4話すべて読まなきゃ勿体ない!

 1話だけを読んだやめた人、あるいは4話まで読まなかった人が多く居るのではないだろうか。気持ちはよく分かります。ですが、その人は実に勿体無いことをしましたね。
 1~3話までは会話文だけで構成されています。その為に、読んでいて映像が作れず、整理しづらいです。会話劇ならではの弊害の幾つかは、解消されておらず、私を悩ませました。
 特筆する弊害は、人物のステレオタイプ化です。発言だけでキャラ立てする為に、読者の中にある固定観念を頼ったのだと思います。なので、私には出版に携わる個人というよりも、その種の偏見代表を演じるキャラクターとしか映りませんでした。言い換えれば、ひどく作為的なのです。
 会話劇に挑戦した意図は、たぶん分かります。その一つが、「言葉の裏側」でしょう。映像を持たない言葉だけで構成することによって、その裏側を強調する意図があるのだと、解釈しました。
 1話で書かれた言葉の裏側は、無礼講と言われて額面通り受け取ると反感を得る、というものでした。これはもはや「あるある」でしょう。オリジナリティはありません。私の1話の印象は、身も蓋も無い言い方をすれば、ステレオタイプキャラクターが、小説の座談会という舞台で、世間に流布する「あるある」を演じている、という残念なものでした。
 2話、3話とそれぞれの形で言葉の裏側が書かれていますが、そこに新発見の驚きはなかったです。
 これら三話は、ささやかに関連し合うものの、独立した短編です。そして、4話の前振りともなっています。
 4話は他三話とは異質です。とくに佐藤蓮の書いた遺書はあまりに衝撃的でした。一人の人生そのものでした。小説を愛し、小説に苦しみ、剰え小説を書き続けた男の、苦悩や後悔、恐怖に自棄、そして怒り。死ぬことだけを残した小説家・佐藤の、自分のために書いた最後の一冊となる遺書。
 本当に衝撃的でした。
 そして何がそこまで私を戦慄させたのか考えて見ると、再び敬嘆の息を洩らしました。
 それは間違いなく、遺書に書かれた物が見せた衝撃でしたが、その発射台となる物があったのです。前三話がそうでした。
 私は前述の通り、前三話に好印象を持っておらず、ひどい作為性を感じていました。対して遺書に作為性は見られません。それは本当で、本物で、無作為の、佐藤蓮の書いた遺書でした。作為と無作為、ただそのギャップがあったから、より魅力が爆ぜた、のではありません。
「言葉の裏側」です。前三話はそれぞれ裏を、嘘を孕んだ物語です。つまりサトウさんは前三話の露骨な作為感を、作為的に演出していたのです。対して遺書に嘘も裏もありません。「ここに嘘偽りはない。すべて真実である。」けど、二人を殺していないじゃないか、はこの反証とはなりません。佐藤蓮は結局最後まで小説家であり、己の殺意、怒りの描写として二人の殺人を書き入れたのです。
 作為に満ちた前三話、それらは作為に満ちた裏を持つ世の中を描写し、それらとの対比に置かれた佐藤蓮の遺書は、一層本物のこころの独白として輝いた。だから私は、佐藤蓮の残した遺書に、あまりの衝撃を受け取ったのです。