018:土下座(後)

「あだだだだだっ、サ、サキさん、どうか冷静に」


「私は冷静よ、イツキ君。自分でも不思議なくらいに。だってカレシから別れ話を聞いてそのカレシの頭を踏みつけにしているのよ? なのに何も感じないくらいに冷静よ」


「サキさん、それ冷静じゃなくて冷酷なだけです。怒ってます? 間違いなく怒ってますよね!?」


「へぇ、そうだったの。私、あんまり怒ったことがなかったから気付かなかったわ。で、それは誰のせいかしら?」


「……誰でしょ?」


 生きてる上で聞いたことのないミシミシという音が頭蓋に響き渡る。

 多分その音を聞いたことのある人間はきっと少ないだろう。これは貴重な経験だ。

 などと考えている場合ではない!

 もう一息で俺の頭でスイカが割れた季節外れの凄惨な光景が実行されてしまう!


「いっだだだだっ! すみません! ごめんなさい! 俺です! 俺が悪いんです! でも聞いてください! 別に俺は別れ話をした訳ではありません!」


 一瞬、頭に掛かっていた圧力が和らいだ。


「……いいわ、とりあえず話だけは聞くだけ聞いてあげる」


 ここしかない。ここを誤れば俺の頭は弾け飛ぶことになる。

 慎重に言葉を選ばなければ。


「そ、その俺、実は姉さんに逆らうことが出来ないんです。だからその時、拒否することが出来なくて……そのぉ、だからサキさんにご相談した所存でして」


「つまりイツキ君自身は本当は別れるつもりはなかったってこと? それじゃあ私とこれからも付き合っていたいって思っているってこと?」


「……ええ、まあ」


「間があったのが少し気になるんだけど」


 俺も余裕がなくて一瞬素の反応をしてしまった。

 それは当然、別れるつもりがない訳ではなかったからだ。

 しかしそれを今はまだ口にすることは出来ない。

 その事は一先ず置いておいてでも今はまずは姉さんのことを解決することを優先するとしよう。

 気が付くと場を包み込む不穏な空気とサキさんの足から伝わる圧力を感じなくなっていた。


「ふぅ、まあいいわ。今回だけは許してあげる。でも次はないから」


「はい、ありがとうございます。以後、気を付けます」


 やっぱりサキさんは怖い。

 そしてきっと次があれば本当に俺の命はなくなってしまうだろう。

 これはまた別れるのが難しくなったのでは?

 てかまだ足は頭の上のままなんですね。

 そろそろ下ろしてくれても良くないですか?


「でもおかしいわね、貴方の戸籍には『姉』なんていなかったはずだけど」


 戸籍って……さらっと言ったけどどうやって知ったんだよ。いや深く知りたくはないけど。


「それは……戸籍上は『姉』ではないんです」


「どういうこと?」


 そこでようやくサキさんの足が頭上から離れた。

 すぐに顔を上げればタイツ越しとはいえサキさんの下着が見れたかも知れないが、俺はそんな愚かなことはしない。

 そんなことをすれば再びサキさんのおみ足が俺の頭上へと戻り、顔面を思い切りコンクリートの床に打ち付けることになり、今度こそ弾けてしまうのは明白だ。

 それに下着程度に興奮するほど俺は子供じゃない。あんなものはただの布切れ。全然見たくないし、全く見たくないし、別にサキさんが怖い訳じゃないし、負け惜しみじゃないし。

 待て待て。ここからは少しばかり真剣な話になる。俺は気持ちの切り換えをしながらゆっくりと顔を上げた。


「姉さんは母さんの再婚するはずだった相手の娘さんなんです」


「再婚するはずだった? ということは再婚はしなかったってことよね?」


「ええ、俺が小学生の時に母がその再婚相手を連れて来たんです。でもすぐは結婚せずに俺が高校生になるまでは待つって。『一緒に暮らしてもし嫌に感じたりしたなら言ってくれって。その時は結婚をやめるから』と。子供だった俺と姉さんを気遣ってのことだったんでしょう。でも実際には一緒に住んでいたのでほとんど事実婚の様な状態でした」


「けれどイツキ君も高校生よね。そして今、結婚していないってことは……」


「はい、結婚の話はなくなりました。俺が中三の時ですね」


「……それじゃあ貴方達のどちらかが結婚に反対したってこと?」


「いえ、俺も姉さんも二人のことは祝福していました。それに義父さんは三年間、父親として俺に接してくれました。本当の父親の記憶がない俺にとって義父さんはもう本当の父の様に思っていました」


「それじゃあ、なんで結婚しなかったの?」


「それは……」


 やはりこうなったか。

 姉さんのことに触れるのならこういう話の流れになることは想定していた。

 しかし『あの事』を口にすることはいかに俺でもまだ躊躇いがある。

 上手く誤魔化すか、もしくは素直に話すか。どうするか少し迷っているとサキさんの口からは意外な言葉が出た。


「まぁいいわ。話してもいいと思ったなら話しなさい」


「……言わなくていいんですか?」


「込み入った話なのでしょう? それを今、無理やり聞き出すつもりはないわ」


 意外だ。サキさんなら追及してくると思っていた。いや、意外と言うほどでもないか。

 この数日で見てきたサキさんは思いの外、人間らしい反応が多かった。

 サキさんも俺が話しづらそうにしていることを察して気を使ってくれたのだろう。

 俺はサキさんのことを高圧的で横暴で暴力的な人だと思っていたけど、そんなこともな……ないこともなかったかな? でも人間らしい優しさも一応は持ち合わせてらっしゃるようだ。


「でもそれは、私とイツキ君の関係が変わらなければの話だけど」


 それもそうだ。

 ここで別れることになれば聞く必要のない話になる。

 だがサキさんのこれまで言葉を聞く限り、そのつもりはないと判断していいだろう。


「いいんですか? サキさんにも迷惑が掛かるかもしれませんよ?」


「馬鹿を言わないで。どこの誰とも知れない女の意見ひとつで私が別れるとでも? 私に別れるつもりはないわ」


 もしこれでサキさんが別れることを選ぶならそれはそれで良かったのだが、しかしあの姉さんに対抗するならこれ以上の味方も中々いないはずだ。

 姉さんも今のカノジョであるサキさんのことまでは知らないはず。……多分。

 ならば勝機はある。ある? あるかもしれない……。

 少なくともそれ以外にはないことだけは確かだ。

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