【短編】新幹線の車窓から

江戸川台ルーペ

(上)

 東京駅、新幹線のグリーン車のシートに深々と身を預けている女は、静かに滑り始めた景色に目を向けた。ホームで誰かを見送る人々、キオスク、ベンチ、予備校の広告、そうしたものが徐々にスピードを上げ、後ろへ消えていった。その頃には新幹線の鈍い振動と低いモーター音が定刻の出発を明らかにする。車内放送が聴いた事のあるメロディーにのせて、行き先と停車駅を告げる。女はその瞬間が好きだ。出発したばかりの新型新幹線はするすると東京の夕陽を反射するビル群を縫うように走り、やがてスピードを上げていくだろう。


 女は軽装だった。

 白いブラウスに肘まで捲った青色のカーディガン。足首までの黒い麻のスカート。靴はコンバースで、いかにも週末の一人旅を楽しもうという雰囲気であったが、少し大振りなマリークワントの黒いハンドバッグの他に手荷物は無かった。そのバッグの中には拳銃 ──ベレッタM9が収められており、大きな領域を占めていた。他に拳銃と共に仕舞われている物は、細々とした物を収めたポーチ、ハンカチ、 長財布、ピルケース、半分程中身がないスペースに百円ライターを突っ込んだクシャクシャのラッキーストライク、むき出しのiPhone、といったところだった。食べかけの菓子パンもくしゃくしゃのまま入っていたが、それには手を付けない方が良いだろう。数ヶ月程前に、台風のせいで通勤列車が遅延した時に買い求めたものだからだ。肩に届かないまっすぐな黒髪、今は小さな顔を丸いサングラスで隠し顔を窺い知れないが、気の強そうな鼻と唇の形から、美しい女である事がわかる。なるべく周囲に溶け込んで、目立たないように気配を殺しているが、難しそうだ。女が纏う緊張感が落ち着きを無くさせる。


 車内はほとんどが空席で、同じ車両には女の他に男女四名程がばらばらに座っていた。五十代のサラリーマン、別荘に出掛ける老夫婦、海外から帰国したであろう同年代の女性。新しい新聞の匂いが心地よい空調と共に少し漂った。女の鼻はとてもよく効いた。以前、公安調査官として、特殊な訓練を受けていたからだ。


 女は数年前に然るべき実績を上げた後に公安を抜け、逃亡した。特に個人的な、やむを得ない事情があり、女は要観察であった最重要人物を射殺したのだ。その事自体に後悔は無かったが、日常生活を送るにはいささかの不便が生じた。公安と共に、某国の掃除屋達から追われる身となったからだ。女は公安のやり口には熟知していたが、某国の掃除屋連中には一定以上の警戒心を常に尖らせていた。彼らに通じる道理は無かった。指令こそが彼らの遂行すべき仕事であり運命にさえ等しかった。本国に残された彼らの家族、二親等までの血族の命運が握られているからだ。


 彼らのやり口は残虐だった。身内を人質に取られるという、フラストレーションが彼らの倫理観を焼き野原にしているのではないかと女は想像した。職務として彼らの拷問や殺戮の動画を閲覧せざるを得ない時に、洗面所で嘔吐しながらそう感じたのだ。そうでなければ、人間がここまで残虐になれる理由を探す方が不可能のように思われた。彼らは音楽を掛けながら、拘束した裸の人間の左足の小指から順番に切除していった。やがて上へと範囲を広げ、左脇腹のあたりで本人の目の前で削いだ肉を調理し、食べさせた。止血し、時に輸血や鎮痛剤・鎮静剤を注入しながら、生きている限り最大限の苦痛と陵辱を与える事にのみに喜びを見出しているかのようだった。最後は生きたまま薬剤で溶かし、世界はその人口をたった一名減するだけに留まった。女には理解が出来なかった。単なる数字上のマイナス1にも、その中途には様々な方法と事情がある。


 自分には新しい人生を送る事ができる、と女は信じていた。しかしそれはいとも簡単に、目の前から損なわれてしまった。誰かに「お前はもう、真っ当な人生を送ることは出来ない」と宣言された訳でも無かった。あるいは「お前は幸福を味わうには手遅れな事をやってしまった」と告発された訳でも無かった。女にとっては、むしろその方が良かった。誰かに「お前は幸福になれない」と断言された方が心地良く受け入れる事が出来たし、夜眠れない時に感じる不安の拠り所として、ありがたくお言葉を頂戴できた。しかし女の周囲には心を許せる人間も、憎むべき人間もいなかった。誰もいなかった。


 内的に生じた空白のようなものを癒す方法が女には分からなかった。絶望と置き換えてみることも試みたが、あまりに悲劇のヒロインに酔っているように思えて気分が悪くなった。これは飽くまで自分自身の問題なのだ、と女は思い直した。悲劇や絶望とは、自らの力が及ばないところで語られる物語である筈だ。自分は生きている。そしてこれからも自分一人で生きていく為に、今までの、それ程悪くなかった平穏な生活を棄てたのだ。誰かに慰められる前に、その惨めさを目の当たりにする恐怖から逃亡したのだ。実際的に生きていく方法を模索していかなければならない。そこに必要なのは金であり、屋根が付いた住む場所であり、心落ち着く自分の部屋であり、懐かしい過去をゆっくりと愛おしむ事ができる暖かいベッドであるはずだった。


