7. 正義の普遍性について

 一週間ほど経った頃、再び夕食の誘いがやってきた。どうして食事ばかりが狙われるのか。きっと食事中は動けないからいろいろと質問するには都合がいいのだろう。

 私はまるでそんな気分ではなかったけれど、断っても断っても次の誘いが送られてくるので、ついに根負けして次の土曜日に会うことにした。

 そして当日。私は再び己の愚かさを呪った。

 私が居酒屋に到着する頃には既に数人の男女が席に着いていて、その中には篠原くんがいたし、何なら水野さんもいた。彼女は騒がしい居酒屋には似つかわしくない姿勢の良さで、心なしかいつもより冷たい表情だった。

「光ちゃん、ほらこっち座って。何頼む?」

 既に酔っ払っているのか頰を紅潮させて手招きする町屋さんを、私はほとんど睨みつけていたと思う。しかし町屋さんは気づかずに、「好きなの選んで?」とメニューを渡してくる。

「あ、光ちゃんはサイダーだよね。俺頼むよ」向かいに座っていた篠原くんが割り込んでくる。今日も相変わらず人当たりの良さそうな垂れ目が憎らしい。

「好物でしょ?」

「そっか、だから毎日差し入れてたの?」と町屋さん。

「そうそう。でも一回も俺の前で飲んでくれたことないんだよね」

「ええ、なんで?」

 一同の視線が一斉に私に向けられる。

「……別に。食事と一緒に飲みたくないだけだよ」

「なんだ、じゃあ今もやめたほうがいい? 代わりに何か飲む?」

「水でいいよ」

「そう?」

 いつの間にか集団にいたほとんどの人が私たちの会話に耳を傾けていて、私はたいへん居心地が悪くなる。ちびちびと受け取ったグラスの水をすする。

「そういえば、俺の彼女も炭酸好きなんだよね」水野さんの隣に座る男が言った。「そういう人って、お酒も好きだったりするのかな?」

 視線が私に向けられている。これは私が答えるのか。そんなことを訊かれても、私は未成年なんだから知るわけがないのに。

「どうなんでしょうね」

 曖昧に笑うのにも労力を使うっていうのは、おそらく大人になるにつれて知ることの一つだ。

 歳を重ねるごとに、余計なことをたくさん知っていく。しかし一方で、私はここに来た時点で子どもみたいにやっぱり帰ると怒ってもよかったのだろう。私一人抜けたところで大した迷惑ではないだろうし、何より自分のことを大切にするのは義務なのだから。嫌なことは避けなければいけないというのが、現代で推奨されている理論なのだから。

 自分を大切に、マイノリティに自由を、という圧倒的正論。けれど場の空気を乱してはいけない、不必要に目立ってはいけない、という暗黙のルール。そのどちらもクソ食らえだと私は思う。自然な共存はいつになったら叶うのだろう。

「そうだ、光ちゃんって趣味とかあるの?」「サークルは入ってる?」「好きなバンドとかある?」「サイダーが好きならメロンソーダとかも好きだったりする?」「部活は何やってたの?」

 質問が波のように押し寄せた。誰も彼も、私のセクシュアリティには触れないように慎重に話題を展開していっているのがよくわかる。なんとも痛々しい。

「そうだ、光ちゃんって前に女の子と付き合ってたんだよね?」ふいに、先ほどの男が質問した。「なんでわざわざ同性を選んだの? 可愛いし普通にモテそうなのに。あ、もしかして男になりたいとか? だからいつもズボンなの?」

 男は純粋に気になっているという様子でこちらを見ていた。普段なら癇に障っていたが、そのあまりにストレートな物言いがなんだか久々で、この場ではいっそ痛快だった。

 けれど、町屋さんはそれを許さない。

「ちょっと、そういうこと言うのはデリカシーないよ」

 ドレッシングの多分にかかったサラダを装いながら、彼女はそう言った。

 その発言がますます私の首を絞めているって、どうしてわからないのだろう。

「……そっか。そうだよね。ごめん」

 男は何か重大なことに気づいてしまったかのように顔を上げて、ちいさく口を結んだ。

「……ううん。気にしないで」

 それから、質問の嵐はぱたりと止んだ。

 私はいたたまれなくなり、手持ち無沙汰に集団のざわめきに耳を傾けながら、グラスの水をすすり続ける。

「〇〇ちゃん、彼氏いるの?」「えー、いないよ」「ほんと? じゃあ俺立候補しようかな」

「△□ちゃん、スカート似合いそうだよね。なんでいつもズボンなの?」「これ楽だから」「まあ気持ちはわかるけどさー、スカート履いた方がもっと可愛いのに」

 偏見の意識は、こうした何気ない会話にすら滲み出る。女性だと決めつけた相手には「彼氏いるの?」と訊き、当然のようにその人たちが可愛くなろうとしていると考える。「恋人いるの?」や「クールなファッションが好きなの?」に置き換えられないものだろうか。こうした配慮ができないのだから、彼らの程度は透けて見える。

