二日目 曇り 【無人】

二日目 曇り 気温低め 湿度低め


 鈍器で頭部を殴られたような鈍く重い衝撃を覚え、碧は勢い良く体をもたげた。冷や汗が流れて身体に張り付いた衣服、細く閉まった喉から漏れる自分自身の呼吸音が耳障りだ。

 警戒するように周囲を見渡すと、そこには誰もいなかった。どうやら碧は、ソファから落ちて頭を打ったらしい。木材室の床の無機質な冷たさが、指先から体温を奪う。

 カーテン奥の鎧戸の隙間から薄明かりが覗いていることから、どうやら一夜を明かしたらしい。消し忘れた眩い室内照明に明順応が追いつかないまま、碧は瞼を擦る。

 朝食は微塵も香らなかった。それは、母親が未だ我が家に居ない事を暗に示している。

「お母さん?帰ってきてる?」

 そうと悟りつつも碧は、少しばかり張り上げたような声を出した。しかし矢張り返事は無い。

「おはよう。今から顔洗ってくるからご飯作って待ってて」

 静寂のおり、時計の針が時を刻む音だけが鳴る。自身の声が虚しくも反響する静謐に、感傷に暮れた。昨晩眠る前に、碧は可能性を幾つか考えていた。その中で最も、確実性が高いと思われること。

 それは唯一つ、この世界には、既に誰もいないという考えだった。

 夢の中にしては痛みも伴っているし、眠りも深くて長い。家族の考案したドッキリにしては上段ならないし、ネットの呟き一つ無いのならば、世界規模になってしまう。碧のために世界が巫山戯るだなど考えられない。

 となれば、碧たった一人が文明の遺産として、やがて荒廃するこの世界に取り残されてしまったのではないか。

 勿論、その思考が突飛なものだというのは碧自身も重々承知の上だった。しかし、誰の肉声を聞くこともできず、誰の顔を見ることもできない現状で、正常な判断など下せるわけもなかった。思春期特有の多感、静かな空間でネガティヴな思考が加速してしまう特徴。

 もしこれから先、誰の安否も確認することができなければ、碧はこの広大な世界をたった一人で──

 考えうる限り最低な案が頭の中で確立するのを、碧は自身の頬を抓って強制的に抹消した。もしかしたら、未だ何処かに誰かを見つけられる可能性があるかもしれない。現状に陥った起因を探せば、何かが発見できるかも。

 今諦めるのは早計だ、行動を起こすべきだ。そう考えた碧は、近辺の探索を行うことに決めた。

 先程抱いてしまった考えを、思考の隅に置きながら。



 探索の相棒は、数年前の誕生日に購入してもらった自転車。鮮やかな赤い彩色の一部が色褪せ始めてはいるが、錆や車輪の破損もなく、状態は好調である。

 清風を肌に受けながら散策する市内は、酷く閑散としていた。無音と呼称するのが相応しい光景は、若い身空ではあるが見たことがない。公道に自転車を走らせる摩擦音と碧の心臓の鼓動、吹く風が揺らした木々のさざめき。しかし自然音以外の何者も存在しない不可解な空間。

 普段なら喧しいほど聞こえるはずの、乗用車の走行音と稼働するエンジン、線路を沿う電車の痛烈な車輪の摩擦、行き交う雑踏と姦しい話し声などがないだけで、世界はこんなにも重苦しく寂しいものなのかと感じた。

 碧は最初の目的として、日本の政府組織の要たる警察機構の状態を確かめることを決めた。線路を超えて数分自転車を走らせたところに、やや大きめの警察署がある。指名手配犯の顔写真や犯罪防止ポスターと共に、本日の事件件数が看板に掲げられている。

 その日付と数字は、二日前の月曜日のまま放置されているようで、変動がない。国家機関が、些事とはいえども書き換えを疎かにするとは、碧には思えなかった。施設内に足を踏み入れてみても、廊下はおろか受付にすら誰もいない。

