episode4 Bites&Fever discovered Disturbance premonition

Red Cyclamen Perfume

episode4 




全身が痛い……。

僅かに動かすだけで身体のあちこちがギスギスと油を差していない古びた機械のようにぎこちなく軋む感覚。

the筋肉痛。

一昨日、雨の中を年甲斐もなく全力疾走したツケがしっかりと回ってきた。

しかも腹立たしいくらいに微妙なタイムラグで。

何事もなく普通に出勤し、平和な一日を過ごした昨日がまるで夢だったといわんばかりの痛みよう。

しかもなんとなく、ちょっと身体がだるい気もする。

何気に額に手を当てる。

熱い……かも?

いや、気のせいだと軽く首を振る。

それにしても身体が痛い。

こんな痛みはいつぶりだろう。

美優がやきもちを妬いて全身に噛み傷をつけたあの時以来かもしれない。

ズキズキと痛んで上手く身体を動かせない症状がとても似ている。

どこか懐かしく思い出す。

あの頃の事を。



Bites

Fever discovered Disturbance premonition



「沙奈~、ベットカバー緑色買ってもいい~??」

まだ同棲をはじめたばかりの頃。

互いの家具を持ち寄りながら引っ越しを終え、少しづつ二人で選んだ家具へと変更していた、そんな、頃。

「いいけど、青も買っといてね」

リビングでソファに座りながら紅茶を飲む沙奈を、ラグに直接腰を下ろしてノートPCを覗き込んでいた美優が振り返る。

「濃い色のは……やめない?」

「なんで?」

聞いてから赤くなる美優の顔で察してしまう。

「色合いは、任せるわ」

「う……うん」

お互い少し照れながら目を反らす。

ベットカバーを何枚かカートに入れた状態で美優の手が止まる。

不意にソファに座り直し、近寄って来た美優に顔を見つめると、唇が重なった。

一瞬の、可愛い口づけ。

「あのね、沙奈。ベットじゃなくて、ソファでするって手も……あるよ?」

美優が沙奈からカップを取り上げて、机に置いた。

「落ちない自信あるの?」

「私は上だから、それは沙奈の心配じゃない?」

「貴女が上だった事があったっけ?」

ムッとした顔で美優が沙奈を睨みつける。

「初めて会った時は上だったもん!」

そういえば、初対面で監禁された時、押し倒されて襲われかけたんだっけ。

結局、警察が来ちゃって未遂だったわけだけど。

「もう!」

記憶を遡る沙奈を美優が押し倒す。

クールビューティな面影のない、キュートな美優の素顔があの時と同じ表情で沙奈を見下ろしていた。

「今日は私が抱いてあげる」

美優の両手が沙奈の手に絡まり、ソファに沈む。

「やれるもんなら、ね」

微笑む沙奈に美優が不服そうに眉根を寄せて、荒々しく唇を重ねた。

沙奈は知っている。

抑えつけている美優の手は長く沙奈を拘束出来はしない事を。

沙奈を屈服させようと一生懸命な美優を見る度にただ思う。

ああ、なんて可愛いのだろう、と。

そして愛おしくてたまらなくなって、つい沙奈は本気で口づけてしまうのだ。

美優が抵抗出来なくなるほどに。


+++


気だるい心地よさにまどろむ意識と重なる肌の温もりが心地いい。

眠りの中から浮上する意識の中、沙奈は美優を抱きしめる。

小さな寝息と吐息が耳をくすぐる。

目を閉じたまま美優の香りに包まれてもう一度眠りへと落ちていこうとする意識を甲高い電子音が引き戻す。

ピンポーン

それが玄関のチャイムだと気づくのに数秒の時間を要した。

今日は来客の予定も荷物の配達の予定もない。

幸せな微睡に後ろ髪を引かれながら、沙奈はゆっくり目を開けた。

すぐそばにあった美優の顔に優しく口づけて身体を起こす。

何回も鳴らされては美優が起きてしまう。

とりあえず、インターフォンの受話器を取り

「はい」

なるべくお仕事モードな口調な答えた。

「あ、チーフ、突然すみません、斎藤です」

受話器の向こうから、聞きなれた部下の声がする。

そういえば、近いうちに引っ越し祝いを持ってくる、みたいな事を言っていたような気がする。

それが今日とは知らなかったけど。

「斎藤さん?ちょっとだけ待っててくれる」

「はい」

受話器を置いて、美優の眠るリビングのラグの上を通り過ぎ、ソファに投げ出された下着とスカートを身に着ける。

美優の裸体にソファカバーに使っているタオルケットを引き剥がして、そっとかけた。

はだけた胸元のボタンを閉めながら、脱衣所にある洗面台に向かい、軽くメイクを直してから、沙奈は玄関の扉を開けた。

「あ、チーフ!突然すみません」

大きな紙の手提げ袋を提げた斎藤栞が振り返り、ぺこりと頭を下げた。

「会社でお渡しすると荷物になるかもしれないと思って……近くに来たものですから……」

「そうなの?わざわざ申し訳ないわね」

笑顔で応対しながら、沙奈は玄関を出て、後ろ手で扉を閉めた。

「これ、引っ越しのお祝いです」

差し出された袋の中に大きな濃い紫の花のオブジェが見える。

「綺麗なお花。わざわざありがとう」

「いえ、買い物で近くまで来たので……枯れる前にお渡ししたかったもので、急にすみませんでした」

数歩下がる栞に沙奈は言葉を紡ぐ。

「せっかく来てくれたんだし、近所で少しお茶でもどう?」

沙奈の提案に嬉しそうな表情が栞の顔に浮かぶ。けれど一瞬の迷いを伴ってその表情は少し悲し気な笑顔へと姿を変えた。

「いえ……せっかくのお休みですから、恋人さんとゆっくりしてください」

「斎藤さん……?」

「ちゃんとお渡し出来て良かったです。それでは失礼します」

礼儀正しくお辞儀をして背を向けて歩く栞はマンションのエントランスに入る手前で沙奈を振り返り、小さく手を振った。

手を振り返して、姿が見えなくなるまで見送ってから沙奈は玄関の扉を開けた。

「誰?」

