第11話 ぼくは激怒した

「わっ!」


 佐倉さんの元へ近づこうとした結果、二人分の体重がボートの片側に偏ってかかることでボートが大きく傾いた。

 緊張してガチガチになっていたせいか、ぼくはバランスを崩して転倒してしまう。とんだ失態だ。これでは佐倉さんをドジっ娘扱いできないじゃないか。

 ――むにゅむにゅ。


「ん?」


 真っ暗で何も見えない。

 でも顔が柔らかくて温かい何かに包まれている。

 なんだかすごく安心する感触だ。産まれる前、胎内にいる赤ちゃんはこんな気持ちだったのかもしれない。


「ぁん」


 佐倉さんの声がした。しかも妙に扇情的な感じだった。

 混乱していた脳が事態を理解し始める。

 僕は佐倉さんのおっぱいに顔面ダイブしているのだ!


「んん!?」


 非常に名残惜しかったけれど、おっぱいから顔を離した。

 そして間近にあるおっぱいを凝視する。

 ぼくは今このドでかい塊に包まれいていたのだ!

 服の上からでも主張しているおっぱいから目が離せない。ぼくは佐倉さんのおっぱいの虜になってしまったようだ。


「あんまり凝視しないでほしい、かな」


 おっぱいを隠そうとしているけれど、両手がオールで塞がれているためうまくいっていない。

 顔を赤く染めて恥ずかしそうにしている。いつもの余裕は感じられない。普段見ることができない珍しい表情だ。可愛い。

 でもすぐにいつもの、えっちなお姉さんの顔に戻る。


「私のおっぱい、どうだった?」

「え?」

「気持ちよかった?」

「……ほ、ほら! 漕ぎ方教えるから!」


 この話題は都合が悪い。強引に佐倉さんの股の間に座った。

 でも、これはこれで辛い状況だ。

 後ろから良い匂いが流れてくるし、ぼくの太ももの外側が、佐倉さんの太ももの内側と密着している。

 クラクラしてしまう。いや、きっとこれは船酔いに違いない!


「こうやって漕ぐんだよ」


 ボートを漕いでいると少し落ち着いてきた。

 スイスイとボートは進み、顔に当たる風が心地いい。火照った頬を冷ましてくれる。


「一緒に漕いでいい?」

「うん、いいよ」


 さっきのオールさばきを見る限り、まだ佐倉さん一人に任せるのは危険だろう。

 提案通り一緒に漕ぐのがベストだと思って頷いた。

 佐倉さんがオールを握ったことを確認して、合図をして同時にオールを動かす。


「ん、ふっ」


 佐倉さんは一生懸命にオールを漕いでいる。それは素晴らしいことだ。

 でもオールを漕ごうと前かがみになる度に、ぼくの背中におっぱいが当たっている。

 むにゅっと押し付けては離れる。その繰り返しだ。なんという恐ろしい緩急の使い手だろう。


「どう?」

「い、良いと思う」

「何か気になるところはない?」


 おっぱいが気になります!

 なんて言えるはずもなく、無難な返事をしてやり過ごす。

 何度も何度もおっぱいのオンオフを繰り返したあと、佐倉さんが疲れを見せていたので休憩を提案する。


「ちょっと休憩する?」


 佐倉さんが頷いたので離れようとした。

 これで劇的な緊張と緩和の連続からは解放されるのだと油断していると、


「あー、疲れちゃったー」


 間延びした声とともに、もたれかかってきたではないか!

 緩急おっぱいの次は永続的おっぱいである。ぼくの背中をおっぱいが包んでいる。

 体内時計の感覚が狂い、どれだけ経っているのか分からなくなる。

 十秒ぐらいだろうか。あるいは十分ぐらいくっついているのかもしれない。

 恥ずかしくなって俯いていると強い風が吹いた。

 長い黒髪がぼくの頬をくすぐる。高級シャンプーの匂いが脳を揺さぶる。

 佐倉さんはぼくを抱きしめた。


「弟くん、暖かくてキモチイイ」


 それはこっちのセリフだ。とっても暖かくて、とってもキモチイイ。

 横を向けば至近距離に佐倉さんの美しい顔。

 目があえば、ん? と首をかしげている。

 動揺して視線はあちこちに右往左往してしまう。


「ふふ」


 ほほ笑みながら、佐倉さんが鞄からスマホを取り出す。

 そして流れるような動作で写真を撮ろうとした。

 余りに自然な動きだったので最初は反応できなかったが、ギリギリで手を突き出してカメラを遮る。


「今はダメだよ! 恥ずかしいから」

「綾乃の写真あげるから。ほら、オールを持って漕いでる感じで」


 ぐぬぬ。

 お姉ちゃんの写真を引き合いに出すとは卑怯である。

 弟のぼくが断れるはずがないではないか。

 ゆでだこ状態の顔をパシャパシャと撮られていく。屈辱だ。


「ねぇ、キスしよっか?」

「……え?」

「ほら、目をつむって」


 とんでもない爆弾を放り込んできた。

 日ごろから、佐倉さんの潤った唇に魅了されている身だ。大歓迎である。

 とはいえ、心の準備が……!


「あの、よろしくお願いします」


 ぼくは覚悟を決めた。

 心臓が破裂しそうになっていることを感じながら目をつむる。

 佐倉さんの顔が近づいてくる気配がする。至近距離にいるはずなのに、ずいぶんと遠く感じた。

 そして――チュッという魅惑の口づけの音がした。しかしその感触があったのは唇ではなく、おでこだった。


「冗談だよ、本気にした?」


 悪戯っぽく笑っている。

 おでこにチュー。それはそれで嬉しいものだ。

 残念なようで、少しホッとしたような気分でもある。同時に、とてもムカムカした。

 許さない。

 ぼくは激怒した。


「佐倉さん」

「……な、なに?」


 ぼくが怒っていることを感じとったのか、シュンとしている。

 すごく可愛いけれど、だからといって許すつもりはない。


「冗談でもやって良いことと悪いことがあるよ」


 ぼくは佐倉さんとキスができると勘違いした。

 ボートで2人きりになって浮ついていた気持ちもあったのだろう。ぼくは佐倉さんがファーストキスの相手になることを受け入れた。だから、目をつむったのだ。

 でも佐倉さんにとっては年下の男をからかって遊んでいるだけだった。


「ご、ごめんね弟くん」


 ここ何年か、本気で誰かに怒った経験はない。

 だけど今の僕は本気だ。

 僕の純真なる心を弄んだ佐倉さんを決して許すことはできない。

 今こそ決別のときである!


「……」


 ぼくは佐倉さんに返事をせず、黙ってボートを漕いで、乗り場にくっつけた。

 その途中、佐倉さんは何度もぼくに謝罪する。

 まるで恋人に捨てられた女性みたいに必死だった。心が痛む。

 でも彼女はよく傷ついた演技をしてぼくを騙す。

 今回もいつものように、ぼくが許せばコロッと態度をかえる可能性も否定できない。

 一度痛い目に合うべきだ。

 結局、ぼくは一言も話さないまま別れて家に帰った。

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