04 九天大学

 9月3日(金)


 時刻は午後五時半。陽明は自転車に乗って、国道沿いを走っていた。


 太陽が西に傾き、赤みがかった夕空には藍色のグラデーションが押し寄せている。

 すでに街路灯や飲食店の看板にもライトが点き始め、長い影と暗闇の輪郭は曖昧になっていた。仕事帰りの車で交差点が渋滞しているのか、赤い尾灯テールランプの明滅が薄暮の刻に慌ただしさを添えている。


 目的地であるてんだいがくの熊谷キャンパスは、JR高崎線の熊谷駅から自転車で二十分ほど北上した場所にあった。

 昔ながらの住宅街や田畑に囲まれた郊外。近くには2019年ラグビーワールドカップの会場にもなった熊谷スポーツ文化公園があり、また九高からも自転車で約十分という立地である。 


 陽明は正門から熊谷キャンパスに入ると、勝手知ったる様子で駐輪場へ向かった。

 いかにも学び舎然として堅苦しい九高とは違い、大学内は自由な空気に満ちている。手入れされた木々や芝生の広場に、現代的なデザインの建築物、結婚式もできる礼拝堂チャペルまであった。子どもの頃に初めて訪れた時は学校とは思えず、美術館か博物館だと勘違いした程だ。


 私服姿の大学生に混じってキャンパス内を進むと、正面がガラス張りになった五階建てのビルが見えてきた。綺麗な県の図書館といった風情の建物の入口には、『一般社団法人日本エバジェリー協会主催2021年度戦略報告会』と書かれた立看板が置かれている。


「陽明、こっちよ」


 五階まで吹き抜け構造になった玄関ロビー。報告会のスタッフと思われる人々が忙しそうに行き交う中でも、その声はハッキリと耳に届いた。柱にもたれてスマホを触っていた少女は、陽明を見つけるなりトテトテと小走りで近づいてくる。


「解説役、引き受けてくれてありがと」

「問題ないよ、どうせ報告会には行くつもりだったから」


 ショートカットを揺らして立ち止まった御波に対し、陽明はぎこちない笑みを浮かべた。

 昨日の放課後、御波は豊音に取材を申し込みに行ったらしい。そこで今日の報告会を教えてもらい、どうせなら解説役が居た方がいいという助言を受けて陽明を呼び出したのだ。


「(……でもこれで、報告会に行かなかったって言い訳は通じなくなった訳か)」


 報告会が終わったら、大学のプールに来て。

 一昨日の放課後に豊音と交わした約束を破るつもりはなかったが、こうして外堀から埋められるとプレッシャーを感じずにはいられない。この一年間エバジェリーから離れる為に豊音の誘いを躱してきたのだが、今回ばかりは本気度が違うように感じる。


「でも、まさか昨日の今日で御波が来るとは思ってなかったよ」

「そう? こんな取材にうってつけな機会を逃す手はないと思うけどね」

「だとしてもだ。言っちゃ悪いけど、たかが学校新聞の取材なんだろ? わざわざ自分の時間を削ってまで真剣になる理由が俺には分からない」

「別に、大した理由はないわ。ただアタシは中途半端な事をしたくないだけだから。やるからには何事にも全力で向き合いたいのよ」


 歯切れ良く答えた新聞部の少女が、んっ、と建物の内側へ顎を反らした。夏服の背中で通学用のリュックサックが鳴る。さっさと案内しろという意味だろう。陽明は大人しく建物の奥へと歩き始めた。


「アンタ、私に誘われなくても報告会には来る予定だったのよね?」

「そうだよ」

「どうして? 豊音先輩に聞いたけど、一年前からエバジェリーの練習とか試合に全く参加していないんでしょ? だったら、わざわざこんな場所に来る必要ないじゃない」

「……理由を探す為、かな」


 少し間を開けてから両目を伏せる。


「これでも元ジュニア王者なんだ。エバジェリーを完全にやめるにしても、選手に復帰するにしても、ただ何となくって訳にはいかないんだよ」

「安い逃げ口上ね。体裁を言い訳にして、決断を保留にしてるだけじゃない」


 呆れ顔になった小柄な少女は、大理石のタイルで革靴ローファーを小気味よく反響させながら、


「そもそも、どうしてエバジェリーを始めようと思った訳?」

「……なあ、これって取材?」

「雑談よ、面白そうな話が聞けたら記事にするけど」

「完全に取材じゃねぇか。まあ、いいや。……理由は単純で、空を飛びたかったからだよ」


 何か特別な出来事があった訳ではない。

 いつの日にか見上げた空のあおさに心を奪われたとか、一切のしがらみがない自由な広さに憧れたとか、きっかけはそんな何気ない日常の一瞬。だけどその小さな積み重ねが、幼い陽明の胸を焦がす程の強烈な感情を生み出した。


