10. 幻惑

 移動中、リチャードはぼんやりと思い出していた。

 深海特急に飛び込む前の、わずかな時間。既に崩れ去った、それまでの「日常」を。


「リチャード、どうしたんだい?」


 穏やかに話しかけてきた老母と、その隣に立つ老父。

 当たり前に見慣れたはずの光景が、やけに不気味に見えた。


 ……二人とも、全く同じ表情をしていたのだ。


「何かあったのかい」


 表情だけではない。

 声のトーンすら、二人は全く同じだった。

 どうして今まで、それを「おかしい」とも思わなかったのか? リチャードの背筋に嫌な汗が伝う。

 ……答えは明白だ。リチャードも、「そちら側」であったからに他ならない。


 それでも、違和感を口に出してはならない。

 リチャードは、感覚的に理解していた。

 洗脳が効かない者がどうなったか、皮肉にも「洗脳を解く」きっかけになった手記がそれを教えてくれていた。


 朧気な記憶の中、リチャードはそこまで頻繁では無いものの、「消えた」近隣住民がいたことを思い出す。

 見慣れた者がある日を境に忽然と姿を消すことすら、今までは「日常」として受け入れていた。


 思い返してみれば、おかしなことばかりだ。

 目の前の老父も老母も、「実の両親」ではない。

 そればかりか、彼らは何度も入れ替わり立ち替わり、それこそ「役」を演じるかのように「家族」となった。

 そして、一定の年齢を超えた時点で、どの「老父」も「老母」も、どこかの施設へと引き取られていく。


 リチャードは若く、老いた者の面倒を見ることができる。……そして、おそらくは実の両親を失っている。だから、「そういう役」を宛てがわれていたのだろう。


「何でもないよ、父さん、母さん。きっと、風邪を引いただけだ」


 リチャードはこみ上げてきた吐き気をこらえ、無理やり「いつも通りの」笑顔を作り、その晩のうちに家を抜け出した。

 深海特急はほとんど全自動で運営されているから、怪しまれないうちに、迅速に動けばチケットを買って乗車することは造作もなかった。

 トーキョー行きの深海特急に飛び乗り、他の乗客に怪しまれないよう話を合わせ、嶋村研究所に辿り着いた。


 確かに、リチャードはかつての「日常」に特に不満はなかった。誰かに危害を加えたいという欲を抱いたことも全くない。

 ……しかし、それは、管理されていたからなのだ。




 ***




「お待ちしておりました」


 リチャードがアイリス、ケリーと共に集落に辿り着くと、見覚えのない……それでも「ロビン」だとわかる相手に出迎えられた。


「ここが、フリーの集落でございます」


 掘っ建て小屋やプレハブの建物が並ぶ方角を指し、ロビンは恭しく礼をする。


「なんか……治安、悪そうだね」


 リチャードがぼやくと、アイリスが苦々しい表情で伝えてくる。


「悪そう、というより悪いわ。政府から隠れ住んで、『処刑人』に怯える暮らしだもの……心が荒んで当然よ」

「ふぅん……?」


 とはいえ、セドリックのように優しげな青年が住んでいるのも事実だ。

 リチャードがかつて生きていた「日常」は治安こそ良かったものの、そこに自由や幸福はなかった。……どちらがマシかと問われれば、即答はできない。


「おお……来てくださったのですね、ルシファー様!」


 ……と、通路の片隅から男性の声が沸き上がる。


「お待ちしておりました……! どうか、どうか、貴方様の従順なる下僕に施しを与えてください…………」


 ケリーの足元に跪き、男性は深々とこうべを垂れる。

 その様子を見、ケリーはにやりとほくそ笑む。


「……良かろう。じゃが、お主の使命を忘れてはいまいな?」

「忘れてなどおりません! この荒廃した世界で、貴方様のみが唯一の救い! 我々は貴方様のおかげで真実に辿り着けたのです……!」

「うむうむ、い言葉を聞けた。これからもわしを崇めるが良いぞ」

「は……っ!」


 顔を輝かせる男性の顔は煤と埃に汚れ、身にまとった着衣はぼろ同然だ。

 ケリーは男性に向けて優しげに微笑むと、その額に人差し指を押し当てた。ケリーの目が黒々と、そして赤々と輝き、男性の光を失った瞳に不安定な輝きが生まれる。


「今はこれで我慢せよ。後でいくらでも与えてやるからのう、しばし待っておれ」


 男性は恍惚に蕩けた表情で、何度も地面に頭を擦り付けた。


「はい……はい……! 本当にありがとうございます、ルシファー様……!!」


 ケリーは再びにやりと笑うと、くるりとリチャード達の方へと振り返る。


「行くぞ。どう遊んだのか、教えてやろう」


 路地裏の方を指差し、ケリーはたのしげに目を細めた。




 ***




「わしの能力はの、幻影を作り出すことじゃ」


 路地裏の壁にもたれかかり、ケリーは誇らしげに胸を張る。


「げ、幻影……? クリスが精神干渉だから、似たような感じ……?」

「ふぅむ、ちと違うな。『色欲』が持つは他人の頭の内を覗き、時に思考を操る能力で……わしのは、存在しないものを見せる能力と言えよう」


 ケリーはパチンと指を鳴らし、手のひらに炎を浮かび上がらせる。


「ほれ、触ってみよ」


 リチャードが手を伸ばすと、確かに「熱い」感覚が手のひらにじりじりと伝わった。


「あつっ!? これ、ほんとに幻覚!?」

「……少なくとも、私には何も見えないわ」


 リチャードがロビンの方をちらりと見ると、ロビンもにこやかな笑顔で「私にも見えておりません」と語る。


「五感を惑わす能力、とでも言うべきか。無論、範囲もわしが選択できる」


 不敵にほくそ笑むケリー。


「……なるほどな。人間達に幻覚を見せて、自分を崇めさせてるってわけか」

「その通りじゃ」

「……別に、そんなに悪いことでもなくない? なんでアイリス達と手が組めねぇのよ?」


 怪訝そうに、リチャードはアイリスとケリーを見比べる。

 アイリスは小さく溜息をつき、「やりすぎるのよ」とぼやいた。


「信者を依存させ、廃人になるまで弄んでるのだもの。当然止めるしかないわ。……でも、ケリーは拒否し続けているの」

「わしは『傲慢』の悪魔じゃ。誰かの指図によって遊びをやめるのは、不可能と思うが良い」


 ケリーはにやにやと笑みを浮かべ、再びパチンと指を鳴らす。

 浮かんだ炎は鳥に姿を変え、パタパタと飛び去った。……ように、リチャードには見えた。


「何事も、わしの思うままにならねばならぬ。すべてを支配していると感じねば、わしは満たされぬ。ゆえにわしは他者の『傲慢』な感情を弄び、自らの欲をも満たすのじゃ」


 ふと、リチャードは、ケリーの笑みに寂しげな陰りを感じ取る。


「わしらは、そういう風にしか存在できぬ」


 付け加えられた言葉に苦悩を感じたのは、

 果たして、リチャードの錯覚なのだろうか。

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