第2話

 某日。神奈川県陽岬ひのみさき市。


「……で、仏さんは確かに『ティンダロスの猟犬りょうけん』の名前を出したってことでOK? 聞き間違いとかでなく?」


 資料にざっと目を通し、「赤松探偵事務所」所長、赤松治五郎あかまつじごろうは頬の傷を撫でた。そのままタバコに火をつけ、口に加える。

 対峙する警官……中野風馬なかのふうまは、真剣な面持ちで静かに頷く。


「おそらく、間違いないかと」


 小綺麗なスーツに身を包んだ中野は、デスクから漂うタバコの煙にわずかに顔をしかめる。……が、文句を言うことはなく、直立不動の姿勢も崩さない。


「ふーん……? あかりちゃん、これコピー取ってもらっていい?」

「わかりました」


 資料を手渡された少女は、中野にあまり顔を見せないよう俯きながらコピー機の方へと向かった。


「高知県斗沼とぬま市、か。アメリカの邪神と関係がありそうな感じ、しないけどねぇ……」


 ティンダロスの猟犬。

 ホラー作家、フランク・ベルナップ・ロングの小説に登場する怪異にして、ハワード・フィリップ・ラヴクラフトおよび友人たちが作り上げた架空神話「クトゥルフ神話」の怪物としてそれなりに著名な生命体だ。


 常に飢えた彼らは、一度獲物の臭いを嗅ぎつけると時空を超えて永遠に追い続けるという。

 実体化の際は強烈な刺激臭を発生させる、不浄な存在であるがゆえに清浄な存在を追い求めるなど様々な逸話が存在し、破片など120度以下の角から現れ人間を襲うとされる。それが「ティンダロスの猟犬」だ。


「……それより、被害者の状況が気になるわねぇ」


 部屋の片隅から聞こえた声に、中野ははっと振り返る。

 いつの間にやら、着物姿の女……いや、男がそこに立っていた。


「猟犬にズタズタにされたってこったろ? 何が気になんのよ、ヤマナっち」

「赤松、さてはあんた『ティンダロスの猟犬』のこと知らないでしょ」


 山名やまなと呼ばれた男は着崩した着物を引きずりつつ、書棚から一冊の本を取り出した。

「クトゥルフ神話TRPGルールブック」と書かれたそれをパラパラと捲りつつ、山名は語る。


「耳かっぽじってよく聞きなさい? 本当に『ティンダロスの猟犬』が犯人なら、犠牲者の遺体からは血が流れないはずなのよ」

「へぇー」


 赤松はサングラス越しに中野の方をちらと見る。


「……やっぱ、聞き間違いとかじゃ?」

「交番にいた巡査は、確かに『ティンダロスの猟犬』という言葉を聞いたそうです。それ以上は、自分では分かりかねます」

堅物かたぶつだねぇ、君……」


 くわえたタバコを灰皿に押し付け、赤松はくっくっと低く笑う。


「良いよ良いよ。詳しいことは現地で調査するから」


 資料のコピーを終えた少女が、赤松の机の方へ帰ってくる。「あんがと」と受け取り、赤松は中野に「帰って」とジェスチャーをする。

 中野は深々と礼をし、玄関の方へと向かった。


「……はぁー、終わった……」


 外の空気を吸い、彼はほっと肩の力を抜く。


「わざわざわしが神奈川まで行かされちゅう意味、さっぱり分からんぜよ……」


 依頼を終えたら、飛行機で帰って来いと言いつけられている。

 今時ならばメール一本で依頼できそうなものだが、「赤松探偵事務所」はなぜか、対面以外での依頼を一切受け付けていないらしい。


「ホームページまで作りゆうくせに、能が悪いにゃあ不便だなあ


 ツタまみれの洋館を振り返り、ぼやく。

 門扉もんぴで打ち水をしている女性に会釈えしゃくをし、中野は捜査本部に帰ろうと歩を進めた。


「あの!」

「ん?」


 すれ違いざま、先程会釈をした女性に呼ばれ、振り返る。

 なぜか巫女服を着た彼女は穏やかに笑い、礼をした。


「ご武運をお祈りします」

「……はい?」


 その言葉の意味を理解できぬまま、中野は時間ぴったりに迎えに来たタクシーへと乗り込んだ。




 ***




 後日、中野は調査に訪れた赤松を、当事者でもある部下と共に駅まで迎えに行った。


「赤松さん、お待ちしていました。こちらが例の岡林巡査長です」

岡林おかばやし由依ゆいです。よろしくお願いいたします」


 中野と並び、岡林は警察手帳を見せる。


「おおー、婦警さん? べっぴんだねぇ」

「赤松、そういうのはやめなさいねぇ~」

「いでででで!!」


 岡林に対してニヤつく赤松の足を、山名がギリギリと踏みつける。赤松の方は柄物がらもののスーツに色付きのサングラスを身につけ、短く切り揃えた髪はほんのり赤色に染められている。並ぶ山名は長い白髪に着崩した着物姿、しかも、日除けに和傘を差している。


