お天気ドーム

梁川航

第1話

「──年に、こうして、ビニールハウスが開発され……代のドーム式農業……原点だと……で、非常に重要な……」

 昼下がり、6限の授業。午前中のプールのせいでただでさえ気だるいのに、最後の授業は日本史ときた。当然、授業をまともに聞いてる人なんてほとんどいない。

 教師の声と、黒板と、チョークがこすれる音だけがただ反響して、教室はひたすらアンニュイな空気に支配されていた。

 わたしは頬杖をつきながら、気だるげに教室をぐるりと見渡してみる。

 まず、寝てる子が半分。

 堂々と机に突っ伏していびきをかいてる子もいれば、腕を組んでさも授業に耳を傾けてる風を装っている子もいる。人それぞれ睡眠のスタイルが違うのはちょっと面白い現象だ。

 その次。机の下でスマホをいじってる者が残りの半分。何をしているのかは詮索しまい。

 そして。

 そのどちらにも属さない生徒が、およそ二人。

 うち一人はわたし。絶賛人間観察中。ラジオのように授業を聞き流しながら、ぼけーっと、ただ周囲を眺めている。

 というのも、昔から「授業で寝たら負け」だというポリシーがあるからだ。自分でも不思議だと思うが、長年の習慣っていうものは、なぜだかなかなか変えられない。

 で、もう一人の生徒は、教室最前列のど真ん中に陣取る女の子。ストレートロングの、いかにも賢そうな風貌をした彼女は、……驚くべきことに授業へ耳を傾けていた。それも、シャーペンと四色ボールペンを取っ替え引っ替えしながら。

 きっと、それはそれは見やすいノートが仕立て上げられているのだろう。

 ふと、ノートを貸してもらえるなんてことはないかな……なんて考えが脳内をよぎる。ちょうど期末試験も間近に迫っていた。

 しかし。悲しいかな、わたしと彼女は一回も話したことはない。さすがに(ほぼ)初対面の子に対して『ノート貸して!』とは言えないよね。

 彼女の名前は雨宮葵。

 部活は確か、園芸部だったはず。綺麗さと可愛らしさの同居した顔立ちに、丁寧に整えられたストレートロングの髪。その容姿は、控えめに言っても美少女だと認めざるを得ない。

 いくらここが女子校だといっても、彼女の美貌は埋もれない。学内指折りの美少女として、一部の人にとって「雨宮葵」の名前は知れ渡っていた。

 雨宮さんとの出会い……というか、はじめて雨宮さんを雨宮さんだと明確に認識したのは、去年、まったくアトランダムなクラス分けで、同じクラスになったときだった。そして、運よく(?)今年も同じクラスに組分けられたのだ。

 でも、高校に上がってしまえばクラスメイトなんて所詮、『同じクラスで授業を受けている同い年』くらいのつながりの薄い存在でしかなくて、いくらクラスが二年連続とは言えど、わたしは彼女について、皆が知っているようなこと以上の何をも知らなかった。

 誤解なきよう追記しておくと、彼女は別に、特段のミステリアスな少女というわけではない。ふつうに同級生と話しているところも見るし、笑っている姿も見る。きっとごくごく普通の少女なんだろう。

 要するに、私と雨宮さんとの間に交流がないのは、至極単純、わたしと彼女の生活が交わっていないからなのだった。

 原因はそれだけではない。きっとわたしが、あんまりクラスっていう空間に目を向けてこなかったことも、どうしようもなく理由の一つだった。実のところわたしは、雨宮さんだけでなく、ほかのクラスメイトのことも良くは知らない。

 これまでわたしは、雑多で広いクラスよりも、緻密で狭い部活──文藝部の方に交友関係や居場所を求めてきた。

 文藝部での学校生活は、入らなかった世界線の自分を全く想像できないくらい、自分と暮らしを豊かにしてくれた。……想像できないのは小説家の端くれとしてどうなのか、と思われるかもしれないけど、あまりに自分に近すぎることっていうのは逆に想像力がわかないものなのだ。

 それはさておき、文藝部は本当に懐の深い自由な部活だった。活動は創作、批評から単なる読書までなんでもアリ。部員こそ少なかったけれど、居心地の良い部室でする博識な先輩との話は決して途切れなかったし、飽きることもなかった。表情豊かな先輩たちにもまれていると、書いた作品を他の人に見られることへの抵抗はすぐに消えた。

