第2話 恋物語の始まり

 夏木なつき海玲みれい。それが少女の名前だった。

 どうやら自分と同じ高校一年生らしく、翔太の通う水無月高校の隣の学区にある、神無月高校に通っているとのことだった。


(どうりで、なんとなく見覚えのある制服だと思った)


 そんなことを考えながらも、落下防止柵を背に、隣に座る――と言うには些か距離を感じるが――海玲を横目で見やる。


 素直に、可愛らしい女の子だと思う。

 テレビのアイドルとかがよく言われる「顔がちっちゃい」という言葉の意味を、今正しく理解できたと思わされるほどの小顔。

 顔立ちもアイドルを思わさせるほどに可愛らしく、もし彼女が自分は天使だと言ったら、そのまま鵜呑みにしてしまう自信が翔太にはあった。

 それほどまでに可愛らしいせいか、それとも生まれてこの方一度も染めたことがなさそうな黒髪のせいか、あるいは小顔にふさわしいほどに体がちっちゃいせいか……純真無垢な小動物という印象が強い女の子だった。


 普段の翔太ならば、そんな女の子を羽交い締めしていた事実に嬉しいやら恥ずかしいやら罪悪感やらで悶絶していたところだが、お互いの自己紹介を済ませて以降ずっと続いている沈黙の気まずさの前では、そのことに考えが及ぶ余裕すらなかった。


 ただただ、気まずい沈黙が続いていく。


 自己紹介が終われば、必然、お互いの、自殺をしようとした理由についての話になる。自分から理由それを語る勇気は勿論、面と向かって理由それを訊ねる勇気も、翔太は持ち合わせていない。

 そしてそれは海玲も同じで。

 だからこそ二人は、自己紹介以降何も言えないでいたのだ。


(でも……)


 いよいよ西の空が燃え上がるような赤に染まり、東の空が夜の闇に侵食されていく様を見て、翔太は覚悟を固める。


 二人とも自殺を考えていたことは、今は脇に置いておくとして。

 一人暮らしの自分はともかく、家族がいるであろう海玲の帰りが遅くなるのはよろしくない。

 夜になってから女の子一人だけで帰すこともまた、よろしくない。


 だから翔太は、意を決して海玲に話しかけた。が、


「「あの……!」」


 見事なまでにハモってしまい、翔太も海玲もこれ以上ないほどに気まずくなる。


「「……お先にどうぞ」」


 一拍おいて出した言葉まで見事にハモってしまい、これ以上ないと思っていた気まずさが、より一層ひどくなる。


(こんなやり取り、リアルじゃ絶対起こらないって思ってたのに……!)


 現実に起こってしまった事実に頭を抱えている間に、海玲がおずおずと話しかけてくる。


「あ、あの……」


 と言った後に、今度はハモらずに済んだことを安堵しているのか、ほうと一息ついてから話を続けた。


「新野くんは……どうして?」


 さすがに「どうして自殺しようと思ったの?」と、ストレートには聞けなかったらしい。

 彼女の「どうして?」に込められた勇気と逡巡を感じ取ると同時に、本当ならばこちらから彼女に訊ねる――いや、こちらから自殺の理由を打ち明けるべきだったと思った翔太は、何かと男らしくない自分を恥じた。


「……イジメだよ。殴ったり、蹴られたり、物を捨てられたり……お金をとられたりする、感じの……」


 こうして言葉にするだけで、心が摩耗していく思いだった。

 海玲の自殺を止めた手前、今から飛び降りようだなんて馬鹿な真似はしないが、それでも、少しだけ、今飛び降りたら楽になれるかもしれないという気持ちが鎌首をもたげてしまう。


「わたしも似たような感じ、かな」


 見ているだけで胸が締めつけられるような、ひどく弱々しい笑みを浮かべた海玲は、突然制服の上着の裾を捲り始める。

 翔太は慌てて顔を背けるも、


「お願い。見て」


 先よりも強い語気で請われ、恐る恐る海玲に視線を戻した。

 異性の前で上着を捲るという行為が恥ずかしかったのか、彼女の耳が真っ赤になっていたことはさておき。

 鳩尾の下あたりまでしか上着が捲られていなかったことに翔太は安堵するも、露出した腹部に視線を移した瞬間。

 翔太にとっても馴染み深い〝あるもの〟が目に映り、思わず苦虫を噛み潰してしまう。


 海玲の真白い腹部には、空の半分が夜闇に支配されてなおはっきりとわかる青痣が刻まれていた。


「ひどい……。いったい誰がこんなことを?」


 自然、声音に怒気が混じる。

 そんな翔太に向かって、海玲は先程以上に弱々しく笑みを浮かべながら、ひどくつらそうに、絞り出すような声音で答えた。


「わたしの……お父さん……」


 それを聞いて、翔太は悟る。

 DV――家庭内暴力ドメスティック・バイオレンスが、彼女に自殺を決意させた理由であることを。

 

「別に、お父さんはわたしのことを愛していないわけじゃないの……。すぐカッとなって手を出してくるけど、その後は優しくしてくれるから……。でも……それでも……もう……っ……」


