第六章:雛壇に載せられて

「よく来てくれた」


 私たちが宴の間に姿を現すと、雛壇近くに腰掛けていた黒い長袍姿のお父さんはゆっくり片手を挙げた。


 小豆色の旗袍を纏ったお母さんも束髪にかんざしを挿した頭を笑顔で頷ける。


 この二人は身に付けているものは異なるが、確かに元の世界でも私の両親だった人たちだ。


 風貌、体格はもちろん、こちらを眺める眼差しにも私にとって慣れ親しんだ気配がある。


 そんなことを思いながら、元の親子三人で暮らしていたマンションの部屋にはなかった白檀びゃくだんの香りの漂う広間を進む。


 元の世界では私の雛人形も三人官女が紫式部、小野小町、清少納言の平安三賢女になっている二段バージョンだったのだが、この世界では段数が一気に増えてまるで広間に設えたレッドカーペット敷きの非常階段のようだ。


 近付くにつれ、最上段の男雛と女雛が中華服で、二段目の、むしろ女雛より華々しい装いの三人の女官人形に付された名前も“紫式部”“蔡文姫”“黄真伊”にされているのが認められた。


 髪を下ろした十二単じゅうにひとえの紫式部。


 これは夫とは早くに死に別れて宮仕えした女性だ。


 髷に結った漢服の蔡文姫さいぶんき


 こちらは確か夫に先立たれたり政治的な事情で別れさせられたりして結婚を繰り返した女性だ。


 髪を編み上げたチマ・チョゴリの黄真伊ファン・ジニ


 この人はそもそも妓生キーセン、いわゆる娼妓で正式な結婚をしたことはなかった女性だったような。


 それとも、この世界での歴史では三人の才女たちも元の世界とは異なる人生を送ったのだろうか。


 装いこそ異なるものの白い陶器作りの三才女の顔は赤いくちびるを一様に婉然と微笑ませている。


「甘酒、二人ともまだ飲む?」


 お母さんは並んだ二個の杯を示す。


 同じ色柄で同じ分量だけ乳白色の、酒というより何かのお乳のような液体を容れた二つの杯が私たち二人の前に置かれている。


 そうだ。


 今日はまだ雛祭りで私の誕生日なのだ。


 微かに漂ってくる糀の匂いから今更のように思い出す。


「ありがとうございます」


 隣の韓服の御曹司は一礼すると先んじて腰掛けた。


「ありがとう」


 飲むかどうかは別として用意してくれた母に告げて椅子に腰を降ろした。


 見た目は立派な椅子だが座ってみた心地は硬すぎる。


ヒョン君、今日は来てくれて本当にありがとう」


 髪形は元いた世界と同じ短髪だが(この世界では男性にはそのくらいの自由があるのだ)、服装は黒い繻子しゅすの「着ている」というより「体に張り付けている」という感じのぴっちりした長袍姿のお父さん。