 ほんの些細な言動が降り積もって、私たちの心に重石をつける。本人はそれが偏った思考だと気づいてもいないのに。

 世の中はなんて残酷なのだろう。

 グラスの水も飲みきってしまって視線の置き場に迷っていると、ふと、向かい側に座る水野さんと目が合った。すぐに逸らしたけれど、一瞬のうちに彼女の澄んだ夜みたいな瞳が目に焼きついた。どうしてだろう。彼女に見つめられていると、なんだか自分がとても恥ずかしく思えてくる。

「光ちゃん」

 名前を呼ばれたことに驚き顔を上げると、そこには町屋さんの笑顔があった。なんてことのない、いつもの無邪気な笑顔だ。

「今日は、光ちゃんのためにみんなに集まってもらったの」

「……どういう意味?」

「ほら、光ちゃん、自分のセクシュアリティについてあまりよくわかってないみたいだし、ちゃんと自分に当てはまる分類を見つけられたらいいんじゃないかって。いろいろ調べてみて、私はXジェンダーかなあって思ったんだけど、どうかな。あ、大丈夫、ここに集めたみんなは理解のある人たちだから。この間の講義を聞いて、みんな光ちゃんの助けになろうと思い立ってくれた人たちなんだよ。だから遠慮しないで頼ってね」

 なんていい笑顔で話すのだろう。一同の視線が再び私たちに集まった。

 私はもう、ここまでくると絶望すればいいのか笑ってしまえばいいのか、はたまた罵ってやればいいのかわからなかった。いつもなら脳内で不満を捲したてる私も、今回ばかりは言葉を失っている。

 向かい側からは水野さんが見ている。何も言えない私を見ている。

 その目は人の内側まで見透かしているみたいで、私は何かを試されている気がした。

「――町屋さん」

「なに?」

「いろいろと考えてくれたみたいで、ありがとう。でもさ、全部、クソ食らえだよ」

 自分で言っていることに、自分が一番驚いていた。どうしてこんなことを言っているのだろう。

 空気が淀む。どんどん淀む。篠原くんの驚いた顔が見える。

「……どうしたの、光ちゃん。そんなこと言ったらダメだよ」

「光ちゃん、私、何か悪かった?」

 湿度の高かったはずの居酒屋は、一気に気温が下がって冷蔵庫みたいだった。みんなが私の発言を待っている。どんな酷いことを言うのか、息を飲んで待っている。

 ここは、気持ちが悪い。

「正義がいつでも正義だって、そんな勘違いにはうんざりだよ。町屋さんたちの自己陶酔に、私を付き合わせないで」

 これまで自分が我慢して穏便に済ませてきたものを、全部壊していく感覚があった。それなのに、いやに気持ちよかった。こびりついた台所の油汚れを取るみたいに、解放感と達成感があった。

 町屋さんと篠原くんは怒り出す。赤面して何か早口で言っているけれど、私にはよく聞こえない。周囲の人は彼らを宥めるでもなく、私を叱りつけるでもなく、ただただ事の経緯を窺っている。自分に飛び火しないように。私の助けになりたいと言いながら、この言い争いは止めようとしないんだ。

 周囲を眺めていると、再び水野さんと目が合った。彼女は私に気づくなり微笑んで、ちいさく手を振った。今日は私の見る限り一貫して無表情を突き通していた彼女が、初めて私に微笑みを向けたのだ。

 私はなんだか急に嬉しくて、誇らしい気分になった。

「町屋さん」その勢いのまま、私は鞄を持って立ち上がる。「今まで、たくさんありがとう。微塵も嬉しくなかったけど、町屋さんの正義は間違いではないと思う。ただ、使いどころを考えないと、悪意よりもタチが悪い暴力になるってこと、知ってほしいな」

 それじゃあ、と千円札を何枚か取り出してテーブルに置き、私はその場を離れた。

 横目に見た町屋さんは、ひどく困惑して傷ついた顔をしていた。言いたいことをぶち撒けて、勝手に退出するなんて、酷いことだった。それでも、必死にそれらを我慢していたときよりも健全な感じがした。私だけでなく、町屋さんたちにとっても、これでよかった気がした。これがよかった気がした。

 外に出ると空気はやはり澄んでいて、私は大きく深呼吸してから歩き出した。

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