第31話 「逃げて」


「おお、その修道服は大司教ではないか?」


 馬の上から、トマスに向かって尊大に声をかけたのはアシア・グレイ・シラナである。

 大聖堂に続く門はかたく閉じられていた。

 修道士たちとトマス・ブルク大司教は門の前に陣取り、侵略者を待ち構えていた。


「ちょうど良い。自国で戴冠式を済ませたが、リカー王国風のはまだでね。王冠に王笏に指輪……必要な道具はここに保管してあるのだろう?」

「戴冠式は、とっくに終わりました。お引き取りください」


 トマスは静かに告げた。


「誰の戴冠式だ? シーガンはとっくに死んだが」


 面白くない冗談だったが、アシアの部下たちは大げさに笑っている。

 主人の機嫌を損ねないようにしているのだろう。


 トマスはそれを冷めた目で見つめた。


「マーガレット・ヴィア・リカー女王陛下が戴冠式を済ませました。私が自ら女王に王冠をかぶせた。他に王はおりませぬ。この国の王は、私の手で王冠をかぶせた王だけだ!」


 十字架を手に、修道士たちは祈りの言葉を紡ぎ始める。

 アシア王子はせせら笑った。


「修道士を揃えて脅しのつもりか? 娼婦の子孫に味方するとは貴様ら全員異教徒ではあるまいな?」


 トマスは挑発には乗らず、ただ祈りの言葉を唱えた。

 教会で血は流せまい――。

 トマスはそうふんで、貧しい民を大聖堂の敷地内に避難させている。


 荒事には慣れていない。

 むしろ彼は荒事を避けるために修道士になったのだ。


 大司教までのぼりつめたのはひとえに真面目な働きぶりを認められてのこと。

 争いごとを厭い、優しさと神の教えだけを糧にのぼりつめてきた。


 だが、ここまで年齢を重ねて、己を奮い立たせる日が来ようとは!


「そこをどけ。残りの道具も回収し、私は戴冠する」

「させません」


 トマスは頑として譲らなかった。

 神は必ず守ってくださる。

 この試練を乗り越えた先には必ず光射すような希望がある。


 トマスがマーガレットにかぶせた王冠は、祝福をもたらす希望の輪なのだ。


 アシア王子はいらだちをあらわにした。


「どかぬか。私がこの国の王だ」

「この国の王はマーガレット女王ただおひとり」

「娼婦の子孫に王冠を許すなど異教徒の証に他ならない。殺しても文句は出まい。腐った教会組織を斬り捨ててやろう。大司教などかわりはいくらでもいる」


 剣を抜くアシア王子を前に、トマスは覚悟を決めた。

 そのとき、トマスの背後から、あまたの石つぶてが飛んだ。

 門の裏から、黒い影が次々とシラナ国軍へ襲いかかる。


「はやく!! もっと投げるのよ!」


 アリスが、避難者たちを先導していたのだ。


「マーガレットは約束を守ったわ! 避難所を作って支援物資を届けた。女王に声が届かないというのなら、あなたがたの気合いが足りないのよ。ここで叫びなさい! 女王よ、我々はここにいると!」


 小石が命中し、馬がいななく。




 ふり落とされたアシア王子は逆上し、トマスへ剣をふりかぶった。





 牢番が鍵をさしこんだ。

 薄暗い牢の中で、カンテラの光がやけにまぶしく揺らめいた。


「……とうとう俺の処刑の日か」


 ライオネルは力なく言った。


 マーガレットが、うずくまるライオネルを見下ろしていた。

 その青いまなざしは、見るものをとらえて離さない。

 初めの頃、なぜマーガレットがいつもうつむいてばかりいるのか不思議で仕方がなかったが、こうして立場が変わり、目線が変わればまた違う感情を抱くようになった。


 美しい。


 あの青は、自分の瞳と同じ色なのに、まったく違った様相をあらわす。

 苦難に揺らめき、それを乗り越える力強さを持っている。


「生きながらえてくれたようで感謝するわ」

「その牢番が無理矢理に俺に食べ物をつめこんだ」


 やけになったように言うライオネルに、マーガレットは革袋を投げて寄越した。

 袋の留め具がゆるみ、中身があらわになる。

 衣服や食料品が詰め込まれていた。


「逃げて」


 はじめ、ライオネルは言われた意味がわからなかった。

 荷物とマーガレットを見比べ、呆けた顔をする。


「なにをぼさっとしているの。逃げなさい」

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