 耐えられない――とは続かなかった。

 こらえきれなくなって漏れ出た嗚咽が、彼女の言葉を塞いだから。


 咽び泣く海玲を、なんとか慰めないと――そう思った翔太は、


「だ、大丈夫ッ! 僕もほらッ! 君とおんなじだからッ!」


 叫びながら時分も制服の上着を捲り上げ、イジメのせいで青痣塗れになった腹部を露出させた。

 自分よりも青の割合が多い腹を見せられた海玲は、数瞬呆気にとられるも、


「……ぷっ……」


 思わずといった様子で、小さく噴き出してしまう。


「あ、ぅ……ご、ごめんなさい! 笑い事じゃないのに! で、でも……まさか、そんなふうに慰めてくれるとは思わなかったから……その……ごめんなさい……」

「い、いや。ぼ、僕の方こそ、なんか……ごめん」


 気まずいはずなのに妙に心地良い、不思議な沈黙が二人を包む。

 西の空を照らす茜色の残滓が、今だ捲り上げたままになっている、翔太の腹の青痣を映し出す。


「新野くんの……わたしよりひどい……」


 我が事のように哀しげな顔をしながら、海玲は翔太の腹に手を伸ばしかけ、思い直したように引っ込める。

 青痣そこは、怪我の程度によっては軽く触れられただけでも痛い。

 それこそ海玲は嫌というほど知っていたから、手を引っ込めてくれたのだろうと翔太は思う。


 そして、今さらながら気づく。

 自分も、海玲も、腹を出しっぱなししていることに。


「は……ははは……」


 適当に笑ってごまかしながら、翔太は捲った上着を戻していく。

 その様子を、どこかぼんやりと眺めていた海玲だったが、


「~~っ!」


 ようやく自分もお腹を出しっぱなしにしていることに気づき、耳はおろか顔全体を真っ赤にしながら上着を戻した。

 そんな彼女のことがすごく可愛らしいと思ったが、状況が状況なので浮つきかけた心は強引に沈める。


「あの……夏木さんはどうするの?」


 とは、まさしく言葉どおりの意味。

 幸せな日々を送っている人たちにとってはも何度も使っていく、極々ありふれた言葉。

 だけど、自ら命を絶とうしていた二人にとっては、とても……そう、とても、重い言葉。


「少なくとも、死のうという気にはなれない……かな。新野くんも、昨日の今日で死なれるのは嫌……だよね」


 今はまだ――その言葉を聞いた瞬間に表情を歪めてしまったせいか、海玲は申し訳なさそうに「ごめんなさい……」と謝った。


「いや、別に、謝らなくていいよ。僕が勝手に夏木さんを止めただけだし……。それに……そのことについて僕は、謝るつもりは……ないから」


 なんとか、無理矢理、柄にもなく、語気を強くしながら断言する。

 そうしなければ彼女を繋ぎ止めることができない――そんな気がしたから。


「そう……」


 と、曖昧に答えた海玲は、わずかな沈黙を挟んでから訊ね返してくる。


「……新野くんは、どうするの?」

「さすがに、人の自殺を止めておいて自分は――って気にはならないよ。でも……イジメを受けた後とかは……ちょっと自信ない」

「それは……わたしも同じ……かも」


 先程とは違って少しの心地良さもない、ただただ気まずいだけの沈黙が、二人の肩にのしかかる。

 そうこうしている内に太陽は完全に西の空に隠れてしまい、夜闇が優しく無慈悲に町を包み込んだ。


 繁華街から離れているせいか、ひどく暗い。

 まるで、翔太の、海玲の、を暗示しているかのように。


 何か光が欲しい。切にそう思う。

 視界を照らす光が。

 生きる希望を抱く光が。


 そんな翔太の願いを叶えるように、目の前にこれ以上ないほどの光が照らし出された。

 その光は、海玲のスマホの光だった。


「あの……えと……そのね……」


 海玲は散々言い淀んでから、ちょっと裏返った声で言う。


「新野くんっ! わ、わたしと、ラ、ラ、LINEを交換しませんかっ!」


 異性とLINEを交換する。自他ともに認める陰キャである翔太には、そのハードルの高さは嫌というほど理解している。

 海玲が陰キャかどうかはともかく、どう見たって男慣れしてなさそうな彼女が異性にLINEの交換をお願いすることにどれほどの勇気を要したかは、翔太はそれこそ嫌というほど理解していた。

 ……理解していたが、


「ごめん……夏木さん……。僕、今スマホ持ってないんだ……学校に持っていくと、……」

「あ……」


 言葉の意味を察した海玲の口から、申し訳なさそうな吐息が漏れる。

 そう。学校にスマホなど持っていったら絶対になくなるのだ。

 翔太をイジメる〝彼〟に壊されるか、捨てられるかして。


 けれど、だからといってIDの交換自体はできないわけではない。

 IDを書いたメモを海玲から受け取り、帰宅後にアパートの部屋に置いてあるスマホに登録すればいいだけの話なのだから。


 けれど、それでは、海玲の勇気に報いることができないような気がする。


 だから、ここから先は僕が勇気を出す番だ!


 そう決意した翔太は、


「な、夏木さん! 明日は土曜日で! 学校もバイトもないので! 夏木さんさえ良ければ! またここでお会いしませんか!」


 声を裏返らせながら海玲にお願いした。

 彼女がLINEの交換を申し出た際、無駄に敬語になっていた気持ちについても嫌というほど理解しながら。


「えあ……その……そうですね……。わたしからも……よろしくお願いします……」

「あ……ぼ、僕の方こそ……よろしくお願いします……」


 お互い無駄に敬語になりながら、ペコペコと頭を下げる。

 普通の人が普通に経験するに比べれば、ひどく重々しくて、ひどく滑稽で、ひどくこの二人らしい一幕。

 それが、新野翔太と夏木海玲の、恋物語の始まりだった。

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