やり直し家族

行枝ローザ

第1話 母の家出 ①

何も云わず、何も悟らせず、何も持ち出さず、母が、いなくなった。


『何も持ち出さず』だけは嘘かもしれない。

母自身の保険証、母名義の銀行カード、それらの入った定期入れ、お財布、いつも少し遠出をする時に使っている大き目の鞄、下着と洋服とが二日分、携帯電話…そんな身の回りに必要なものだけ持って、天野あまの 奈津子なつこは忽然と姿を消した。

ひとり娘である美由紀みゆきがそれに気がついたのは、仕事帰りに自宅へ向かう途中、十九時も回った遅い時間なのに灯りのついていない実家のそばを通り過ぎようとした時である。

父である正昭まさあきが今夜は中学の同窓会で不在だというのは『出席』に印をつけたハガキを預かったから知っているが、ひとり残ったはずの母から特に外出の連絡は受けていない。

「おっかしいな……」

まさか───

暗い家の中のどこかで母が気を失って倒れているかもしれないと──最悪の場合をなるべく頭の隅に追いやったまま──そう思った美由紀は、つい先日防犯強化したと言われて渡された真新しいディンプルキー使って実家の扉を解錠すると、恐る恐る家に入った。

使い始めが、まさかこんな形になるとは思ってもみなかった。

人の温もりは微塵もなく、夕飯の匂いもせず、朝のうちに干されていた洗濯物は室内用物干し竿に干しっぱなしである。

いつもならひとつひとつの家事を終わらせることを楽しんでいる几帳面な母にあるまじき状態のままで、実家は『無人』だった。

夕ご飯どころか、昼ご飯を食べた感じもない。

美由紀は日中勤めているから、実家がどんな状態であったかはわからないはずだ──が、母はめったに習慣を崩さないから、たとえ独りきりの昼食になったにしても、何かしら自分で調理して食べたはずである。

それなのに──まるで朝から誰もいなかったかのように家の中には人のぬくもりも、調理した匂いも、いつも同じ時間に沸かされるお風呂もできていない。

「おかあさ~ん……」

まさか朝に美由紀が仕事前に通りがてらゴミ出しを口実に顔を出して、父が同窓会の前から友人に会うために早い時間に出て行った後、昼食の前に昼寝してそのまま……なんてことありませんように、と思いながら、美由紀はなぜか電気をつけずに家の中をウロウロと探索し始めた。

居間、台所、客間、街灯の明かりを頼りに上がった階段、父と母の寝室、そしてかつての自分の部屋──誰もいない。

「まさか……お、お風呂掃除中に……?」

入浴後には風邪を引くといけないと言って、母は日中に浴室を洗う人だった。

足腰だって自分が実家にいた頃に比べたら多少は弱くなっているかもしれないし、おっちょこちょいなところもある母が、誤って足を滑らせている可能性だって───

ソロリと廊下に出、ようやく階段を降りる前に電気を点け──

「お前!何してる!!」

点いたと同時に消えた電灯を点けようと手を伸ばし、また同時に消え、その中で怒鳴りつける聞き慣れた声。

「何してるって、自分のうちにいちゃいけないの?!」

暗がりとはいえ、どこから声が聞こえるかぐらいは見当がついたから、美由紀は怒鳴るだけ怒鳴って上がって見にこようともしない父に向かって叫び返した。

「ねえ、お父さん!お母さんがいないのよ!お風呂場で倒れてない?!」

「誰がおと───お、お前、美由紀か?」

『不審者』の声がようやく自分の娘のものだと理解した父はさらに怒鳴ろうとしたのを飲み込み、ガチャガチャと忙しく階段のスイッチを叩きつける音が下から聞こえる。

朝履いていたヒール靴がそのまま玄関の三和土にあるはずだが、父はいったいその靴を見ても娘のものだと気がつかなかったのだろうか?

「いや、だって……知らん靴があったから……」

「知らん靴って。あれは三ヶ月前に要らないっていうのに、『誕生日のお祝いだ』とか言ってお母さんと私と一緒にお店に行って買ってくれた靴じゃない!何で覚えてないの?」

四十歳を迎えた天野家のひとり娘は遅くなったけれども二年前に結婚し、しかもその夫となった男は入り婿にもなって名字を継いでくれた──それが嬉しかったのか、父と母は何かと理由をつけては娘夫婦に様々とプレゼントをしてくれる。

嬉しくないわけではないが、六十五歳の定年まであと三年もあるのだから、父にはもう少し老後の貯蓄をしてほしいと思うのも娘心だ。

しかもその父よりも五歳年上の母はさらに前にパートで働いていた事務所を五十歳を機に辞めていて、現在は父の収入だけでやっているはずなのだから。

「いや、そんなことよりも……」

「何がだ?」

「ううん。なんでもない。私の靴よりも、お母さんよ!お母さん!いないのよ!!」

「いない?」

キョトンとした父はほとんど酔っていないように見える。

しばらく前に肝臓が悪いと診断された父は酒量を控えていると言っていたが、どうやら嘘ではなかったらしい。

美由紀の思考があちらこちらに飛ぶのは、まだ覗いていない浴室や脱衣所に意識なく昏倒している母を見つけたくないという無意識からだろう。

そう自分で判断した美由紀は、父が次々と点灯させていく明るい室内をもう一度ゆっくり見渡してから、最後の捜索場所になった浴室へ向かった。

とはいえ豪邸と言えるほど広い家でもないから、階段を下りて5歩も歩けば脱衣所の前に立って、目の前の扉を開き──無音。

電灯のスイッチを点けたけれど、水が出しっぱなしになっている音はしていない。

代わりに外で赤く旋回しているライトと人の声がざわざわと流れ込んできた。

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