「!?」

目を覚まして玄関に立つ美優の姿に軽く悲鳴を上げそうになるのを寸でで堪えた。

普段、大抵の事では驚くことのない沙奈だが、ホラーな演出は苦手だ。

今の美優の立ち姿はそれに似ていた。

「み、美優?起きたの?」

何も悪い事などしていないのに、なぜ噛んだのか。

己の失態が悔やまれる。

案の定、美優の目が鋭さを増す。

「今の誰?」

「会社の部下。引っ越し祝いを持って来てくれたのよ」

気を取り直して、何事もない声を出す。

実際何事もないのだから、問題ない。

「綺麗なお花よ。飾りましょう」

美優の横をすり抜けてリビングダイニングへと向かい、花を取り出した。

濃い紫の薔薇をあしらった馬車の形を模したフラワーアレンジメント。

紫の薔薇の花言葉は『尊敬』

栞らしいチョイスだと、微笑む。

「その人、美人?」

「美人……というより、可愛い感じかな?美優とは違うタイプよ」

「なにそれ」

あからさまに機嫌を損ねている美優の腕を引き寄せ抱きしめる。

美優の身体に巻き付いたタオルケットがゆるんで、はだけた胸元にさっきつけた小さな赤い花が咲いていた。

「私の好みじゃないって事」

首筋に唇を押し当てて、強く吸う。

「ん!ちょっ……」

形だけの抵抗で沙奈を押しのけようとする美優の腕は、結局、沙奈のシャツを握りしめる。

横目で薔薇の花を見つめながら沙奈は何気なく考える。

紫の薔薇が栞らしいのならば、私たちに似合う花はなんだろう、と。

唇を離して、美優の白い首筋に咲いた花を見つめる。

「赤い……シクラメン……」

「ん?何?」

「なんでもない」

そう言って、少しだけ機嫌を取り戻した美優の唇を塞ぐ。

嫉妬と独占欲。

そんな花言葉を纏って美しく咲く花。

白い肌に僅かな痛みと共に咲く、赤い花のような。

そう、私たちにはきっと。

赤いシクラメンがよく似合う。


+++


「ねぇ、パンは何塗って焼けばいい?」

コンロの前に立つ美優を振り返り、手に持ったフランスパンを振りながら尋ねる。

ビーフシチューの濃厚な香りが室内を満たし、空腹感を煽る夕食時。

「好きなのでいいよ。私はシチューにつけて食べたいからバターがいいかな」

まだ少しだけ不機嫌を残してはいるものの、鍋をかき回しながら応える美優を背中から抱きしめてみる。

「危ないよ」

美優の返事に首筋に咲く赤い花に軽く口づけて、沙奈はそのまま手を離す。

拒絶の言葉を美優が口にする時は、無理をしてはいけない。

そのままじゃれて構わない時、美優は何も言わないのだから。

「バターok」

軽く返事をしてカットしたフランスパンにバターを塗りつけてトースターに放り込む。

美優はまだちょっと機嫌が悪いだけ。

そんな風に油断してた。

だから、この後の不測の事態を回避する事が沙奈には出来なかった。

まさか自分が簡単に薬を盛られるだなんて。

ほんと

近年稀に見る、大失態。



「美味しかった~」

夕食を平らげた時に感じる幸福感。

「お粗末様」

食器を片付けながらまだ視線を反らし気味の美優を目で追う。

「ねぇ、いい加減機嫌直さない?」

「機嫌が悪いわけじゃない」

「じゃあ何?」

しばしの沈黙。

「怒ってるだけ」

「怒ってる?なんで?部下に住所教えたから?」

「住所は会社に届け出ださないといけないから怒ってない」

「じゃあ何?」

食器を流し台に置いていた美優の手が止まる。

「お茶に誘ってたでしょ。あの人の事」

おっと。まさかそこに引っ掛かっていたとは。

てっきり薔薇のプレゼントが気に障ったのかと思っていた沙奈は、興味深げに美優を見つめる。

そんな一言でヤキモチを妬いてしまう美優をつい、可愛いと思ってしまう沙奈の事を美優はまだ理解出来ていないらしい。

もし分かってやっているのなら、かなりの手練れだと認めざるを得ないけど。

「あんなの社交辞令でしょ。実際行ってないし」

「あの人がいいって言ってたら行ってたでしょ?……私を置いて」

「一緒に行きたかったの?」

「行きたいわけないでしょ!?」

知ってる。

怒る美優に心の中で答える。

休日、基本的に沙奈は美優との時間を大切にしたいと考えている。

24時間365日沙奈と共にいたいと公言してやまない彼女を平日はどうしても一人にしてしまう。そのせいで美優が抱えてしまう寂しさを休日で少しでも埋めてあげたい。

あの時、家の中に招かずに玄関の扉を閉めた時点で、栞には沙奈の意図が伝わっていたはずだ。

長くは貴女に構えない、と。

だからあれは本当に社交辞令。

断ると分かっていたからこそ口にしたに過ぎない。

そしてあの誘いこそが沙奈の気遣いだと栞なら分かってくれる。

ただ

あんなに哀しそうな顔をするとは思っていなかったけれど。

「ねぇ、美……」

リビングで立ち上がろうとした沙奈の足が、身体を支えられずによろけて、そのままラグの上にへたり込んだ。

「今動くと危ないよ、沙奈」

キッチンから戻る美優が沙奈を見下ろして微笑む。

「美優、貴女何を……」

「沙奈を私だけのものにするっていつも言ってるよ、私。それを実行しただけ」

沙奈の身体を倦怠感が襲う。

突然現れた睡魔が強制的に意識ごとシャットダウンしようと沙奈の自由を奪っていた。

時々美優が使用している睡眠導入剤の銘柄が脳内で再生されていく。

どれを盛られた?

首を振って堕ちかけている意識を必死に繋ぎ留める。

「抵抗しないでよ沙奈」

美優が優しく沙奈を抱きしめる。

「私のものだって証を刻んであげるだけだから」

食い込む美優の爪が、彼女の状態が正常でない事を伝えていた。

なぜ気づかなかったのか。

自分の油断が腹立たしい。

正直そこまで嫉妬してるなんて思っていなかった。

だって、沙奈にとって美優以上に大切なものなど存在していないのだから。

「美……優……」

もしかして……伝わっていないの?

