六日目 曇り、時々雨 【悲哀】

六日目 曇り、時々雨 気温低い 湿度高い


 碧の心は、藍色に染まっていた。数日間、人の声を聴いたのは、動画配信サイトの映像のみ。直接誰かと会話をして、冗談を言って笑いあうことも無い。人の温もりも誰かの表情の機微も、今は忘れ果ててしまいそうなほど。感傷に浸り、誰かに会いたい、人の温もりがほしい、抱きしめてほしいという欲が募る。

 喪失感、虚無感、罪悪感背徳感。自身だけが世界に一人生き残ってしまったという、サバイバーズギルト。警鐘が鳴り響いているかのように、頭を覆う鈍痛から逃げることができない。

 悪い思案ばかりする悪い脳を誰かに診てもらい、心のうちの物悲しさを曝け出してしまいたい。しかしそれはもう、一生叶うことのない欲望だった。


 碧はその日、何処かに所在を隠しているやもしれない誰かを探すように、体力面の考慮すらせずに自転車を漕ぎ続けた。

 遠くへ、遠くへ、誰かを探すように。

 遠くへ、遠くへ、一人逃げるように。

 普段は行かない川沿いは、梅の花弁の花筏で彩られていた。幼少から通っていた小学校中学校は、数十数百年ぶりのものかと見紛うほど、酷く懐かしく思える。その場所へ向かえば、かつての担任と昔話に花を咲かせることができる気がした。しかし誰とも、会うことはできなかった

 よく一緒に遊んだ友達の家に、サプライズで訪ねてみた。高校に進学して離れ離れになってしまったが、たまの休みに区内へ遊びに行くこともあった友人だ。しかしその家には、誰も居なかった。

 時間が経つに連れて、段々と雨量が増加していく。降雨の中ではあるけれど、碧は気にもとめなかった。身体が濡れて髪が額に張り付き、冷たくなった服が体温を奪う。たまに自転車を止めては、ぼうっと前方の景色を眺め、それでも自転車を走らせた。

 朝九時から、夜の二十一時までの十二時間。休憩を挟みながら、飲食はせずにただただ碧は走り続けていた。



 宵闇の帳が降り、ひとしきり雨も振り切った頃に帰宅をした。車庫に仕舞おうと思った自転車が、やけに重い鉛になったかのように感じる。何があったのかと車体を見てみれば、その後輪は既にパンクしてしまっており、使い物にならなくなっていた。

 中学一年生の頃、両親が誕生日プレゼントとしてくれた、夕焼け色のお気に入りの自転車だった。大好きだった。

 この世界にはもう、自転車の修理技師は居ない。碧にそのような知識は備わっていない。真っ赤な相棒はもう、うんともすんとも言わなかった。



 帰宅した後、碧は湯を沸かすことすら億劫になり、生暖かいお湯を浴びた。それでも身体が冷えるような感覚はなく、気怠い身体の重さのみが邪魔で仕方がない。

 ただただ流し続けただけのシャワーで、いろいろなものを洗い落とした。体の汚れ、かいた汗、流す涙、その全てを誤魔化すように。

 お湯の温度が徐々に、人の温もりに思えるようになった時、碧は自分が存外疲れていることを自覚した。散々動き回ったはずなのに、しかしどういうわけか腹は空いておらず。適当に体の水分を拭きとってパジャマに袖を通すと、布団に伏して死んだように眠った。

 このまま永遠に、眠ってしまいたかった。

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