった。

 しかし師を困らせたことには、玄達は針を打つことに固執した。棒手裏剣や苦無の方が実の用を為す、針で虫くれを落とすなどは駄芸に過ぎぬ、と幾度訓じられても、ひそかに的で針打ちをすることをやめなかった。

 やがて、玄達の腕は師をも越えてしまった。もはや教うるべきことがない。だが、手裏剣の術である。これ以上、技を磨いたとて、玄妙の奥義の道などがあるわけではない。

 せめてこれが剣の才ででもあったなら、また違ったかもしれない。この頃、伊藤一刀斎弥五郎なる剣客が世に名を馳せていて、剣名を求めてその命を狙うものもいれば、求道の為にその弟子になりたがる者もあった。

 だが、手裏剣の術などは、里で教わるくらいがせいぜいである。手裏剣の達人で、手裏剣道の道場など開いているものの存在を、少なくとも村長は知らない。この馬鹿弟子を、どうしたものか。玄達は痩せており、剣を振るうには向かなかった。槍などは論外である。してみれば、戦働きにあたら使い潰すより、忍びとして使うのがよい。そう考えたが、玄達本人はといえば、日頃は人並みに野良仕事をこなし、そして、浮いた時間には延々と針を打っていた。

 その頃、玄達の使う針は、太い長い畳用の針となっていた。里回りの行商人に無理を言って、小田原の御城下から特に取り寄せてもらったものである。玄達の針打ちの業は、この頃既にもう誰にも真似のできない領域にあった。玄達は試みる。一つの針を、どれだけ遠くまで放れるか。二つの針を、うまく一度に放れるか。三つの針を、それぞれどれだけ近くに放れるか。

 玄達の業は、彼自身が理解するところでは、まだ未熟であった。師を含め、もはや理解するものはなく、話を聞いてくれる者もなくなっていたが、彼自身の感覚では、百に一つか二つ、狙いを違えているというのである。

 その芸がどれほど卓越したものであれ、見物する者は村の童より他になかったが、玄達は、誰も通れぬ道を、そして誰も目指しもせぬ道を、果てなく、進んでゆくのだった。

 そして、ある日のことである。玄達は、自分の針をしげしげと眺めていて、気が付いた。針には孔がある。畳を縫うための針を用いているのだから、当たり前だ。この孔に、何か仕込みをできぬものか。そう考えた。

 だが、玄達は業前には長けるが、別に知恵が回るわけではない。だから、愚直に、時間をかけて考えた。ようやく、一つの考えに辿り着いたのは、三日も考え抜いた後のことである。

 玄達は、針の孔に、己の髪を一筋、結びつけた。そして、投じてみた。きりりと、綺麗に飛んだ。その針が、普通の針よりもきりりと綺麗に飛んだということを、覚知できる者もまた玄達のみであったが、玄達の感覚では、そうなのであった。

 以後、玄達の針打ちの術理は百発千中の極致へと至った。既に付き合いも浅くなっていたかつての師に、己の工夫を示す。

 話半分に聞き流していた村長も、玄達が両手に八本の針を持ち、そしてそれを一度に投げ、それが綺麗な輪の形に突き立つのを見て、顔色を変えた。八の字を書けるか、と問う。玄達は左右の二打ちで八の字を描いてみせる。何を命ぜられても同じであった。

 玄達の妙技は、ほかの里の村長たちの前で披露されることになった。誰もが色をなした。村にいるときとは違って、絶賛する者もいた。玄達は、悪い気はしなかった。しかし、俺は褒められたくてこの術を磨いたのかといえば、違う、と思った。

 やがて玄達の名は風間一党の総領にまで知られることになり、そしてその技を見ていたく感心した総領、風間小太郎のとりなしによって、とうとう小田原へと向かうことになった。

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