 予想こそしていたが、やはり無人なのだろう。

 碧はその足で自転車を飛ばした。いつもならば人手が多く賑わっているはずの歓楽街の、閑散とした路面店の前を横切って、市政を行う役所へ向かう。しかしそこを訪れてみても、施設は閉館したまま。『市役所の窓口案内開始は朝九時から』という立て札だけが自動扉にかけられていた。

 誰かの生存を確認するにおいての最有力候補としてあがる場所を幾つか訪ねても、何処にも誰も居ない。それは、碧が一度は否定した考えに、徐々に真実味がましていく兆しだった。

 碧は気を取り直して、近場の小学校に足を運んだ。通常ならば、小学校特有の中休みという休憩時間のはずだ。楽しそうにボールを蹴って駆け回る男児や、木陰でままごとに興じる女児。どちらも嬉々として、体力の底を感じさせないほど無邪気に遊ぶ姿は、この近隣を通る度に見られる光景の一つだった。

 今では、その影はないが。

 小振りに咲いた梅の樹木が数本、校庭の隅に彩りを添えている。散った花弁が通学路の隅の排水溝に詰まっているのは、事務員の人が清掃を行えていない確たる証拠だろう。

 それと同時に碧の耳に入ってきたのは、聞き慣れた始業開始のチャイム。定例の鐘の音は、規則的に時を告げている。しかし学校で鳴るそれは、時間ごと鳴るように事前に誰かが設定をしたものであるため、その音から直接誰かの生存を確認することはできない。

 無駄な期待を煽ったその音に不快感が募り、碧は顔色を曇らせて愛車と共にその場を後にした。


 幾ら探してみようとも、人っ子一人見られない。それどころか、春の訪れが間近であることを示す虫達や、民家の犬や猫に至るまで、生きとし生ける物が植物をおいて他に存在しない。

 次は市内で最も大きな駅へ赴いてみようと自転車を走らせる。ふと碧は、公道の路肩に黒い車が駐車されているのを見た。乗り捨てられたような乗用車は他にも何度か見てきたが、明らかにそれは周囲のものとは違う。

 エンジンが稼働しているのである。

 碧は目を見開いて、その場に自転車を蹴倒して駆けた。走行車のない大通りを左右の確認もせずに横断し、息を切らしながら張り付くようにその車窓を覗きこむ。

 だが、車内に人の影は見受けられない。つけられたままの車内ラジオから、砂嵐のノイズが無機質に垂れ流されている。

 その音と共に自身の心が粉々に砕けたのを、碧は実感した。たった今芽生えた最大の可能性が一瞬にして潰えた反動は、恐ろしく大きなもので。

 人を見つけるという目標はすぐさま頓挫し、崩折れた心を抱えながら、漕ぐ気力も失くなった自転車を押して帰路につくのだった。




 帰宅した碧は、湯を予めためておいた湯船に浸かって、半日で充分疲弊した肉体を休めた。今日の活動では形あるものを得ることはできなかったけれど、確かに大事なものを入手することはできただろう。

 その事実が幸であれ不幸であれ、確信に迫る一歩を踏み出せたことに変わりはない。

 入浴を終えた碧は、おおよそ食欲らしきものが湧いていないことを実感していた。疲労が溜まった体であるはずなのに、眠気も何も微塵も体面に現れて来ない。

 しかしそのまま何もせず直立しているのも嫌で、重い足を引きずって自室の寝台に転がる。夕刻が過ぎて夜が更け用途も、なかなか寝付くことはできなかった。

 人の肉声を久しく聞いていない寂しさと空虚さを紛らわすために、スマホで動画配信サイトを漁っては、会話の内容も聞かずに人の声だけを流してぼうっとする。

 しかし思考だけは、残酷に、純然に、事実だけを頑として碧に告げようとしているのだった。

──よもやこの世界には、碧をおいて他の誰も。

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