 女は目を閉じて、男の熱い精液を腹に受けた感覚を思い出した。昔裂かれた腹の傷、そこに向けて飛び散り、胸にまで達したおびただしい量の精液は、女の自慰に度々登場する思い出となっていた。女は同性愛者であったが、嫌いではない、心を開くことさえも許そうとした異性が自分に向けて射精した、という事実が、情けない程の無力感に苛まれ、不安と孤独と恐怖に埋もれる自分に手を差し伸べてくれているような気持ちになった。女は自らも達した後、その暖かさを感じる度に深く混乱する事になった。理由は分からない。そうして深く愛した、既に損なわれてしまった女に対してほんの少し罪悪感を覚えるのだった。


 自動ドアが開き、車内販売のワゴンが入ってくる音がした。販売員の女が一礼すると、ゆっくりと静かに通路を押して歩いた。物静かに、空間を乱さないように、動作の一つひとつに神経が行き届いていた。それがゆっくりと通過する時、女の嗅覚が僅かに異変を察した。薬品の匂いだ。そそっかしい歯医者が消毒液をこぼしてしまったような。それは遠く川上から運ばれる夏の冷気のように、薄い記憶が女の脳を鋭くノックした。しかし世にありふれている匂いでもあった。ある海外メーカーの口内消毒液で口を濯いだ後、数時間後に同じ匂いがする事があった。それは某国の掃除屋達の特徴とする匂いでもあった。彼らの母国で食べられる発酵食品が体内に取り込まれ、汗腺から発せられる揮発性アルコールのような匂いは、否が応でも女の記憶を呼び戻した。


 車内販売のワゴンの販売員が一礼をし、去っていくと、女はトイレを装って後をつけた。万が一という事も考えられる。掃除屋連中が自分を追い続けていることは確実なのだ。将軍様のきまぐれで命令が取り消される事はない。女は気になった事は目で確かめなければならない性分なのだ。


 グリーン車の車両を出ると絨毯が敷かれたラウンジのような広さの乗降り口があり、洗面所とトイレが先に続いていた。突き当たりは普通車両の自動ドアで、販売員は入り口の脇にワゴンを止め、姿は見えないが、小さな声で話をしているのが聞こえた。女は足音を忍ばせてゆっくりと歩き、トイレの扉に手をあてて耳を澄ませた。車内販売の女は、勤務中に電話をするものなのだろうか? アジア国のイントネーションで話をしていたが、もともと小声であったし、モーター音にかき消されて分からなかった。


 女は血が頭に昇って、目眩がした。

 あの消毒液のような匂いがどうしようもなく鼻についた。恐らく話をしている内に、吐息や粘膜から抑えきれない微粒子があたりを満たしたのだ。間違いない。あるいは間違っているのかも知れない。100%掃除屋の一人であるとは言い切れないかも知れない。だが女は自分の行動を制御できなかった。


 女は販売員の横に立った。

 販売員の女はそこでようやく女の存在に気付き、目を少し見開いた。そして「何かご用ですか?」とでも言おうとするかのように携帯を二つに閉じながら優しげな目をした瞬間、女は販売員の顔面を持って思い切り後頭部を壁に叩きつけた。運良く一度の衝撃で気絶したのか、販売員が大声をあげる事はなかった。女はその場で首の骨を勢いよく反対側へ曲げ、殺害した。それから地面を引きずってトイレに押し込めると、洗面台に掛かっていた「調整中」のフダを閉じたトイレの鍵のところへ引っ掛けた。


 女は洗面台の鏡で乱れた髪の毛を整えた。サングラスを外し、汗を拭いた。鏡に映った自分の顔は、どう控えめに見ても恐ろしい顔をしていた。さっき人を一人殺した目だ。人ではない何かになっている。何しろ隣の便所の個室では女が鼻と口から血を流して死んでいる。世界の人口からマイナス1。だが幸運な死に方だったと言える。プロセスを省いて、結果的に死んでいるに過ぎない。


 女は蛇口を捻り、勢いよく放出される水を両手で掬うとゆっくりと顔を洗った。そして自分の頭は狂っているのではないか、と深く自問した。恐らく狂っている。普通、人は疑わしいというだけで他人を殺したりしない。だが私は、そうした一種の感覚に従わなければ、私は私の肉を削がれ、生きたまま喰らわされる羽目になる。疑わしい者に与える時間は、自分の首に掛かった縄が締められるのを黙して待つに等しい行為だ。メイクなどどうでもいい。この汗のような、死者からのぬめりを洗い流さなければならない。たっぷりと水を手に取り、大きく息を吐きながら首筋の後ろまでしっかりと擦った。紙タオルを乱暴に数枚引き出して顔を拭うと、サングラスを元通りに掛け、グリーン車の自分の席に戻った。


