第28話 父と娘

 その後、緊張の糸が切れたのか、体力の限界を迎えたのか、少年は気絶するように寝息を立てて眠り始めた。

 それをいいことに、うしおは少年の顔にガーゼと保冷剤を噛ませ、包帯でグルグル巻きにする。

 治療と呼ぶには少々荒っぽいが、顔の骨が折れている様子はなく、冷やすにしても凍傷には気をつけてガーゼを噛ませているので、これで充分だろうと潮は思う。


「やれやれだな……」


 疲れたようにため息をつき、リビングのソファに身を沈めながら、床に仰臥させている少年を見下ろす。


 海玲と同じ高校一年生だったとしても、身長はどう見ても学年の中でも前の方。体の線も細めで、何度も言うが頼りない。

 海玲を潮のDVから救うために考えた一手を鑑みるに、頭はそこまで悪くなさそうだが、海玲をもらった後のことまで頭が回っていなかった点を考慮すると、決して秀才とは言えない。こう言っては失礼だが、現状においては長所らしい長所が見当たらない少年だった。


 その少年に、潮は負けた――いや、屈服した。


 結局のところ、自分が怒りをぶつけられる相手は、自分よりも弱いと確信した相手に対してのみであったことを、今さらながら自覚する。

 だから、少年にはもう怒りをぶつけようという気にはなれなかった。

 この長所らしい長所が見当たらない少年は、間違いなく、自分よりも〝強い〟人間だから。

 冷静に自己分析をすればするほど、人としての小ささと最低さが浮き彫りになる自分よりもはるかに娘を任せられる、〝強い〟人間だから。


 不意に、勢いよく玄関の扉が開く音が聞こえてくる。

 ほどなくして、荒れた息とともにリビングに飛び込んできたのは、


「新野くん!」


 半ば泣きそうな顔をしている、大事な一人娘――海玲だった。

 海玲は床に寝ている、顔中包帯だらけの少年に気づくと、すぐさま駆け寄って潮と少年の間に割って入る。

 散々DVを振るわれ、恐怖を植え付けられたこの父から、少年を護るように。


「お父さんが……新野くんをこんなにしたの?」


 声音に怒気を滲ませながら訊ねる。

 こちらを見つめる目にも、怒気が滲んでいた。


 そう……娘は怒っていた。

 潮の記憶の限りでは、初めて、明確に、娘は怒りを露わにしていた。

 それだけでもう、全てを悟るのに充分だった。


「お前も愛しているのだな。彼のことを」


 父からそんな言葉をかけられるとは思っていなかったのか、海玲は目を丸くする。


「そ、それはどういう意味……かな? お父さん?」


 先程までの怒気はどこへやら。

 みるみる顔を真っ赤にしながら、困惑した声音で訊ねてきた。

 訊ねてきたから、潮は正直に、ここであったことを全て話した。


 全てを聞き終えた娘の顔は、どういう顔をすればいいのかわからないのか、口では言い表せないほどに面白い顔をしていた。

 これもまた、潮の記憶の限りでは初めて目の当たりにしたものだった。


「僕にくださいって……わたしを? 新野くんが? それにお父さんも、わたしのことをどうかよろしく頼むって……ほんとに? そんなことが?」


 一番の衝撃はやはりそこだったのか、最早ずっと真っ赤になりっぱなしの顔を呆けさせながら、独りごちるように訊ねてくる。

 潮が「ああ」と答えると、海玲は嬉しそうに恥ずかしそうに頬をとろけさせた。

 例によってその表情もまた、潮にとっては初めて目の当たりにしたもので……本当に今さらながら、自分のDVがいかに海玲の心を殺していたのかを嫌というほどに思い知る。


「ところで一つ確認させてもらうが、彼は今、親元を離れて一人で暮らしているのか?」


 答えていいものかどうか迷ったのか、海玲はわずかな逡巡を挟んでから首肯を返した。それを見て潮は、「やはりな」と思う。


『夏木さん――いえ、海玲さんは今、僕の家にいます』


 リビングに入り、潮と対峙してすぐに少年はそう言った。

 この言葉が本当ならば、もし少年が親と一緒に暮らしていた場合、海玲が少年の家に行った時点で向こうの両親が何かしらの形で介入してくるはずだ。

 けれど、今この時になってなお、そんな気配は全くない。となると、少年が親元を離れて一人で暮らしていると考えるのが妥当というものだ。


「海玲。……新野くん、が目を覚ましたら伝えておきなさい。娘のことを頼むとは言ったが、同棲まで許したつもりはない。どこの賃貸かは知らんが、空きがないか大家に確認しておけと。なかった場合は、近辺の賃貸に空きがないか調べておけとな」


