その夜、そのあたりではるいを見ないほどのあらしが起こった。雨がまどを打ち、風は脈絡みゃくらくなくさけび、風見鶏かざみどりは右に左に腹をよじり、不愉快ふゆかいな笑い声を上げた。二人は眠れぬ夜に辟易へきえきし、寝室しんしつで何度と知れぬ寝返りを打った。感覚を支配しはいするのは音のみだ。寝具しんぐの安っぽい感触かんしょくすらが騒々そうぞうしい音に変換へんかんされる錯覚さっかく。そのような観念かんねんとらわれていたためなのか、突然聞こえてきたその音に、頭をなぐりつけられたように感じるのだった。


 最初、二人は、風にためになにかが家にぶつかったものだと考えた。しかし、その音は続けざまに何度も起こるのだった。あらしとは毛色けいろの違う暴力的ぼうりょくてきな音。であるのに、機械きかいにも似た一定のリズム。音は執拗しつように続いた。


 とびらを打ち鳴らす音だと理解するのに、夫妻ふさいは少しの時間をようした。こんなにも間近まぢかに聞こえるが、鳴らされているのは寝室しんしつとびらではなく、玄関げんかんとびらのようだ。二人は恐る恐る寝室しんしつから出ると玄関げんかんに向かった。


 すると、とびらわずかにたわみ、ゆかには木片もくへんらばっていた。まるで家畜かちく体当たいあたりでもしているかのような、すさまじい衝撃しょうげき。およそ人間の仕業しわざとは思えなかった。


 おっとは大声を上げるが、音は少しをやむ気配けはいがない。それどころか音の周期しゅうきわずかの変化もなく、とびらの向こうに一切いっさい知覚ちかくをも感じることができなかった。一打いちだ一打いちだ、目に見えてとびらこわれていく。


 おっといえ物置ものおきから古びた猟銃りょうじゅうを引っ張り出してきた。警告けいこく警告けいこくの末、おっととびらに向けて発砲はっぽうした。なのにどうしたことだろう。大声の時となんら変わらず、とびらは打ち鳴らされる。次々に発砲はっぽうするも、それはただ、とびら破壊はかいし進めるだけだった。


 そしてついにとびらこわれ、来訪者らいほうしゃが顔をのぞかせた。とびら残骸ざんがいめるのは、変わりてた愛娘まなむすめだった。装束しょうぞくはぼろにわり、皮膚ひふは余すところなく灰色で、見る影もないはずなのに、微笑ほほえみだけは娘のそれなのだった。くさった顔で、生きていた時とまるで同じ親密しんみつさ。なつかしさとおぞましさが手を取り合い、夫妻ふさい脳髄のうり痙攣的けいれんてきなデジャブを呼び起こす。産まれ死ぬまでの娘の姿が、次々現れる。灰色のみ、あまえ声は歯抜はぬけの音節おんせつわり、絵本えほんを見詰める白濁はくだくした目、ありもしない思い出が夫妻ふさい背骨せぼねをぶるぶるふるわせた。


 突然、娘が口をけた。抜け落ちる歯。吊り上がる口。嬉しそうなほほ。そして痙攣けいれん。その姿は、声をはっして笑っているとしか思えない。だが、その口から出るのは、ガスれのような音ばかりだった。


 娘は一歩前に踏み出す、ガスれを続けながら。鼻をくのは強烈きょうれつ腐臭ふしゅう。思い出される夏場なつば家畜かちく屍骸しがいたち。うじまりはえさか皮膚ひふくさりて現れる、地獄じごくといってつかえない、屍骸しがい内容物ないようぶつのその瑞々みずみずしい様相ようそう

 地獄じごく生物いきものの体にあらかじめ内在ないざいしているのであろう。せい均衡きんこうくずれた時、生命せいめいはただ単純たんじゅんおのれなか裏返うらがえるのだろう。


 夫妻ふさいは恐れおののき寝室しんしつげ込んだ。かぎめて、わずかののちに聞こえるのは、荒々あらあらしいノックの音。怖くて眠れないの、かみなりが怖い。いつかの娘の声。それにかさなるガスれの音。今晩こんばんは、こんなにも天候てんこうれているのに、かみなりは一切起こっていなかった。かみなりが怖い。あれは確か、雨のまったく降らぬ夜だった。晴天せいてんに浮かぶ満月まんげつ、にもかかわらず、遠くから呼び掛ける雷鳴らいめい。雷が怖い。一人じゃ眠れないの。決壊けっかいしたように続くガスれ。


 玄関げんかんとびらに比べ、寝室しんしつとびらはずっともろく、られるのは時間の問題だった。夫人ふじんはパニックになりながら、まど鎧戸よろいどし上げようとした。だが、普段はなんなくひら鎧戸よろいどが言うことを聞かない。金切かなきり音をはっして抵抗ていこうするのだ。それでも、少しずつ鎧戸よろいどひらかれていく。だがその時、娘はとびらもろとも寝室しんしつゆかにばったりとたおれた。足元からこちらをのぞき上げる娘の顔は、りし日の悪戯いたずらざかりのそれであった。


