07 先生

 報告会が終わって、御波と別れた後。

 陽明は豊音との約束通り、大学構内の屋内プールへと向かった。先月、全国大会の決勝戦が行われた会場だ。


 すでに時刻は午後八時を回っており、受付前の広い待合スペースに人影は疎らだった。併設されたジムには学生や一般客の姿も見えるが、プールの方からは全く人の気配を感じない。恐らく一般開放日ではないのだろう。


「え……?」


 予想外の人物を見つけて、唇を半開きにしたまま固まってしまった。


「久しぶりだね、ハル」


 開放感のあるロビーで椅子に座っていたのは、報告会で登壇していた長身の優男。

 手足が長く、研ぎ澄まされた日本刀と見紛う姿は凜とした空気を纏っている。背中まで流れる長髪は一本に結われていて、怜悧な顔立ちは三十歳という年齢を疑わせる程に若々しい。野心に満ちた切れ長の瞳は、胸に秘めた情熱が溢れ出したみたいに輝いていた。


 しん

 日本エバジェリー協会の職員であり、陽明にエバジェリーを教えた男だ。


「どうして、慎也さんがここに……?」

「豊音ちゃんに頼まれたんだ、これからやる事に協力して欲しいって。だから、こうして君を待ていたのさ。でも、本当に久しぶりだね。元気だったかい? 豊音ちゃんに聞いても曖昧な答えしか返ってこないから心配していたんだよ」

「すいません、あんまり連絡ができなくて」

「僕も悪かったね。協会の仕事が忙しくて時間が取れなかったんだ」


 爽やかな男性は、中性的に整ったかおを申し訳なさそうに綻ばせる。

 報告会では紺色のダブルスーツを着ていたが、今はジャケットを脱いで黒色のベストを羽織っていた。まるでオシャレなバーテンダーだ。身に付けた指輪やネックレスといった装飾品が軽薄な印象を与えないのは、慎也の醸し出す武人にも似た鋭い雰囲気が関係しているのだろう。


「……あのー、怒ってます?」

「どうして?」

「いやだって、この一年間はほとんど逃げ回ってたみたいなモンですし」

「その自覚があるならいいよ。ただ豊音ちゃんには一言謝った方がいいだろうね」

「……、」

「豊音ちゃんは、ハルの調律師ビショップじゃなくなってエバジェリーと直接的な関係が消えた後も精力的に協会の活動に貢献してくれた。さっきの表彰式、君も見ていたんだろ? 豊音ちゃんがどうしてそこまで頑張っていたのか。ハル、君はもう少しその理由について考えた方がいい」

「分かってます、だからここに来たんですよ」


 ばつの悪さに視線を逸らす陽明を尻目に、慎也は楚々とした動作で立ち上がった。


「それじゃ、行こうか」


 受付でスタッフに一言告げると、券売機を素通りして関係者用の扉を開ける。客が通らない事を前提に作られた通路は、掃除道具や古いビート板などできょうあいとしていた。


「でもよく時間が取れましたね。この後、支援者を交えた懇親会じゃなかったでしたっけ?」

「その通り、だから実はかなりまずい。接待の場に僕がいない訳にもいかないから。ただそれ以上に、この時間がエバジェリーというスポーツにとって大切だと判断したんだよ」

「……何を企んでいるんですか?」

「すぐに分かる。ただ一つ予言をしようか。今夜、ハルがエバジェリーに復帰するってね」


 かつての師は大空を吹き抜ける薫風よりも爽やかに片目を閉じる。女性に向ければ一発で恋に落とせそうな仕草だ。

 陽明は運動靴からサンダルに履き替えながら苦笑いを浮べた。


「どうでしょうね……ただ、慎也さんの予言は当たるからなぁ」

「当ててみせるよ、僕にはハルをエバジェリーへ連れ戻す義務がある。僕がしっかりしていれば、あんな事にはならなかったんだから……」

「それは、一年前……俺が『ぞらあく』に負けた事を言ってますか?」


 一瞬にして。

 呼吸すら憚られるほど重たい空気に支配された。陽明の低い声だけが、ほのぐらい余韻となって漂っている。


「あれは、僕の判断ミスだった。突然協会にやって来て、ハルを煽るだけ煽って試合を挑んできた礼儀知らずなんて、僕が追い返すべきだったのに……っ」

「やめてください、悪いのは調子に乗って挑戦を受けた俺なんですから。先生に、非はありませんよ」


 先生。

 かつての呼び名が口を突いて飛び出した瞬間、嬉しさと罪悪感がこんこうした感情で胸が詰まる。だがどれだけ望んでも、今の自分にそう呼ぶ資格はない。


 舌に広がる苦味をえんして、元ジュニア王者はプールへ繋がる扉の前に立った。喉を締め付ける鋭い緊張。それでも、ちょうしょうのように鳴り響く後悔を無視して重たい扉を押す。


 視界が、一気に開けた。

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