そんな悲しみが一筋涙となって流れ落ちて、沙奈の意識はそこで途切れた。


+++


重い。

僅かに浮上を始めた意識がまず認識した感覚。

暖かな温もりが全身を包んでいる。

が、それはずっしりと沙奈に伸し掛かり、少し息苦しい。

「……しょ?ねぇ沙奈」

耳が美優の声を脳へと伝え始める。

と同時に、肌の一部に熱い感触。

そして

「うっ!」

ゆっくりと肌に食い込んでくる痛みに沙奈の意識は完全に覚醒した。

「いったっ!」

腹部にある美優の頭を手で押しのけようと手で押す。

が、沙奈の腹部に噛みついた美優は一向に離れようとしない。

「ちょ……!痛いってば!」

肌と美優の口元に掌を滑らせ強制的に分断する。

うっすらと美優の唇に血がついている。

腹部の傷跡がそれが沙奈の血である事を証明していた。

どこか恍惚とした顔の美優を見つめたまま、まだ少しだるい身体を起こすと、沙奈の全身に似たような噛み傷が幾つも刻まれていた。

「美優、貴女……」

傷を視認したせいで、ズキズキとした不快な痛みがあちこちで起こり出す。

憤りかける気持ちをため息に押し込めて、吐き出した。

「沙奈、起きるの早いよ」

焦点の危うい美優を見つめて、沙奈は落ち着いて『呆れている』という表情を作る。

「血に酔ってるの?みっともない顔して」

実際、こんな状況でなければ今すぐ押し倒したくなるくらい恍惚とした表情をしている美優の唇の血を、少し乱暴に親指で拭う。

「薬を盛るなんてね。失望したわ」

わざと冷たく言い放ち、背を向けて立ち上がった。

沙奈の対応に、美優の瞳が焦点を結び、同時に夢から醒めた子供にような怯えを宿す。

「沙、沙奈?」

「シャワー浴びてくる」

時計を確認する。

眠っていたのは小一時間程だろうか。

リビングに散らかされた自身の衣服を無視して沙奈は裸のまま浴室へと向かう。

まだ薬が抜けきっていないのか、少し足元がおぼつかない。

「待って、沙奈。一人じゃ危ないよ」

沙奈を支えようとする美優の手を払う。

「触らないで」

わざと突き放して一人で浴室に入り、扉を閉めた。

チラリとガラス越しに美優がそこにいる事を確認する。

あまり突き放しては、美優が自身を傷つけてしまう可能性がある。

が、これはあまりに看過できない。

噛み傷が痛むのも勿論だが、そもそも薬の乱用は今後控えさせなければ、危険すぎる。

ついでに、美優のあの恍惚とした表情。

新たな性癖に目覚めて毎回噛み傷だらけにされては、たまったものではない。

あんな顔してくれるなら、ちょっとくらい噛まれたって……。

恍惚とした美優の表情を思い出す。

噛まれる事が問題なのではない。眠らされた事に問題がある。

だから、美優が望むなら少しくらい……。

いやいやいや。

沙奈は心の中の誘惑を慌てて首を振って追い払った。

シャワーを捻ってお湯が当たると、傷が痛んだ。

水流を蛇口に切り替えて、洗面器にお湯を溜めてから傷口を流す。

石鹸は使わない方がよさそうだ。

「沙奈……」

ガラスの向こうから小さく涙交じりの声がする。

返事はしない。

「ごめんな……さい……」

縋るような声に心が痛い。

美優と二人きり、永遠に異次元で生きていけるのなら、沙奈だって構わない。何をされてたとしても。

だが、残念ながら現実に生きている以上、守らねばならないこともある。

今回の件はさすがに少し反省してもらわねばならない。

「……沙奈……」

静かに傷口を流しながら美優の言葉を聞く。

「沙奈は私の……ものなんだよ……」

沙奈の動きが思わず止まる。

今すぐ扉を開けて抱きしめたい。そんな衝動を堪える。

沙奈が美優のものなのではなく、美優が沙奈のものなのだと、口づけて思い知らせてやりたい。

押し倒して、この傷のお返しにその白い肌に甘く齧りついて泣かせてしまいたくなる。

洗面器に溜めたお湯を数回身体に浴びながら、自身の中に溢れだす邪念を抑え込んで沙奈は扉を開けた。

洗面台の椅子でうなだれていた美優が顔をあげる。

その横を視線を合わさず通り過ぎて、バスタオルを一枚羽織り、無言で二階にあがる。