 のっそりと糸であやつられるかのように娘は立ち上がる。両手を広げ夫妻ふさいせまる。ひらかない鎧戸よろいどせまり来る微笑ほほえみ。大好物だいこうぶつを前にした娘の顔だ。何度言ったことだろう、ちゃんといただきますを言いなさい、神に感謝かんしゃささげなさい。


 いよいよ娘が飛び掛かるという時、銃声じゅうせいが鳴りひびいた。娘の胴体どうたいからは臓物ぞうもつが飛び出し、ゆからばった。視覚しかいから伝わる、表面ひょうめんの乾き、内側うちがわうるおい。

 もう、おなかがぺこぺこ、おなかと背中がくっつきそう。腹部ふくぶ風穴かざあないたにもかかわらず、娘はその場に立ち続けた。もう、おなかがぺこぺこ。いただきます、いただきます。


 さら銃声じゅうせいひらかれた胸。飛びるのはねばのある血液。肋骨ろっこつ隙間すきまから顔をのぞかせるのは、生物いきもの真似事まねごとをする心臓のれのて。鼓動こどうのような動きに合わせ、カスカスと乾いた音が鳴る。悲鳴ひめい、それは鎧戸よろいどが上げたものだった。吹き込む雨は生暖なまあたたかく、ゆか木材もくざいをたちまち黒にめていった。


 夫妻ふさいころがり出るようにまどから外に出た。同じように娘もまどから身を乗り出した。しかしその時丁度、鎧戸よろいどおきおいよく降りた。娘はどうはさまれ、身動きが取れないようだ。これさいわいとばかりに夫妻ふさいげ出す。向かった先は納屋なやであった。雨の湿気しっけえたにおいがより一層いっそういどい。嗅覚きゅうかく貪欲どんよくで、どんなに強烈きょうれつにおいをいだあとでも、れなく悪臭あくしゅうむさぼる。


 夫妻ふさいが見詰める先にはガラスケース。なかには口をぱっくりとけた剥製はくせい

 夫はガラスケースから剥製はくせいを取り出した。


「おい、あれはなんだ! お前の仕業しわざだろう!」


 当然、剥製はくせいは答えない。たとえ、本来の姿であっても、このおさなさでは言葉を話すことはできないだろう。どんなにわめき、言葉を連呼れんこしようとも。赤子あかごはすぐにはしゃべれないのだから。赤子あかご赤子あかご都合つごうで、しかるべきときにしゃべり出すのだ。そしてそれは大概たいがいいて、大人に不意打ふいうちをらわせるのだ。


「……あんな姿、余りに可哀想かわいそうだ、頼む、娘を眠らせてくれ、やすらかに」


 剥製はくせいの、ぱっくりとひらいた口の奥から異音いおんが立ちのぼる。まるで洞窟どうくつの奥から大量の水が流れてくるような。それにしてはねばついた音、分泌液ぶんぴつえきでなければ羊水ようすいであろう。泣くともさけぶとも違う音。くぐもってはいるが、それには歌のようなふしがついていた。


「ぅぅぅうううぅううぅうぅぅぅぅううぅうううううううぅうぅうぅうぅうぅぅ」


 剥製はくせいは前にも増して大音量だいおんりょうさけんだ。心臓しんぞうに直接語り掛けるようなひびき、圧力あつりょくせつなげであり、かつ余りの迫力はくりょく殺意さついすら感じるほどだ。おっとの二の腕はぶるぶるとふるえる。剥製はくせい振動しんどうが伝わるためなのか、それともみずからがふるえているためなのか。


 強烈きょうれつな音のあらしに頭は真っ白になり、今一番感じているのは、てのひらに受ける、剥製はくせい肋骨ろっこつの形。人間、これは確かに人間の死体だという認識にんしきに落ちて感じるのは、みずからの呼吸こきゅうに合わせてふくらむ肋骨ろっこつきしみ、たわみ、腹圧ふくあつあたたかさ。


 突然、あらしあと静寂せいじゃくにも似た沈黙ちんもくに降りた。嬉しそうな茶色の表情は、親密しんみつさにち、まるで親族しんぞくに向けられる眼差まなざしだ。の苦しみは腹圧ふくあつの優しいごえおっとわれに帰った。そして、本来、今この瞬間は、あらし静寂せいじゃくとは無縁むえんなのだということを思い出す。こんなにれそぼろだというのに、乾いたてのひら剥製はくせいてのひら内部ないぶ水分すいぶんまでうばわれるようで、おっとあわてて、剥製はくせいをガラスケースへと戻した。


 赤いしとねにえびすがおがちかちかれて、痙攣けいれんしているような錯覚さっかくを呼び起こす。排泄はいせつの気持ちよさ、中身を出す快感かいかん出産しゅっさんに苦しむ家畜かちくうめき、それらの映像えいぞうは、夫の心臓に語り掛け、まるで若者わかもの鼓動こどうのように、せわしなく収縮しゅうしゅくうながした。

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