3:黒髪の乙女たち

「ここは現世うつしよから離れた場所。常若の国妖精界の端の端。女王たちの目が届かない夢の世界との狭間にある虚ろな世界」


 ああ、やっぱりなのか……と気持ちが沈むのがわかる。

 肉体のある世界なら、どこにいてもカティーアが来てくれるって信じられるけれど、妖精達彼らの世界では規範マナー法則ルールも違う。

 それでも、彼なら……と思うけれど、気の遠くなるような年月がかかるかもしれない。彼のためにならいつまででも待てるけれど……そうじゃない。彼をまた孤独にしてしまうなら、それは、とても嫌なことだ。

 でも、どうして。

 ぐるぐると考え込んでいると、スサーナちゃんが私の服の裾をキュッと掴んだことに気が付く。きっと彼女も不安なはず。だから、あまり不安を表に出してはダメだと自分に言い聞かせる。

 花の香りがする空気を思い切り吸ってから、ゆっくりと瞬きをする。この不思議な子鹿は、私たちを助けてくれた。確証はないけれど、ここから出る方法を教えてもらえるかもしれない。


「そして、わたしたちがいる此所は永遠に苦悶する魔女ヴァニタスという名の元常若の国の民妖精が作り出した迷宮だよ」


 現世うつしよにいる妖精と、常若の国妖精界にいる妖精は別物だとカティーアが話していたのを思い出す。

 妖精に働きかけて魔素を扱う魔法使いたちと違って、彼らは魔素を直接意のままに扱うから、魔法が強力だし、まともにやりあってはいけない……と何度も言われた。

 どうすればいいんだろう。彼を一人にしたくない。だから、早く帰らないと。

 スサーナちゃんも、きっと家や友達の元へ帰りたいだろうに、泣きもしないで話を聞いている。


「不安になる話ばかりしてしまったね。大丈夫、わたしは君たちを助けに来たんだ」


 子鹿の言った言葉で、重い気持ちが少しだけ軽くなる。よかった……助かる術がある。

 ほっとしながら、隣に座るスサーナちゃんと微笑み合って、私たちは子鹿に視線を戻した。


「わたしは世界樹の枝ラームス。こう見えて神の一種なんだ。まあ、力の大半は、この迷宮の主に奪われてしまっているのだけど」


「か、神……さまですか」


 さっきまで大人しく話を聞いていたスサーナちゃんが、少しだけうわずった声を出す。確かに、神と言われたら普通のヒト族が驚くもの仕方ない。

 私も、彼女とは違う意味で少しだけ驚いている。妖精界の神は大体面倒なヤツらだとカティーアがよく愚痴っていたのを聞いているから。

 妙な取引を持ちかけられたらどうしようと考えていると、ラームスと名乗った神は穏やかな視線をスサーナちゃんへ向けた。


「そうだよ。ああ、でも君の世界の神とは在り方も力の範囲もちがうものだろうけどね」


 ラームスは、そう言ってから私とスサーナちゃんを見比べた。


「それにしても、君たちはそれぞれ違う現世せかいから来たというのに、本当によく似ているね」


「私たち、どうなってしまうのでしょう」


 違う世界? 聞き直そうと思っていると、スサーナちゃんがか細い声で呟いた。

 私たちがどこから来ようとも、ここから出たい気持ちは一緒だ。

 スサーナちゃんの小さく震える手の甲へ自分の手を重ねながら、私もラームスの顔を見つめる。長い睫毛に囲われている薄灰色の瞳は、不思議な光を宿していて彼が何でも見透かしてしまいそうな気がしてくる。


「可哀想な黒髪の乙女を全て助けるのが、わたしの目的なんだ。だから、安心してくれたまえ」


 ラームスは、角の生えていない部分をスサーナちゃんの肩にそっと擦り付けると、私にも同じように身体を擦りつける。

 お日様の光をたっぷり浴びた干し草みたいな香りがして、少しだけ気持ちが落ち着いてくる。


「ここへ来る途中、小さな川があるのは見えただろう? そこに小さな木の橋が架かっているはずだ」


 ラームスは、私たちから不安が少しだけ消えたのを感じたのか、落ち着いた口調で話を再開させた。

 彼はゆっくりと首を動かして、東屋ガゼボの外へ目を向けた。

 すぐに元の世界に帰れる……。スサーナちゃんの手を握って「よかったですね」と言い合って、私たちも小川がある方向を見る。

 