身体を拭く沙奈に追いかけてきた美優が言い募る。

「こ、これは沙奈が悪いんだよ、沙奈が……だって……」

「傷が痛いから、治るまで何もしないわよ。私」

「え?」

何もしない。の意味を正しく受け取ったであろうリアクションを確認する。

不安と不満が交じり合った表情が美優の顔に浮かんでいた。

「沙奈?」

「これ以上変な事したら、口もきかない」

念のため、傷が治るまでの間に美優が自分を責めて傷つけないように予防線を張っておく。

沙奈の感覚だと美優のつけた噛み傷は、浅いものなら数日で治るだろうけど、少し深いものは1週間ほど痛むかもしれない。

バスタオルを床に落として、ベット横のチェストの引き出しを開ける。

中から消毒液と傷薬、大きめの絆創膏、そして痛み止めを取り出した。

「お水、取ってくるね」

薬の箱を目にした美優が階下に降り、キッチンに立つ姿をそっと上から見つめる。

今は沙奈のご機嫌を取る事に必死で問題ないとは思うが、気をつけるに越したことはない。

沙奈が美優にしてほしいのは反省であって、自身を傷つけることではないのだ。

キッチンを離れるのを確認してからベットに腰を下ろして、消毒液を吹きかける。

「っ……」

子供の頃以来感じた事のない、懐かしく腹立たしい痛みが傷口から駆け上ってきた。

軽く歯を食いしばって、次々とティッシュを添えて消毒していく。

幸いにも、酷く痛んだのは二か所だけで、他の傷は浅いようだった。

「沙奈……」

二階に上がって来た美優がおずおずとコップを差し出す。

「そこ、置いといて」

あえて目を合わせずに答える。

美優の瞳に涙が溢れるのが見えて、沙奈の心が折れそうになる。

怒っているんじゃない。今すぐそう伝えたい。

傷の痛みなんて本当はどうでもいい。

これは美優が沙奈を独占したいという意思の表れ。

愛情表現の一つなのだと分かっているのだから。

でも、ここで折れては美優の行動の抑制にならない。

頑張れ、沙奈。

自身の心に励ましかけて、美優に背を向けて薬をぬり、傷口に絆創膏を貼った。

「沙奈……」

「貴女も今日は早く寝た方がいいわよ」

何か言いかける美優を制して、パジャマに袖を通しベットに潜り込む。

美優の気配に神経を研ぎ澄ます。

ふわりと背中側の布団が開き、美優の温もりが背中に当たるのを感じて、沙奈は小さく安堵のため息をついた。

階下へ走り去られたら、沙奈は飛び起きなければならないところだった。

背中側に襟元が僅かに引っ張られて、美優が沙奈のパジャマをゆるく掴んでいるのが分かる。

「ごめん……ね」

小さな声が耳に届いて、沙奈の理性が今にも崩壊しそうになっていく。

美優は可愛いと繰り返す脳内の声に『知ってるよ!』と叫びたくなる。

自身の顔が少し赤くなるのを感じて、布団で顔を覆った。

普段、怒る事の少ない沙奈にとって、怒っているフリなんて苦痛でしかないのだと、心の底から痛感する。

抱きしめたい時に抱きしめられない。こんな不自由、ただの拷問。

傷も痛いのに、心まで痛いなんて立派な虐待だ。

叱る、という行為の歯がゆさ。

子育てとか私には無理です。

そう宣言して、沙奈は心の中で背中に感じる温もりを抱きしめる。

沙奈の精神が削りきられてしまう前に、一刻も早く傷が治ってくれる事を願いながら、そっと唇だけで美優を呼んだ。

言葉に出来ない愛してるを添えて。


+++


その後の4日間は正直地獄だった。

美優が心配だった沙奈は体調不良を理由に有給を取って家にいた。

沙奈に気を使いながら、今にも泣きそうな顔で沙奈のご機嫌をうかがう美優を見るのがこれほど辛いとは思わなかった。

食卓に並ぶ好物の数々。普段は嫌がるお風呂にまでついてきて、沙奈の髪を洗ってくれる美優に対して、冷たい態度を取り続けなければならない自分に嫌悪感しか感じない。

毎日、薬を塗って絆創膏を張り替えてくれる美優を見つめながら、今にも抱きしめたくなる自分を抑えなければならない不条理に憤りすら覚えながら

こんな風に我慢するくらいなら、薬の乱用くらいいいじゃない?