 次の駅で下車しなければならない。しかし停車まであと四十分ほど時間がある。彼女が仲間と連絡を取っていたとして、自分が座っていた席を明かしているのは間違いない。どこか違う席に座った方が安心ではないか、女は逡巡した。しかし、連絡が途中で途切れ、仲間が行方不明となると奴等は真っ先に席に座っている者を疑うだろう。そしてその席に「」が座っていなかったら、何人の仲間がこの新幹線に乗っているかは不明だが、捜索が始まるに違いない。そうすればこの狭い新幹線の中で逃げ切る事は不可能だ。車両が比較的空いているのが仇となった。ならばここで待ち受ける方が、何倍も有利だ。誰かが話しかけてくれば、そいつをどうにかすれば良い。


 車窓から見える景色は既に夜になりかけで、田園風景が闇に染まり掛けていた。自分の顔と、通路の電気がぼんやりと反射していた。女は注意深くマリークワントのバッグを開けると、M9のマガジンをそっと引き抜き、改めて装填した。最後に手入れをしたのはいつだったか、思い出そうとしたが無駄だった。思い出せない程の昔だ。奴を射殺した時以来、引鉄を引いた事はない。単なる御守りに過ぎなかった拳銃は、バッグの中でひんやりと冷たく、重たかった。消音器は無い。


 数十分後、グリーン車のドアが音もなく開いた。目を向けると、車掌の格好をした若い男が立っていた。深々と一礼すると、「乗車券を拝見致します」と低い声で言い、進んできた。女は三番目になりそうだった。


「ありがとございます」


 目を線のように細め、胡散臭い笑顔を振りまきながら車掌は席ごとに切符をチェックし、こちらにやってきた。


「ありがとうございます」


 女はずっと景色を眺めていた。車掌が女の座席横の通路に立った。


「切符を失礼します」


 女は窓際に左肘を突き、顎を乗せてずっと外を眺めていた。右手はマリークワントのバッグの中に手を入れて、そっと鈍重なM9を握りしめていた。


「切符を失礼します」


 女はチラリと車掌に顔を向けると、口を利かずに目だけを隣のシートに落とした。そこには二枚のチケットが載っていた。車掌は女が濃いサングラスを掛けているので、一瞬何か分からない様子だったが、頭が少しだけ下を向いたので察する事が出来た。車掌はゆっくりと手を伸ばしてチケットを手に取った。


「ありがとうございます」


 女は鼻に全力で神経を集中させていたが、車掌からは全く何も匂いはしなかった。無機質なドライヤーから取り出した衣服の独特な匂いが微かにするだけだった。だが女はバッグ内に隠した右手で安全装置を外し、警戒を怠らなかった。殺した女が掃除屋の一味である場合、必ず奴らはやってくる。車掌は穏やかな雰囲気のまま次の客の席へ進もうと視線を前に向け、立ち去ろうとしたが、思い出したように女に視線を戻し、ボールペンを取り出そうとするかのように内ポケットに手を入れた。


「トイレの女性から、長居して申し訳ないとの伝言です」


 女が窓に目を向けたまま、バッグから銃だけを車掌に向けるまで、0.1秒も掛からなかった。男も目にも止まらない仕草で制服の内側から拳銃を抜き出し、男と女は一瞬で銃を向けあった。銃声が車内に轟き、男が吹っ飛んだ。女は立ち上がり、隣の列に吹っ飛んだ男に向けて数発弾丸を打ち込むと、悲鳴をあげる他の客には目もくれず、バッグを引っ掴んで先の車両へとゆっくりと歩いていった。


 隣は普通席の車両で、団体客が席に座っていた。空いていたグリーン車とは違う、駅弁を食べた匂いや、アルコールの粗野な匂いが立ち込めていた。誰もグリーン車での異変には気付いておらず、ガヤガヤとうるさい声で喋る団体客や、大騒ぎをする子供を注意する親の声で騒がしかった。女は左手にバッグを持ち、右手にシルバーのM9を持ったまま通路を進んでいった。子供が「お母さん、あの人てっぽう持ってるよ」と教えても、本物だと思う大人はいなかった。女はその子供に小さくウインクさえしてみせた。お願い、黙ってて、とでも言うように。


 やがて追手らしきスーツ姿の男が後ろの扉にガラス越しで見えた。女は足を早め、列車の進行方向へ、進行方向へと進んでいった。時折車両が揺れ、座席のへりに捕まって耐えた。追手は等間隔を保ったまま付いてきているようだった。彼らに焦る理由は何もないのだ。もう駄目かもしれない、と女は少し覚悟を決めて、次の車両の扉に手を掛け、中に入った。


 ◆


 突然の静謐が女を包んだ。

 先程まで、確かに黒々としていた車窓は外からの晴天の光を映し、テーブルに載っている美しく光るシャンパングラスや、金縁の皿、花の細かな柄が描かれた陶器のシュガーポットなどの黒い影を赤いテーブルクロスの上に落とした。まるで別世界に放り込まれたような、不思議な光景に女は息を切らして立ち尽くした。モーター音も聞こえない。線路の繋ぎを車輪が通る音だけが自分の前から後ろに響いていく。周囲を見回したが、誰もいなかった。


 <つづく>











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