「中野巡査部長。この方々は、その……堅気かたぎですか?」


 岡林が、中野に対して小声で聞いてくる。


「そのはず……ですが……。……自分からは何とも言えません」


 岡林の警戒心は、中野にもよく理解できた。


「ごめんなさいねぇ。コイツ、時々サル並みの知能になるの」


 山名はにこやかに笑いつつ、赤松の足を踏み続ける。


「アタシは山名万葉やまなまんよう。赤松の仕事仲間よ、よろしく」

「痛いって!! 早く足どけてくんない!?」


 岡林、中野には茶目っ気たっぷりにウィンクをしつつ、山名は赤松の足を蹴り飛ばすようにして足を退けた。


「どちらも男性の方ですよね」

「……さあ……」


 岡林の疑問には答えを濁しつつ、中野は冷や汗をかくしかなかった。

 先が思いやられるが、事件は迷宮入りしかけている。オカルトなど眉唾まゆつばな話だが、現実的な理屈で結論づけられない以上は、「専門家」に頼るほかなかった。

 それに、中野は詳しく知らないが、斗沼市は「そういう土地」でもあるらしい。




 現場になった交番に辿り着くと、赤松はさっそく冷たい茶を要求する。

 中野がコンビニに向かおうとすると、岡林がそそくさと席を立ち、備え付けられた冷蔵庫からペットボトルに入った麦茶を出して紙コップに注ぎ始めた。

 中野は着席すると机に資料を並べ、山名もホチキス止めしたコピーをカバンから取り出す。


「最初の被害者の名は濱田和雄はまだかずお。年齢は39歳。ごく普通のサラリーマンです」

「そのごく普通ってのは、どういう基準?」


 赤松の質問に、中野は眉をひそめつつも顎に手を当て、適切な答えを導き出そうとする。


「えーっと……一般的な年収で、素行に目立った点がない……という意味で、『ごく普通』と表現しました」

「あんがとよ。ほんとに真面目ね、中野くん」


 ケラケラと笑いつつ、赤松はホチキス止めした資料に目を通す。


「……で、血塗れになって交番に駆け込むや否や、『ティンダロスの猟犬だ!』と叫んだ……と。合ってる?」


 赤松が今度は岡林に向けて質問し、問われた彼女は静かに頷いた。


「はい。間違いなくそう言っていました」


 ショッキングな光景を目にしたからか、岡林の身体は微かに震えていた。

 それでも岡林は膝の上で拳を握り締め、語り続ける。その薬指に光る指輪は、まだ真新しい。

 ふと、中野は、夫婦の結婚式に参列した日を思い出す。Tと、Y。たかしと由依。お互いのイニシャルが彫られた指輪が、彼女を守ろうとしているようにも見えた。


「おそらくは路上で襲われ、とっさに交番に駆け込んだものと思われます」

「それで……その現場がこの交番、と」

「……はい」


 惨状を思い出したのか、岡林は俯き加減に床を見つめる。


「二人目の被害者……えーと、高原たかはら綺紗羅きさらさん? は、27歳。彼女は検察官と。この人も交番に駆け込んだの?」

「いえ、巡回中に悲鳴を聞いて、駆け付けました」

「三人目は本多吉蔵ほんだよしぞう。78歳。職業は骨董品店経営者です」


 質問に答えて状況説明をする岡林に、資料を読み上げる中野。

 赤松はやれやれと首を振り、「見事にバラバラだねぇ」と肩を竦めた。


「聞きたいのだけど……現場に何か、鋭い角度のものはあった?」


 山名がそう聞いたのは「ティンダロスの猟犬」に120度以下の角から出現する……という特徴があるためだが、あくまで確認だ。

 120度以下の角は、なんらかの破片でも容易に生じる。あらゆる道路や壁がコンクリートで固められているこのご時世、むしろ、角のない曲線のみで構成された場所を見つける方が難しいだろう。


「第二の犠牲者は検事バッジを身につけていました。第三の犠牲者は加齢のため杖をついており、持ち手の部分に破損があったようですが……最初の犠牲者はどうでしょう……」


 中野の言葉に続き、岡林が言う。


「……あ。ベルトのバックルが、少し特徴的でした。こだわりがあったのかも……」

「……そう」


 山名が返事をした途端だった。

 ぽたり。

 天井から、何か、雫のようなものが滴り落ちた。


「……え?」


 中野は上を見上げ、唖然とした。真っ赤な染みが、天井に広がっている。

 滴り落ちた雫が資料に落ち、そちらにも赤い染みを作り出す。


「血……?」


 ぼたり、ぼたりと真っ赤な液体が滴り落ち、瞬く間に資料を、机を汚していく。


 ──グルルル……


 まさしく「猟犬」らしき呻き声がその場に響く。……まるで、これ以上調べるな、とでも語るように。


「ティンダロスの猟犬……」


 岡林が震える声で呟く。

 机に出来上がった染みは、しくも犬のような形を作り出していた。

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