と、囁く声に何度首を振っただろう。

だから、日付が5日目に変わった時に、美優が泣きながら沙奈の背中を捕まえてくれた時、心底救われた気分だった。

水でしか呼吸できない魚がやっと陸地から解放されたような開放感。

瀕死で吸い込む酸素のありがたさ。

その夜は跡がつかない程度に散々噛みついて、山ほどごめんなさいを言わせて、朝まで泣かせて。

「ふふ……」

あの時の痛みは、結果的に素敵な夜を連れて来てくれたけれど、今度の痛みは何も起こりそうにない。

社内のテラスで一人、湯気の立つコーヒーをすすりながら、沙奈は小さく笑う。

まだ1年と少しだけ前の出来事なのに、こんなに懐かしく感じるなんて、弱ってる証拠かな。

筋肉痛に苛まれ、少し熱っぽい身体を叱咤してオフィスへと戻る。

「あ、チーフ。会議、始まりますよ」

途中の廊下ですれ違った栞がそう教えてくれた。

「そう、ありがとう。すぐ行くわ」

もうそんな時間だっけ?

少しぼんやりする頭を軽く振る。

「チーフ、少し顔色が悪いみたいですけど……」

「そう?ちょっと疲れてるのかも。心配してくれてありがと」

そう言ってすれ違った瞬間、視界が傾いだ。

まるで、薬を盛られたあの時みたいな感覚。

身体が言う事を聞かない。

自販機で買ったコーヒーに何か入っていたはずはない。

これは……

「チーフ!?」

倒れる沙奈を栞が支えてくれたおかげで、顔面を地面にぶつけずにすんだ。

「大丈夫ですか!?」

人はどうして大丈夫ではなさそうな人に大丈夫と聞くのだろう。

そんな小さな疑問が浮かんで消えた。

栞の冷たい手が沙奈の額に触れる。

「すごい熱。どうしてもっと早く……えっと、ちょっと!そこの人!」

栞の慌てた声が遠くなっていく。

あ、まずい。意識があるうちに美優に連絡しなきゃ……。

右手が上着のポケットのスマホを探す。

もしかしたら、今日帰るの遅くなるかもしれないって伝えなければきっと心配させてしまう。

斎藤さん……少し眠れば大丈夫、だから。

口にしたはずの言葉が、沙奈の唇に届かず消えていく。

大丈夫?大丈夫。

そうか、大丈夫って多分何かの呪文だ。

スマホに触れた指先がそのままポケットからすべり落ちるのを感じながら、沙奈はふとそんな事を思う。

繰り返し唱える事で、前に進む為の。勇気を奮い立たせる為の。自身を励ますそんな呪文。

だから、自分ではどうしようもなくなった時に、きっと他の人が呪文をかけてくれるのだ。

大丈夫?と。

そしたら、大丈夫って答えられるから。そうしたら、大丈夫って思えるから。

だから

「大丈夫……」

「大丈夫じゃないです!いいからじっとしててください!」

沙奈を抱きしめたままの栞の腕の中で少し身をよじると、更に強く抱きしめた栞の声が沙奈の呪文を破壊した。

意識が、最後の砦を失って暗闇へと落ちていく。

「美……優……」

持ち上げられない右手の指先がピクリと揺れて、沙奈の意思とは無関係に、瞼はそのまま沙奈の視界を覆い隠した。


+++


「沙……奈……」

まどろむ意識の中に微かに声が聞こえる。

その声は遠慮がちに、どこか戸惑うような響きで、沙奈の意識を揺り起こす。

優しく髪に触れる指先の感触。

少し冷たい手が沙奈の頬を包んだ。

美優?

