第2話 変わらぬ恋

 朱音。それが彼女の名前だ。


 優奈は親しげに俺を呼ぶ朱音を不審に思ったらしい。高校時代の友人だと説明しておいた。嘘は言っていない。ただ優奈は、朱音が美人だと言うことを理由にやきもちを焼いていた。

 店が混んでいたこともあり、朱音とは二言三言交わしただけだが、何を言ったかも憶えていない会話が、以前の五割増しも魅力的になった朱音が、ずっと頭から離れなかった。

 その日は夕方頃文化祭から引き上げた。優奈に気取られないようにしていたせいで、どっと疲れが押し寄せる。


「今日は楽しかったです。先輩といる日はいつも楽しいですけどね」


 周りに人がいるのを憚らず、優奈と軽い口づけを交し、


「それじゃ、また。帰ったらメールしますね」


 電車に乗り込む優奈を見送ってから、俺は携帯を取り出した。

 本来なら逆方向の電車に乗って帰るのだが、今日に限っては無視できない懸念事項がある。

 ディスプレイには、再会を久しく思い、今夜会えるかを尋ねる旨の文面が綴られていた。


 高校時代以来、久しくなかった朱音からのメール。連絡先を知らなかったわけではないが、なんとなく気まずくて連絡が取れなかった。一旦間が空いてしまうと、それからは気まずさが増す一方で、結局今日まで朱音の進学先さえ知らなかった始末だ。

 正直少し迷った。今の俺には優奈という恋人がいるわけで、たとえやましい事実が無いにしろかつての想い人と二人きりで会うのはいささか後ろ暗いものがある。

 挙句、俺は朱音の誘いを断ることができなかった。そりゃそうだ。たとえ誰かに浮気者と罵られようと、俺の心は朱音と会いたがっているのだから。優奈には黙っていればいい。旧友と久闊を叙するだけなのだ。報告する義理はないだろう。


 待ち合わせの時間と場所を尋ねる文面を送る。返信はすぐに来た。

 優奈に罪悪感を覚えながらも、俺の胸は期待で膨らんでいる。

 指定されたのは朱音の大学からほど近い駅前のバスターミナルだった。時刻は十九時。夕陽も完全に落ちて、俺はジャケットごしに多少の肌寒さを感じていた。三十分も前に到着した俺は手持無沙汰に携帯を弄りつつ、冷静さを取り戻そうと努める。なかなかどうして、収まってはくれなかったが。


 約束の時間を五分ほど過ぎた頃、俺の目の前で一台のバスが空気の抜ける音を鳴らして停車した。数人の降車客に混じり一際目立つ容姿の女性が見え、それを朱音だと理解するのに二拍ほどかかり、理解した途端に逃げ出したくなった。

 朱音は俺に気付くと、にっこりと笑みを浮かべた。それは優奈の儚げな微笑みとは違い、溢れんばかりの生命力を感じさせる。思わず引き寄せられてしまうような満面の笑顔だ。


「久しぶり」


 心地よい、張りのある透き通った声。


「ああ」


 長かった髪は肩のあたりで切りそろえられており、そのせいで印象が違う。すらっとした体躯に落ちついた色合いの服を纏った朱音は、記憶の中の彼女よりずっと大人っぽく見えた。ただ短いスカートを履いているのは昔と変わらない。


「髪、切ったんだな」


「最近ね。どう、似合う?」


 言うに及ばず、これ以上ないほど似合っている。


「まあまあかな」


 俺の口をついて出たのはそんな言葉。

 朱音は小さく笑うと、昔を懐かしむように俺を見る。


「そのぶっきらぼうな感じ、相変わらずね」


 朱音と違い、俺は大学生になって変わった自覚は無い。あるとすればほんの少し世間を知って、目算では解らない単位で身長は伸びただけ。

 お互い夕食がまだだったこともあり、「お酒、飲みいこっか」との朱音の提案で居酒屋に行くことになった。彼女は俺の手を取って歩き出す。約二年振りに触れた朱音の手は、以前と何も変わっていない。白くひんやりとした手のひらだった。


 ごめんな、優奈。

 俺やっぱり、まだこいつに惚れたままだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る