 しかし、本人はそんな窮屈さなどまるで感じていない風な鷹揚な笑顔で続けた。


桃花タオホアも無事に十八歳の誕生日を迎えられた」


 本当は十七歳の誕生日だけど、この世界では満年齢ではなく数え年なので元の世界より常に一、二歳多く年を取らされる。


「雛祭りがお葬式にならなくて本当に良かった」


 昔風の束髪に挿した簪を揺らしながらお母さんは潤んだ目で笑う。


 そうすると、普通にしているより七、八歳年老いて見えた。


 元の世界のお母さんも今頃は中身が異世界の令嬢にすり変わってしまった娘に向かって同じ表情をしているのだろうか。


 それとも、元の世界では今日の雛祭りが私のお葬式になっているのだろうか。


「うちはこの通り娘しかいないものだから」


 私の思いをよそにお父さんは苦いものを含んだ笑いを浮かべた。


「娘たちの花嫁姿を見るしか先の楽しみがない」


 この世界ではお父さんにとっては姪である梅香や櫻霞も「娘」の括りだが、私たちは三人とも適当な相手と結婚して家を出る将来しか期待されていないのだ。


 お団子頭に結った髪の分け目にピッと思い出したように突っ張った痛みが走る。


 椅子に腰掛けて宙に浮いた足は踵が幾らか楽になった代わりに横からの締め付けが強まって感じられた。


「まあ、本来は一番上の娘から片付けないといけないんだけどね」


 苦笑いしたまま声を潜めたお父さんの言葉にお母さんと永南の顔も微妙に引きつる。


 古風な言い回しで「結婚させる、とつがせる」意味だとは分かるが、「片付ける」と言うと、何だか邪魔者として殺すみたいだ。


 梅香姐さんはこの世界でも独自に医学を学んで病気の私を助けようとしてくれた人なのに。


梅香メイシャンのことはお義兄にいさんたちが蝦夷地えぞちから帰ってきてからでいいから」


 お母さんはさりげない風に言い添えると自分の茶碗に口を着けた。


 何となく私もそうした方が良い気がして、まだほんのり温かい茶碗を取り上げる。


 一口含んだ甘酒は人肌よりもう少し冷めていて、舌の上にドロリと甘く広がった。


 噎せ返りそうな気がしながら飲み下すと、喉の奥に微かな痛みが残る。


 これは風邪の引き始めだろうか。


 この絹の旗袍は晴れているとはいえ三月初旬の外を歩くには少し薄過ぎるのだ。


 そう思い当たると、今更ながらぞくりと肌が粟立つのを覚えた。


櫻霞インシャの婿選びも三弟サンディたちが羽州うしゅうから帰ったら本格的に決めたいとこの前、手紙が来たしな」


 お父さんはどこか事務的な声で語ると、自分の茶碗を口に運ぶ。


三弟サンディ”とはお父さんの弟、つまり私にとっては叔父さん、櫻霞にとっては本当のお父さんに当たる人のことだ。


 元の世界では山形の叔父さんはまだ中学生の櫻子ちゃんを可愛がる子煩悩なお父さんでしかないのだけれど、こちらの世界ではもう一人娘の配偶者選びを視野に入れる段階なのだ。


 どちらの世界でも、まだ満年齢では十四歳にもならない、同い年の男の子から強く物を言われれば目を潤ませて俯くような幼い娘なのに。


「三のお嬢様、こちらへ」


 不意に向こうから聞こえてきたジェンの恭しい声に振り向くと、長身の老執事がまるで守るように早咲きの桜の枝を手にしたお団子頭の従妹を別室に導くところだった。


 まだ十一、二歳にしか見えない三妹サンメイのこちらを見詰める瞳にはどこか恐れの色が宿り、その向こうにはまだ二十歳はたちのはずなのに何かを諦めた風な大姐おおねえ様の立つ姿も認められた。


「君のことは実の息子も同然に思っている」


 品の良い中華服を着た、“リーの旦那様”と他所の人からは呼ばれているお父さんは最初と同じ鷹揚な調子で私の隣の永南に語った。


 その穏やかな顔にも温かな声にも嘘っぽさや作り物めいた感じなど微塵も感じられないが、何故か背筋にゾクリとしたものが走る。


「ありがとうございます」


 韓服の御曹司はどこか寂しい、諦めた風な、年より十歳は老けて見える笑顔で答えた。


「私がお客様のお忘れ物がないか確かめてから掃除するから、あなたは食器を片付けて」


「分かりました」


 廊下を呉さんと貴生(と呼び捨てにするのはためらわれるけれど)が小声で語り合いつつ早足で通り過ぎていく。


 テーブルを囲んでいる私以外の三人はそれぞれの正面を向いたまま、使用人二人には目もくれない。


 不意にシンとして切れ目のような沈黙が訪れた。


 そうなると、今までは意識しなかった客間全体の薄暗さが浮かび上がるように目についた。


 今、何時なんだろう?


 もう夕方の五時近くかな?


