復讐劇に役者は何人必要か

角見有無

Curtain raiser

眩い時代

――――新暦一九九八年 桔梗の月一七日



 下手しもての舞台袖でトリッシュはこくりと喉を鳴らした。握りしめた拳は微かに震えている。しかし緊張状態にあると同時に期待に胸が高まっているのも事実で、幕が開く時間を楽しみにしている自分がいた。

 ふと、舞台袖ぎりぎりのところで舞台を確認していたジェセが振り返り、トリッシュと目が合う。二人は言葉こそ交わさなかったが、無言のままでにやりと笑い合った。

 今日はトリッシュの通う独立学校インデペンデントスクールの文化祭だ。彼女のクラスでは、史実に基づいた演劇を上演する事になっていた。劇の主役に抜擢されたトリッシュは最初こそ気が重かったものの、今では劇を成功させようとする使命感のほうが勝っている。

 ついに開幕の時が来た。時間だと誰かが小さな声で告げる。クラスメイト達の視線が一瞬だけ交差して、やがてすべての視線を集めたトリッシュは彼らに応えるように頷いた。

 かちりかちりと針を進ませる時計の音に背中を押され、舞台に向かって一歩足を踏み出す。所定の位置は舞台の中央。祈りを捧げるかのように跪き、幕で覆われた薄暗い舞台の上でトリッシュは一人静かにその時を待つ。

 鳴り響く開演を告げるブザー。徐々に幕が開き、観客席の照明が射し込んでくる。しかし暖色の明かりはすぐに絞られていき、ついにホールで光源と呼べるのは舞台上のトリッシュを照らすスポットライトだけになった。


「――嗚呼、この世は悲劇に満ちている!」


 鮮烈な白のライトを一身に浴び、トリッシュはゆったりと立ち上がる。すべての視線が彼女に向けられていた。緊張で足が震え、興奮のあまり頬が紅潮する。それらを観客に悟られないように、トリッシュは朗々と声を張り上げた。


「大地は痩せて海は穢され、人は飢えに苦しみ、意義なき戦の炎は消えず、今日もまたどこかで若き命が花と散る。これを悲劇と言わずになんと言う?」


 胸の前で組んだ腕をほどき、観客席を切るように水平に右手を動かす。その動きは少しぎこちなく表情も硬かったが、次第にその緊張から来る不自然さも修正されていった。

 これも、日頃の練習の成果だろう――――あるいは、それ以外の要因がこの舞台にあるのかもしれない。


「あるいは神よ、これが貴方の望んだ世界なのか?」


 荘厳なパイプオルガンの調べに合わせて語る。覚えた台詞は一言一句違えずに。脚本担当のアレックスが様々な資料をもとにして書き上げた台詞は、トリッシュの心に違和感なく溶け込んだ。


「ならば私は、そのすべてを否定しよう――私は貴方を、神だなどとは認めない!」


 両手を大きく広げて天井を仰ぐ。オルガンの音色に導かれるように、トリッシュは悠々と舞台の上を歩いた。


「私は正しき神の言葉を告げし者。人々の目が神の名を騙る魔物によって曇らされているというのなら、私が彼らを救ってみせよう!」


 鮮烈な宣言の後、トリッシュは下手しもての端まで引いていく。

 辿り着くと同時に、上手かみてから左目に眼帯をつけたキットが姿を現した。もう一つのスポットライトが彼を照らす。小道具として用意したステッキをくるくると回すのはキットのアドリブだ。

 彼はよく練習中にステッキを回していたが、成功する確率は低かった。歩きながら綺麗な円を描くようにステッキを回すのは思ったより難しかったらしい。

 だが、もし本番中に手を滑らせてステッキを落としてしまったら話にならない。どうか落としませんようにと念じながら、トリッシュはそっと目を伏せた。


「見るがいい、この世の喜劇を!」


 どうやら願いは通じたらしい。キットは器用にステッキを操り、取り落とす事なく所定の位置である舞台中央まで歩ききった。そのまま彼は石突を勢いよく床に叩きつける。

 その瞬間、パイプオルガンの音がぴたりと止んだ。代わりに聞こえてきたのは、どこか不安になるようなか細いピアノの旋律だ。


「何が善で何が正義か、それすら人はわからない! 何も考えられぬまま家畜の業を背負って生きる、これを喜劇と言わずになんと言う?」


 ステッキを握る右手はそのままに、観客席を切るように水平に左手を動かす。その動きは堂に入っていて、指先一つとってもぎこちなさなど欠片もない。彼はもう役に入り込んでいるのだ。負けていられないと、トリッシュは心の中で挑発的な笑みを浮かべた。


「あるいは神よ、これが貴様の愛する世界なのか?」


 キットはくつくつと笑う。不気味なピアノの音色に合わせ、彼もまた悠々と舞台の上を歩いた。向かう先はトリッシュの反対側、上手かみての端だ。


「ならば俺は、そのすべてを否定しよう――貴様に代わり、俺は新たな神となる!」


 言い切り、キットはトリッシュをめつけた。鋭い隻眼がトリッシュを射抜く。トリッシュはそれを迎え撃つように睨み返し、人差し指を彼に突きつける。


「嗚呼、やはりこの世界は魔物に侵されているらしい! そうでなければあのような悪徳の権化が、国の頂点に君臨できるはずがないだろう!」


 普段から憎まれ口を叩き合っている仲だからこそ、芝居がかった糾弾の言葉もそういったやり取りの一部だと思えば気恥ずかしくもなんともない。どうせ向こうだって似たような事を言うのだから、それについてからかわれる事がないというのもトリッシュの気を楽にしているだろう。


「傲慢なる悪魔よ、覚えておくがいい。我が名はクリスティーヌ・ベルジュ。この名にかけて、必ずお前という悪を討つ!」

「くくくっ……ははははははははっ! 面白い。その勝負、このパトリック・ローランドが受けて立とう。無知なる聖女よ、力比べといこうじゃないか!」


 キットは口許を歪ませ、トリッシュも口角を吊り上げた。舞台上の世界には二人しかいない。この瞬間は観客の視線さえも意識から消えていた。互いの姿をしかと目に映し、劇の主役と悪役は歌うように宣する。


「聖女が悪魔を討つのが先か、はたまた悪魔が聖女のすべてを飲み込み塗り潰すのが先か」

「どちらの力が上回っているのか、最後に笑うのはどちらなのか、それは神でさえも知りえない」

「ならば世界のすべてを証人に、今ここでそれを明らかにしよう。勝者となるのは誰なのか」

『さぁ、はじめよう! 喜劇と悲劇の演目を!』


 彼と彼女の言葉が綺麗に重なった瞬間、照明がすべて落とされて舞台は暗転した。

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