そう思いながら身じろいでみるけれど、酷く重たく感じる身体は上手く動いてくれない。

瞼を開く事さえ出来ない沙奈の唇に温かい感触が重なった気がした。


ハッと目を開けた沙奈の耳に、人のざわめきが響いた。

消毒液の匂いが鼻につく。

小さな穴の空いた白い天井。眩しすぎない蛍光灯。

自身の周りを白いカーテンがぐるりと取り囲んでいた。

人の気配。

腕から延びる管から液体が注がれていることに気づく。

ぼんやりとした意識の中に、頭の痛みが響きだす。

「……うっ……」

小さく呻くと、すぐそばで声がした。

「チーフ?大丈夫ですか?」

首を動かすことさえ億劫だと不服そうな身体を動かして、沙奈が視線を向けると、斎藤栞がベットの横に置いた椅子から心配そうに覗き込んでいた。

「斎藤……さん?」

「気が付いたんですね、良かった。今、お医者様呼びますね」

てきぱきと沙奈の頭上に設置されているナースコールのボタンを押す。

「心配しました。酷い熱だったんですよ」

「そう……」

スーツ姿のまま寝かされている窮屈さに気づいた身体が解放を求めるのに応じて、少し身体を伸ばす。

上着が壁にかかっているのが見えた。

ブラウスの胸元が少し外され、胸から下を白い布団が掛かっている。

「動いちゃダメですよ。点滴の針がズレちゃいますから」

以前から思っていたことだが、栞は誰かの世話を焼くのが本当に好きなんだな、と改めて思う。

新人の研修も彼女に任せておけば、大抵問題なく進む。

ただ、少し過保護なところがあるので、新人の自立を促す為に彼女の元から離して、それぞれ別の部署に配属しなければならないという欠点もあるけれど。

「今……何時?」

「もうすぐ18時です」

時間を聞いて、ホッと胸を撫でおろす。

どうやら美優に余計な心配をさせずに済んだらしい。

「もしかしてずっと、付いててくれたの?」

「いえ、会議の内容をチーフが気になさるかと思ったので、会議が終わってから、ここに」

「そう……悪いわね」

沙奈が搬送された病院は恐らく会社近くの総合病院だろう。

熱が出ている自覚はあったものの、まだ大丈夫だろうという傲慢が、思いのほか色んな人に迷惑をかけてしまった。

これは、反省せねばなるまい。

ただでさえ、美優の件で早退したばかりだと言うのに、本当に申し訳ない。

「大丈夫ですチーフ。会議で出ていた企画原案にチーフの意見もねじ込んでおきましたから」

沙奈の表情から何かを察した栞が明るくガッツポーズをして見せる。

「部長がいい案だって、褒めてましたよ」

「そう……ありがとう」

少し微笑む沙奈の視界に、白衣を着た男性とピンクのワンピースに白いタイツというお決まりの制服を身に着けた看護師さんが映った。

「気が付きましたか」

栞が席を立ち、医師に場所を譲る。

「気分はどうですか?」

沙奈の脈を取り、医師が聴診器をはだけた胸元に当てた。

冷たい感触に、沙奈はふとさっきまで見ていた夢を思い出す。

沙奈の頬を包んだあの冷たい手。

あれは、誰だっただろう?

「失礼しますね」

優しい声とは裏腹にガッツリと沙奈の脇に体温計を押し付けて、看護師さんが熱を測っている。

アップにした髪。細い首筋。長いまつげ。

「まだ、ぼんやりしますか?」

無意識に観察していた沙奈の意識を医師の声が引き戻す。

「少し。でも大丈夫です」

何事もないという声で答える。

実際はまだ少し頭が痛いし、筋肉痛は治っていないし、全身すごぶるだるくて堪らない。

小さな電子音がして看護師さんが体温計を沙奈から離し、医師に見せた。

「点滴で熱は落ち着いたみたいですが、ふらつく様なら念の為、今夜はこのまま入院されますか?」

「いえ、大丈夫です」

「チーフ」

医師の提案に即答する沙奈に栞の少し責めるような、心配した声が重なる。

「帰ります」

栞にではなく、医師を見つめてそう告げた。

「分かりました。次はこんなに酷くなる前に受診してください。風邪も油断すると命に関わりますから」

席を立つ医師を見送って、看護師さんが沙奈から針を抜いた。

「今は落ち着いていますが二、三日は安静に過ごしてください」

「はい、ありがとうございました」

腕に張られた四角いシールに僅かに血が滲む。

「起き上がれるようになったら、受付までお願いします」

「はい」

点滴の道具一式を連れて看護師がカーテンの向こうへと消えた。

「チーフ、本当に大丈夫ですか?」

「ええ」

そう答えて、身体を起こす。

勿論、電車で帰れるほどには大丈夫ではない。

「タクシーを呼ぶわ。ありがとう、斎藤さん。私もメールしておくけど、2日程お休みするって明日の朝、部長に伝えておいてくれる?」

「はい、それは構わないんですが……あの」

ベットから下りようとする沙奈の肩に、壁にかかっていた上着を掛けてくれる。

「ありがとう」

何か言いかけた栞の言葉を待ちながら、上着に袖を通す。

たったそれだけの動きでも、身体のあちこちに痛みが走る。

筋肉痛、許すまじ。

処方された薬の中に痛み止めがなかったら、頭痛を理由に出してもらおう。

そんな事を考えていたから、一瞬、栞の言葉を聞き逃してしまった。

「え?」

聞き返す沙奈を栞の真剣な眼差しが見つめる。

「お家までお送りします」

家まで?

タクシーで帰るのに?なぜ?