「ただ飛びたかっただけって……なら、エバジェリー自体に興味はなかったの?」

「最初はな。でも、やってる内に好きになっていったんだ。そもそも、嫌々やってジュニア王者になれるほどエバジェリーは甘いスポーツじゃない」


 だが、結果にこだわっていたのかと言われると疑問が残る。

 心の大部分を占めていたのはもっとはやく、鋭く、飛びたいという強烈な欲求。陽明にとって結果とは努力に付随する客観的な指標であり、追い求めるべき目標ではなかったのだ。


「夢とか目標ってさ、今に満足できない人だけが抱く未来への願望なんだよ。俺とは無縁の感情さ。だって、あの頃の俺は目の前の現実に満足していたんだから」


 空を飛びたいと願ったら識力シンシアが発現してくれた。ただ自由に空を飛びたい一心で技術を磨いたら二度も全国優勝を果たしていた。かつて空を支配するとまで言われた少年は、掛け値なく自他共に認める天才だったのだ。


 エバジェリーだけではない。

 一般的な家庭に生まれて、何不自由なく成長してきた。学校生活も順調で、勉強以外で特に困ったことはない。むしろ楽しんでいる側の人間である自負すらあった。


 では、一体。

 これ以上に何を望めばよかったのだろうか?


「だったら、今は満足できているの?」

「それは……、」


 空を飛びたい。

 幼い頃から、その想いだけは変わらない。


 だけど一年前の『あの日』、エバジェリーから逃げ出したあの瞬間から、陽明の頭上には漆黒の『夜空』が天蓋みたいに横たわっている。あれだけ望んでいた空なのに、今はただ心を締め付けるおもりでしかなかった。

 それでもこの想いを捨てられないのは、憧れが残っているのか、あるいは他の理由が邪魔しているのか。


 ふと、頭に浮かび上がったのは一人の少女。

 調律師ビショップとして小学生の頃から一緒に戦ってくれて、地に墜ちた自分にも諦めずに手を差し伸べてくれる女の子。


「ハッキリしないわね。選手に戻りたいなら戻ればいいじゃない」

「それができたらこんなに苦労してないよ。でも、そろそろ結論を出さないとだよなぁ」


 少し進むと、『受付』と書かれた立看板が見えてきた。

 通路の先では白布に覆われた長机が並べられ、女性スタッフが来場者に資料の入った封筒を渡している。講堂ホールの入口付近では、多くのメディアの記者やカメラマンが開場を待ち構えていた。慌ただしい雰囲気がここまで伝わってくる。


「御波、ストップ」

「うぎゅっ!?」


 案内通りに進もうとした御波の肩を掴んで引き留める。


講堂ホールに入る為には協会からの招待状が要るんだ。関係者以外は立入禁止。別室のスクリーンで同時中継をしてくれるから、俺達みたいな一般枠はそっちで参加するんだよ」

「そうなの? アンタなら協会に顔が利くからこっそり入れてもらえたりしない訳?」

「できないことはないだろうけど……やりたくないな。それに」


 一人の女性記者がこちらに視線を向けてきた為、陽明は素速く顔を伏せた。


「ここには長居したくないんだ。スポーツ関係の記者だったら、俺に気付くかもしれない」

「確かに。何の発表もなく姿を消した元ジュニア王者が、突然こんな場所に現れたらお祭り騒ぎになるわね」

「ああ。だから、早く行こう」

「陽明? アンタ、手が震えて……」

「っ」


 指摘された瞬間、歩き出そうとした足が動きを止める。


「大丈夫、なの?」

「ああ……少し、嫌な事を思い出しただけだから」


 心配そうに眉根を寄せる御波を横目に捉えつつ、固まりかけた足を無理やり動かした。それでも、大量のカメラのフラッシュと共に蘇ってきた悪夢は振り払えない。


 圧倒的な強さを示した二年連続ジュニア王者に向けられる無数のカメラとマイク。記者から向けられる質問は、自白を強要する尋問と変わりなかった。世間の望む通りに振る舞う事が義務とでも言わんばかりの圧を感じたのだ。

 苦痛から逃げたい一心で、思ってもない事を並べ立てる。誰に勝ちたいとか、何になりたいとか、そういう具体的な目標が言質として取り上げられていく。名前も知らない誰かの好奇心を満たす為だけに、イメージという虚構が勝手に創られていった。


 やめてくれ、と大声で叫びたかった。


 ただ、空を飛びたいだけなのに。

 どうして、余計な感情で心を汚されなくちゃいけないんだ。


力には、ノブレス・義務が伴うオブリージュ

「?」

「『太陽の騎士と湖の王女』って絵本を知らないか? 映画とかミュージカルにもなった海外の有名な児童文学なんだけどさ、この台詞が主人公の口癖なんだ。あの頃はよく意味が分からなかったけど……今なら、痛いほど理解できるよ」


 後悔に揺れる声。

 陽明の顔は、深い、深い、陰翳に沈んでいた。

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