 甘酒の糀と活けられた桃の花のまだ青っぽい匂いが漂う中、そんな当たりを付けたところで客間全体がうっすら卵色に明るくなった。


 振り向くと、天井から下がっている提灯の一つが仄かに点っていて、ジェンが新たに二つ目に火を点す所だった。


「灯りをおけします」


 大丈夫ですよ、という風に老執事は穏やかな笑顔で頷いている。


「ありがとう」


 はっきり伝えた瞬間、部屋はまた少し明るくなった。


「ところで、グエンの家にもうすぐ赤ん坊が生まれるそうだね」


 お父さんが打って変わって明るい調子で切り出した。


愛國アイコックには子供の結婚も孫も先を越されちゃったな」


 そういえば、中学生の頃、PTAの会報誌に役員として載っていたグエン君のお父さんの名は「グエン・アイコック」だった。


 元の世界のお父さん同士は特に交流はなかったはずだけれど、この世界では名家の同世代の男性同士として付き合いがあるのだろう。


 ただ、卵色の提灯に照らし出された結果、昼の陽の下で目にするよりも老けて見えるお父さんを眺めていると、私はまだ会ったことのない「グエン家のアイコック」さんも、やはり、元の世界にいた人と同じ顔と名前を持つ別人のようにも思えてくるのだ。


「あなたももう十八歳」


 束髪のお母さんは厳しい調子で私を見据える。


クワン家のお嬢さんはあなたより一つ下でもうとついで子供が生まれるのよ」


 元の世界のお母さんは高校生の私が男の子と連絡を取るのにすら目を光らせたが、この世界ではいちはやく男性と結婚して子供を産むことを娘に求めるのだ。


 だからこそ、こんなだだっ広い客間に非常階段みたいなバカ高い雛壇をしつらえて雛祭りを祝っているのだ。


 ジェンが黙々と点けていく灯りのおかげで部屋は明るくなっていく。


 しかし、中華風の女雛も、男雛も、東亜の三賢女も、東南アジア風の五人囃子も、血のように赤い雛壇から微動だにせずにこちらを見下ろしている。


「来月にはヒョンさんも十九歳になるし」


 お母さんは今度はにこやかな表情で私の隣の永南に語る。


 そういえば、元の世界の張本君も四月生まれだった気がする。


 同級生とはいえ来月で満十八歳になる彼と雛祭りの今日やっと満十七歳になった自分とでは一歳近い差がある。


 この世界での私は学校に通っていないから、永南が完全に一歳年長の扱いなのだろう。


 そんな風に思い巡らす内にも客間が一段階ずつ明るくなって、とうとうジェンの長身の後ろ姿が最後のまだ点っていない提灯の所にまで辿り着くのが認められた。


端午たんごの節句辺りを目処めどに式を挙げるのはどう?」


 パッと目の前が真っ白になって、耳の中から一瞬、全ての物音が消える。


 式を挙げる?


 私とこの隣の彼が結婚?


 全身の血がワーッと煮立って心臓が速打ちを始める。


 頬は火照ったように熱いのに、手や背筋はうそ寒い感じに震えた。


「もう病気も治ったことだしな」


 色と形を取り戻した視野の中では、変わらず上等な長袍を纏ったお父さんが鷹揚な様子で私に頷いている。


「前々からチャンさんのご両親ともそういう話はしていたの」


 小豆色の旗袍に加えてきっちり結い上げた髪に簪まで挿したお母さんは何故そんなに嬉しそうなんだろう。


 痛みや窮屈さに慣れてしまって今更意識することも無いのだろうか。


「僕はそれでもいいけど」


 隣の永南は不幸な結末を半ば予期しながら諦めた人の目でこちらを振り返った。


「君は?」


 そうだ、私に選択肢などはない。


 このまま周りが勧めるままに彼と結婚するしかないのだ。


 決して嫌いな相手ではないし、例えば娼婦や下女の身分に落とされて生きるとかいうより絶望的な道ではないはずだ。


 卵色の灯りに隈無く照らし出された客間で、同じテーブルを囲んでいる六個の目がこちらに答えを迫っている。


 少し離れた場所から、老執事の灰色の瞳もどこか悲しげに見守っていた。


「私は……」

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