「……あの橋を渡れば安全にこの迷宮から出られるはずだったのだけど……どうやらヴァニタスに居場所がバレてしまったようだね」


 ラームスの声が、僅かに低くなったかと思うと、彼は目を僅かに細めて、数歩前へ足を進める。

 東屋ガゼボから出た彼が、上を向いた。急に空から降り注いでいたはずの日の光が一気に陰って、辺りが暗くなる。私たちも空を見上げると、空は真っ黒な重々しい雲に覆われてしまっていた。

 夜が、青空を食べているみたいに見える。

 空から幾筋も垂れてきた黒い糸のようなものが、橋の手前でうずたかく積もっていた。

 砂だ……と気が付いた時には、砂の塊は雄牛ほどの大きさの黒蜘蛛に形を変えはじめていた。

 

「さっきの蜘蛛……」


 真っ黒な蜘蛛たちが、もぞもぞと脚を動かしはじめた。

 スサーナちゃんの表情が強ばる。

 そっと彼女の細い手首を握って、立ち上がる。


東屋ガゼボからゆっくりと出るんだ」


 まだ、蜘蛛はこちらに気が付いていないみたい。脚をもぞもぞとその場で蠢かせているだけだ。

 ラームスの言いつけを守って、私たちは足音を立てないように慎重な動きで東屋ガゼボの円蓋状の屋根から出る。


「O'r diwedd des i o hyd i offrwm」


 ぞくりと刺すような視線を感じて、肌が粟立つ。

 敵意に反応して、咄嗟に空を見上げると大きな紫色の満月が二つ、まるで目のように並んでいた。


「いけない」


 鋭くラームスが声を発して、両前肢を持ち上げる。

 嘶いたラームスの昼の月みたいな毛皮は、あっというまに橙色の光に覆われた。


「君たちと縁を結んだ相手もこちらへ来ているようだ」


 勢いよく振り上げた前脚を、ラームスは地面に叩き付ける。

 地面は、まるで薄い板が割れるときのような乾いた音を立てて、ヒビが入っていく。

 スサーナちゃんの肩を抱き寄せながら、ラームスを見ると、一斉にこちらへ向かってきた蜘蛛たちの前に彼が立ち塞がっていた。


「ラームスさんが一人になっちゃいますよ」


「わたしはいい。君たちに縁があるものは結界内ここにいるよりも、迷宮にいた方が気配を感じやすい」


 腕を伸ばしたスサーナちゃんの声が響く。地面が崩れて虚ろな穴になって私たちを吸い込んでいく。

 魔法で落下するとき特有の、ゆっくりとした浮遊感。スサーナちゃんはまだ、穴の上を見ている。

 遠くなっていく橙色の光から「なんとか生き延びてくれ」という声が聞こえて、私たちを飲み込んだ穴の入り口は閉じた。


「Dydw i ddim yn mynd i adael i chi fynd」


 さっきも聞こえた恐ろしい声。頭の中に大きく響いてくる。強制的な念話テレパスみたいなものなのかもしれない。

 老婆のようにも子供の金切り声にも聞こえる知らない言葉は、何を話しているのかはわからない。けれど、怒っているような泣いているような……色々な気持ちがぐちゃぐちゃに混ぜられているみたいに感じた。

 スサーナちゃんにも聞こえているのか、ふわりと持ち上がる長いスカートを押さえることも無く、私の腰辺りにぎゅっと掴まっている腕に力を入れた。


「ひぇ……」


 スサーナちゃんが小さく悲鳴を上げる。私にもすぐにその悲鳴の理由が分かった。足首に急に巻き付いてきた細いなにかが猛烈な強さで私たちを引っ張ってきたからだ。

 足首へ目を向けると、私とスサーナちゃんの足首には、真っ黒な髪の毛のような細い糸の集合体が絡みついている。

 暗くて何も見えない空間で引っ張られていくと、やわらかくてぶよぶよした見えない皮のようなものに全身が押しつけられた。それはすぐに「プツン」という音と共に消えて、私たちを包んでいた浮遊感は消えた。

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