逃走

 警邏の包囲網を無事突破して、閃は路地を駆け抜ける。塔の上から見えた、国際警察の所有する小型飛空艇 《いるか》の飛んでいた方向とは真逆の方向へ向かっている。その方が鉢合わせする可能性が低いからだ。


 律が正体を明らかにした上で派手に殺していてくれたお陰で、警邏たちの警戒が彼女ひとりに絞られていたのが幸いだった。哀れな被害者の演技にころっと騙された警邏の不用心さとその後の鐘による大きな隙に、殺人衝動に理性が揺らがされたが、なんとか抑えて逃げ出すことができた。今頃我に返って被害者が消えたことに気付いているかもしれないが、恐怖に堪えきれずに自分で逃げたのだとか、うまい具合に解釈してくれればいい。

 ずっと走りっぱなしだから、息が切れてくる。突然狂った鐘に人の注目が集まっているだろうから、街の中心を突っ切るのではなく、迂回しながら路地を抜けているのだが、流石に街の逆側は遠い。

「首は隠したし、時間稼げるといいんだが……」

 壁に背中を預けて、息を整える。路地の向こうの通りから、人々のざわめきが聞こえてくる。

 魔術で『異空間』を創って、その中に律の首を放り込んでおいた。律が死んでいることに気付かれると、じゃあ彼女を殺したのは誰かという話になるからだ。今は大通り周辺に限られている包囲網が、この街全体にまで拡大されては困る。死んでいることが割れない限り、警察は律を探し回るだろう。警邏の張った包囲網は何処も破られていないのだから、包囲網の外側にまで手を伸ばすのは後になる。閃が街から逃げ出すまで、そうしていてくれればいい。

 だが胴体は通りに転がったままにしてきた。子供の被害者は他に何人もいた。被疑者の年齢や体格を国際警察が把握していたとしても、その中に律がいるとはすぐには気づけない。けれど、街の住民や警邏なら、もしかしたら気づくだろう。それか、首のない身元不明の死体ということで感づく者がいるかもしれない。――どちらにせよ、十分な猶予はある。それでも安全な逃走を不確かにする、不必要な自己満足だと、わかっていた。

「……ちゃんと埋葬してくれりゃ、いいけどな」

 細かく定義する時間はなかった。あのまま首は見つからないままになるだろう。せめて胴体だけは、埋葬してもらえればいい。


 ちゃんと、親子同じ墓に入れてもらえたらいい。

 人でなしの畜生扱いであっても、そのくらいの慈悲はせめて、警察も持ち合わせているはずだ。


 壁から背中を離した。はあ、と大きく息を吐いて、また、路地を駆け出す。



 街を囲む壁に辿り着いたときには、もう日も傾きかけていた。日暮れが早い。こちら側にある門は、まだ離れたところにあるのだが構わなかった。未だに関心が鐘に集中しているお陰で、この辺りには人っ子ひとりいない。

 汗を拭って、口角を吊り上げる。

 定義を歪めておいて正解だった。あの鐘が狂えば街の人間は動揺する、そう思っていたが、想像以上の効果だ。


「パ+パの大切⇒なつぼ 割◯っちゃ@った

ママ≧の大〆ー切なマフラー よこ㏍゛しち〓ゃった

パパもマ◎マも鬼Θになって

えっちξらおчっちら 坊ρやは逃aaげた」


 口ずさみながら高さ三メートルほどの石壁に手を伸ばす。近づいた手を避けるように、石壁がぐにゃりと歪んだ。更に近づけるともっと歪む。歪んで歪んで、手の向こうに穴が空く。

「……よし」

 大股で近づく。石壁は閃の身体全てを避けようと形状を変えていく。腕も、足も、胴も、頭も、壁が勝手に避けていった。

 壁を抜けると視界に広がるのは浩々とした大地、遠くには白い雪山。振り返れば、穴など幻だったように平然とそびえる壁。

「……じゃあな、ベリジャニア」

 本当は羽を伸ばすつもりだったのだけれど、国際警察が来てしまったら仕方がない。鉢合わせることもなく、目的も達成できた。人をろくに殺せなかったのは世知辛いが、ジダ村までの路上で適当に殺して発散させればいい話。

「……あーでも、フォルセチキンは、また食いたかったなぁ……」

 あの焼き鳥は美味かったから。

 きっとあの店主を殺しに行くだろうと、わかっていた。彼は律の目の前で、明確に、彼女を拒絶していたから。だけど、やっぱり惜しかった。生きていたら、またあの焼き鳥を食べられたかもしれないのに。

 まあ、死んでしまったものは仕方がない。

 手荷物の麻袋から地図と方位磁針を取り出して、進路を確認する。日が落ちきる前にできるだけ進まなければ。壁に背を向けて、歩き始める。

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