 もちろん、小説を書くのは簡単じゃない。読むのと書くのはやっぱり、ぜんぜん違う。血反吐を吐きそうになりながら締切に間に合うよう何とか作品を執筆したこともある。

 しかし不思議なことに、そんな修羅場であってもわたしは、それが

 部活の楽しさと、小説を書く楽しさ。たったそれだけで、わたしは『この学校に入って良かった、東京に来てよかった』と思えた。

 ……けれども。楽しい時間は、永遠には続かない。むしろ、あっという間に指と指の間から零れ落ちてしまう。

 一か月と少し前、わたしは、ついに部活を引退した。

 一年前の文化祭が終わって部長になったと思ったら、すぐさま一年間が飛んでいき、5月の文化祭がやってきたような感じ。正直、時間の速さに驚く暇さえなかった。

 最後の文化祭では簡単な展示と部誌を企画した。当日のことは、忙しすぎてあんまり覚えていない。そして、後夜祭とともにわたしはあっけなく引退し、4年ちょっとの文藝部生活に幕を閉じることになった。

 同級生は途中でみんな辞めていってしまったから、一人だけの「卒部」になる。

 ──だというのに、かわいい後輩たちがわたし一人のために「引退式」を開いてくれたのは、ちょっと忘れがたい思い出だ。いい部活の、いい後輩を持ったな、と、心の底から思ったのだった。

 当日は部室でケーキを食べた。部活の引退式だから、卒業式みたいにボロボロ泣いてしまうなんてことはない。けっこう淡泊なものだ。

 見慣れた部室に少しは感傷的な思いを抱けど、式中はただそれだけだった。

 だが、引退式を終えた帰り道、一人になってしまったわたしは、急に淋しさと無力感に襲われてしまった。

 ──メメント・モリ、「死を忘れるなかれ」。この有名な警句で頭がいっぱいになった。ついさっきというのに、奇妙なものだった。その日は家に帰ってすぐ寝た。

 それからというもの、わたしは小説を書こうという気にも、受験勉強を始めようという気にもなれないでいる。毎日漠然とした日々が目の前を通り抜けていく。わたしはそれに干渉できない。

 結局わたしは、部活という姿に仮託された「青春」に身を捧げていただけで、本当の意味で文学に入れ込んでいるわけではなかったのかもしれない。だとしたら、それは不誠実な態度だ。──そんな風に思うときもある。

 わたしは確かに中高生活に満足していた。「やりきった」と思っていた。そのはずだった。

 なのに、なぜこんな不完全燃焼の感覚がくすぶっているんだろう。

「まだ」と「そろそろ」が同居した気分。それはまさにモラトリアムと言うしかない、甘ちゃんの思考だった。

 「はぁ……」

 一つの溜息。ふがいない自分に対して。どうしたらいいのかなあ。

 そのとき、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。それにつられて、寝ていた人たちがゾンビのように起きあがってくる。

 一方の雨宮さんは腕を延ばし、軽いストレッチをする。満足げな表情だった。

 「──じゃあ、チャイムも鳴ったから今日はここまで。期末の範囲はプリントで配ったとおりだから、しっかり勉強するように」

 教師の声を聞いた雨宮さんが号令をかける。そういえば雨宮さんは、毎年やらされているタイプのクラス委員だった。

 「起立、気をつけ、礼」「「ありがとうございました」」

 ほんの数ヶ月前なら部活やら文化祭の準備やらでそれぞれの居場所へ向かっていたはずだった。なのに、今はみんな、いそいそと帰り支度を始め、あるいは既に足早に教室を立ち去ってしまっている。塾に行くか家に帰るかなんだろう。

 高校二年生の夏。進学校の生徒にとって、受験勉強を始めるのに早すぎる時期じゃない。みんな楽しかった現役生活に区切りをつけて、次の段階へ進もうとしていた。

 そんな姿を見ていて、けれどもわたしは、すぐには立ち上がろうという気にはなれなかった。

 ──少し本でも読んでいこう。そう思って、カバンから文庫本を取り出した。ジェームズ・パリの『ピーターパン』だった。フック船長が出てこない方の。

 中庭から聞こえるランニングの掛け声を耳に、ページをめくる。すると教室のざわめきは段々と消えていき、わたしはくるくると本の箱庭へ。

 

 しばらくして、ふと顔を上げたわたしは、何となく窓の方を見やる。

 7月7日、七夕の日。コの字型の校舎に囲まれた中庭には、今日もが咲いていた。わたしは再び小さく溜息をついた。幸せはどんどん逃げていく。

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