ここにきてようやく、普通に、少年――新野の名前を呼んだせいか、妙に引っかかった言い回しになりながらも海玲に言う。

 父の言葉を飲み込めないでいるのか、海玲は再び目を丸くした。


「それって……」

「新野くんにも言われたことだが、俺の傍にいてもお前が傷つくだけだからな。今は新野くんのおかげで落ち着いているが、正直に言うと、いつまた何かの拍子で怒りにとらわれ、お前に暴力を振るうか俺自身にもわからない。だから……少なくとも今は、距離を置いた方がいいと判断した」

「でも……そんなことしたら、お父さんは一人でこの家に……」


 先程までは新野少年を傷つけられた怒りのおかげで普通に話せていたというだけで、その怒りが鎮まった今は、DVを振るう父への恐怖がぶり返しているのか、海玲は言葉を濁しながらも、こちらのことを心配してきた。


 一瞬心の奥底で「娘の分際で父を心配するとは何様だ」という突発的な怒りが沸きかけるも、新野少年が言っていたとおり、心配してもらえる程度には自分は娘に嫌われていないことに気づき、歯を食いしばって無理矢理怒りを鎮める。

 ここで海玲を殴ってしまったら、新野くんは本気で俺を警察に突き出すだろう――そう自分に言い聞かせて。

 我ながら情けなくて、最低にも程がある怒りの鎮め方であることを自覚しながら。


「……お前は自分の心配だけをしていればいい。何せお前は、これから一人で暮らしていくことになるのだからな」

「一人……」


 途端に不安そうな顔をする海玲を見て、言葉が足りていないことに気づいた潮はすぐさま補足する。


「金の心配はしなくていい。家賃と生活費はこちらで用意する……いや、用意させてくれ。せめてそれくらいは……」

「お父さん……」


 怯えと、憐れみと、父を思う優しさがぜになった目を向けられ、なんとなく居たたまれなくなった潮は目を逸らしながら立ち上がる。


「新野くんは、いつ目を覚ますかわからない。だから、今日のところはこの家に泊めてやりなさい。……俺は、用がない限りはリビングには近づかないようにするから」


 言うだけ言って立ち去ろうとするも、


「お、お父さん!」


 大きな声で呼び止められ、立ち止まる。


「どうした?」


 半顔だけ振り返らせたのがいけなかったのか、海玲は露骨にビクリと震えた後、勇気と一緒に声を振り絞りながら言う。


「お父さんのことは……今も……恐い……けど……! わたしのお父さんは……! お父さんだけだから……!」

「……そうか」


 短く応じ、今度こそ海玲から顔を背け、歩き出した。

 瞳の奥から込み上げてくるものを、必死にこらえながら。


 リビングを出て、扉を閉めたところで、堪えきれなくなった一滴ひとしずくが頬を伝う。

 DV――家庭内暴力ドメスティック・バイオレンス

 こんなにも娘を愛しているのに、娘がこちらのことを必死に愛そうとしているのに、なぜDVそんなものを振るってしまうだろうという後悔が込み上げてくる。

 なぜ駄目だとわかっていても振るってしまうだろうという自己嫌悪が、心を掻き毟る。


 被害者面をするつもりはない。

 自分が罰を受けるべき人間であることも自覚している。


 だが。


 被害者に比べたら微々たるものだが。


 加害者自身もまたDVそれによって傷ついてしまうことを、潮は今、嫌というほどに痛感していた。

 その痛感が、あまりにも手遅れであることも含めて……。

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