少し首を傾げる沙奈の表情に焦れた様子で栞が言葉を重ねる。

「チーフはまだ万全じゃないんですよっ。タクシーの中でまた気を失ったらどうするんですか!」

確かに、また気を失わない保証はない。

少なくとも、タクシーに乗り込んで行先を告げた後は、到着まで寝てやろうという腹づもりでいる。

だが、栞が家を訪ねて来た時、一度目は歯型を付けられ、二度目は首を絞められた。

自分自身が弱っている今、美優が何かしてきても上手く処せるだけの体力が今の沙奈にはない。

となると、この優しく有難い提案に素直に頷くわけには行かない。

「大丈夫よ。付き添ってもらっただけで充分助かったわ。本当にありがとう」

枕元の棚に置かれていたカバンを手にして、このカバンも恐らく栞が運んでくれたものなのだな、と思う。

「お礼に今度、昼食おごるわ」

そう言って、フロントに向かおうとした沙奈の身体が少しグラついた。

「チーフ!?」

慌てて支えようとしてくれる栞を制して、軽く首を振る。

「点滴のせいでまだぼんやりしてるだけよ」

「チーフ……」


+++


タクシーが既に暗くなり始めた街を行く。

目を閉じて、その揺れに身体を預ける沙奈の隣に、栞の姿があった。

結局、どうしても送るという意見を曲げない栞を説得しきれずに、一緒に帰る事になってしまった。

いつもなら、沙奈の心境を察して身を引く栞が、今日だけは断固として首を縦に振らなかった。

心配してくれている事がその表情から伝わってくるのと、弱っているせいもあって、沙奈も抗いきれなかった。

本当はありがたい事だと思う。

自分の時間を使ってまで他人の心配をしてくれる人間が世の中にどれだけいるだろう。

恋人や家族ならばともかく、栞はただの部下であり、友人ですらない。

「悪いわね」

「いいえ、私の我儘ですから」

目を開ける事さえ億劫で、呟く沙奈の言葉に、栞も小さく返事をする。

栞の行動は人としてとても良心的で親切なのだ。

けれど、美優に見られでもしたらと思うと、内心気が気ではない。

また少し熱が出て来たのか、身体が重だるい。

そして、とても眠い。

「チーフ、着きましたよ」

そう声を掛けられて目を開けると、見慣れたマンションのエントランスが見えた。

「ありがとう、ここでいいわ」

栞にそう告げて車を降りる。

と、そこで筋肉痛が足を襲い、僅かにふらついた。

「チーフ!」

沙奈の腕を掴んだ栞が後ろを振り向き「ちょっと待っていてください」と運転手に伝える。

「斎藤さん、大丈夫よ、今のは……」

ぼんやりした頭で説明を試みるも、説得力がないことに自分でも気づいた。

支えてくれる腕を振り払う事も出来ずに、そのまま部屋の玄関に向かう。

意識が、混濁していると自分でも分かっている。

早くベットで横になりたかった。

とりあえず、美優が玄関にいなければ、問題ない。

送ってくれてありがとう。

そう言って一人で中に入ればそれでいいのだ。

「チーフお家の鍵、ありますか?」

心配に気を取られ、ぼんやりとして現実を把握しきれていない沙奈は、栞のその言葉を聞き逃した。

ピンポーン。

遠くでチャイムの音がする。

随分と自分の家のチャイムと似ている音色だな、と沙奈の半分眠っている脳が分析する。

ガチャっと音を立てて、玄関の開く音がした。

「貴女……っ。沙奈!?」

聞きなれた美優の声が不快と悲痛の音を奏でる。

本当に、美優は分かりやすいなと、ぼんやり思う。

あれ?でも、これってちょっとまずい状況なんじゃ?

覚醒しかけた意識を睡魔が覆い隠す。

「とりあえず寝かせたいので入っていいですか?」

そんな栞の声が聞こえた気がした。


+++


ぐったりとした沙奈に身体を密着させて佇むその女の姿に、美優は軽くパニックを起こしていた。

いつも入るはずの帰るよのラインもコールもない。

美優が送ったラインは、お昼を過ぎた辺りから急に未読のままになっていた。

朝に会議があると聞いていたから、長引いているんだと自分を励まし続けていた美優の心臓は今、早鐘の様に鳴っていた。

「とりあえず寝かせたいので入っていいですか?」

強い口調で尋ねられて、美優は反射的に頷いた。

慌てて反対側から沙奈を支える。

二人でリビングのソファに寝かせると、沙奈は一度大きく深い息をついて、そのまま寝息を立て始めた。

「会社で倒れて病院に運ばれたんです。風邪だそうで命に別状はありませんが、安静に養生してくださいとの事でした」

顎まである黒い髪を艶やかに揺らしながら沙奈を心配そうに見つめ、そう説明してくれる女の横顔に、美優は自身の心がざらつくのを感じていた。

大きめの瞳の奥にある強さ。美優とは基本的に合わない人間だと分かる。

「妹さんですか?」

「え?」

急な質問に思わず疑問の声を出す。

「彼氏さんはまだ、お仕事なんですね」

何を言っているのだろう。この女は。

脳が上手く対応できない。

沙奈に彼氏などいるはずもない。

そんな事を美優が許すはずもないのだから。

疑問と嫌悪感だけが美優の中で膨らんでいく。

「あ、申し遅れました。私は木崎さんの部下で斎藤栞と申します」

急に立ち上がり、礼儀正しくお辞儀をされて、美優も僅かに頭を下げる。

「さ、佐々木……です」

「あ、妹さんではなく、お友達の方だったんですね。失礼しました」

思わず名乗ってしまった美優に栞は笑顔で謝罪した。

「とても綺麗な方だったので、てっきり血縁の方だと思ってしまいました」

親しみやすい雰囲気。悪意のない笑顔。

本来、人として歓迎されるべき彼女の特色は、美優にとって不快でしかなかった。

沙奈の近くに。沙奈の隣りに。

美優の知らない場所ではこの女が傍にいるのだ。

当たり前のように。

沙奈にとってなんでもないくせに。

サナハ、ワタシノモノナノニ。

「……ちがいます」

「え?」

美優の呟きに、今度は栞が疑問の声をあげた。

「私は友人でも妹でもありません」

可哀想な人。

沙奈から本当の事を教えてもらえない、壁の外の人間。

ここは私と沙奈だけの場所なの。

「私は彼女の恋人です」

「え?え?」

慌てた様子で、沙奈と美優を交互に見る栞を美優は冷たく見つめていた。

残念だったわね。

心の中でそう呟く。

美優でなくても分かる。

沙奈を見つめる栞の瞳の中にあるもの。

それは間違いなく好意。

それも、人としてではなく、あきらかに恋する者に向ける視線。

沙奈の様子から、多分その想いは沙奈に届いてはいない。

「あ……。そう……なんですね」

急に視線を下げた栞が美優から目を反らす。

「私、外にタクシーを待たせてあるので、これで失礼しますね。お大事に」

早口でそう告げて、出ていく栞を背中で見送り美優は沙奈に近づいた。

小さな寝息をたてる沙奈の頬を軽く引っ張ってやった。

「鈍感」


+++


眠り続ける沙奈の邪魔をしないように静かに夕食を済ませ、額に貼った冷却シートが剥がれていないかを確認しながら美優は沙奈を見つめていた。

お粥でセットした炊飯器が上げる蒸気の音と沙奈の寝息だけが部屋に響く。

あんな女に連れられて帰ってくるなんて。

心に沸き上がる怒りは、けれども弱った沙奈の姿にしぼんでしまう。

命に別状はないとあの女は言った。

でも、こんなに弱っている沙奈を見るのは初めてで、不安が胸に込み上げる。

「沙奈……」

心細くなって、その頬に顔を寄せた。

いつもより熱い沙奈の体温が唇から伝わってくる。

斎藤……栞。

唐突に彼女の姿が脳裏をよぎって、美優は沙奈の隣に無理やり身体を横たえて、その身体を抱きしめた。

「ん……」

狭いソファの上で密着すると、沙奈が身じろいだ。

「沙奈?」

「……美憂?」

僅かに目が開き、ぼんやりとした瞳が美優を捉えて微笑む。

「みぃゆぅ~」

甘えた声で抱きしめて沙奈が美優の頬に頬ずりをした。

「さ、沙奈??」

見た事のない沙奈の様子に戸惑う美優を置き去りに「あれ?お家~?どして~?」沙奈は周りを見渡して小首を傾げている。

半開きの目。

「沙奈、酔って……る?」

いや、沙奈は決して泥酔しない。酔うラインを自分で決めて飲むタイプなのだ。

それに発熱している事を考えると、これは熱に浮かされているというべきかもしれない。

もしかしたら、脳が半分休眠している状態なのかもしれない。

「美優~」

「え?ちょっとっ沙奈っっ」

抱き着いたまま伸し掛かられて、二人の身体がソファから転がり落ちる。

「痛っ」

背中が二人分の体重分の衝撃を受けて、じんと痛んだ。

普段も沙奈が美優をソファから落とす事はあるが、ここまで痛くない。

そして始めて、あの時はいつも美優の身体に負担がかかりすぎないように支えていてくれたのだと知る。

「みゆぅ~」

この幼女化した沙奈にそういった配慮はなさそうだ。

「さ、沙奈?沙奈ちゃん??」

美優の胸元でスリスリと嬉しそうに頬ずりしている沙奈を持て余す。

「あの……」

「みゆ~だいちゅき」

「!?」

美優の耳が赤く染まる。

だいちゅき?今だいちゅきって言った!?

「沙奈、も一回言……」

見ると、美優の胸元で沙奈は再び寝息を立てていた。

「もう……なんなのよ。沙奈の馬鹿」

そう言って、髪を優しく撫でると沙奈が嬉しそうに少し笑った。

可愛い……。

こんな風に甘えられたことなんて今まで一度もなかった。

いつも美優が甘えるばかりで。

「いつでも甘えていいんだよ、沙奈」

そっと抱きしめて囁く。

伝わってくる温もりが、美優の不安や怒りを溶かしていく。

明日になったらまたきっと不安になると思う。

でも、今だけは。

「私も大好きだよ。沙奈」

一つだけ心残りがあるとするなら、さっきの声を録音出来なった事くらい。

目を覚ましたら、優しくお粥を食べさせてあげよう。

大好物の、紀州梅を添えて。




episode4 end






【来月からはepisode5です】

【4日か5日頃スタート!】

【更新するタイミングでツイートしてるので詳しくはTwitterを見てね】

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