第2話

 コンビニのATMで三万円を下ろすと、残高は二千円少ししか残らなかった。ひどく心細かったが、満太郎は「全部の費用は俺が負担するよ」と請け合ってくれていた。そういうところでは絶対に間違いのない、あてになる男だ。この三万円は、僕が仮にも二十歳を越えた男であるというプライドのためのものに過ぎない。それと万が一のための備蓄。この場合の万が一というのは、旅先で何かのきっかけで満太郎と仲違いした時、というほどの意味だ。それでも、根がケチなくせに、ついつい無駄遣いをしてしまう性格を自覚している僕は、三万円を小さく折りたたんでA4サイズのレポート用紙で包んでから、バックパックの中のスナップつきポケットに収めた。

 その日は早く起きて、冷蔵庫以外の家電のコンセントを全部抜き、戸締まりを確認してから部屋を出た。何しろ満太郎の条件は「何日間になるかは判らないけど、最長で夏休みの間中、いっしょにいてもらう」ということだったから。僕にもそれなりの覚悟が要ったのだ。

 新幹線のチケットは指定券ごとすでに渡されていた。故郷が北海道なので飛行機には乗り慣れている僕だが、新幹線に乗ったことは数えるほどしかない。いや、正直に言えば、高校の修学旅行の帰路で京都から東京まで乗った一度きりだ。不安こそ感じないが、内心では興奮していた。

 満太郎はホームにすでにいた。年季の入った革のボストンバッグを足許に置き、手には大きなプラスチック袋を提げている。どうやらすでに、弁当や飲み物を仕入れたらしかった。僕を見ると軽くうなずき、おそらくは僕にしかわからないくらいの微かな笑みを見せた。

《のぞみ》は滑るようにホームを離れ、僕の心は浮き立った。しかし、その気持ちを満太郎に悟られるのもしゃくだったので、僕は旅慣れた様子を装いながら窓にもたれ、目を薄く閉じてみた。

 満太郎はプラスチックバッグをガサガサさせながら、

「名古屋までは一時間半程度で着く。旅行気分を味わうなら、その先だ」と言った。「ま、ぱーっと弁当を食っちまおうよ」

 僕は別に旅情にひたっていたわけでもなかったので、心の中をかってに覗かれたような気分になった。だからわざと、かったるそうに目を開けた。

 悔しいことに、目の前に置かれた弁当はやたらとうまそうだった。缶ビールと緑茶のペットボトルまである。品川を過ぎたところで限界だった。早弁をする中学生のような気分で、弁当を開けた。

「ところで満太郎、嫌がってた帰省をしなくちゃならなくなった理由っていうのは何なんだ?」

 照れ隠しのつもりもなかったが、そう尋ねてみた。

「うん。細かいところまで話せば、長い話になるんだけどな」

「かいつまんで、でいいよ。困った話か?」

「困ったと言えば困った話かもしれない。どうでもいいっちゃどうでもいい話だ」

「いったいどっちなんだよ」

 僕たちは新幹線の車両の右側に座っていた。つまり二人掛けの席だ。通路を挟んだ左側は空いていたが、新横浜から誰か乗り込んできそうな気配だった。満太郎は長身の背筋を伸ばして、席の前後にさりげなく頭を巡らせた。

「電車の中じゃ話せないようなことなのか?」

「まあ、家族の事情だからな。でも、田舎に近づく前には概略を話しておいたほうがよさそうだ」そう言って満太郎は、ビールを一口あおった。「俺の家が何屋か、言ったことあったか?」

「聞いたことあるよ。旧い寺だろ。でもすでに営業していないっていうか……営業って言うのかどうかしらねえけど」

「親父の代までは、代々、住職をやっていた」

「親父さんはもう亡くなってるんだっけな」

「そうだ。けど、兄貴がいたんでな。兄貴が跡を継ぐことになってたわけだ」

「その過去形、なんか、ひっかかる表現だね」

「ああ、おおいにひっかかるだろ? 兄貴も死んだんだよ。もう五年前になる」

「因縁話めいてきたな」

「おう、そうだよ。いったい田舎ってのを何だと思ってた? そりゃ半分ロシアみたいな蝦夷えぞっ子にはわからんかもしれんがな。田舎なんて、因縁の塊みたいなもんさ。まして旧い寺ときた日にゃ、因縁まみれだ」

 満太郎が真っ直ぐ前を見ながら低い声で呟くのを聞いて、いやな気がした。もしも怖い話が待っているんだったら、この旅をキャンセルするなら今しかない。僕は幽霊話や怪談は、大の苦手のヘタレなのだ。満太郎はその僕の怯えを感じ取ったようにふっと笑い、

「怖い話じゃないから安心しろ」と言った。

「別に、怖い話でも、聞くぶんにはかまわんよ」と、僕は強がってみた。

「ハナケン、寺って売り買いされるもんだって、知ってたか?」

「売り買いって、家みたいに?」

「家っていうより、会社の売買に近いな。寺っていうのは、あれはあれで経営されているもんだからな」

「葬式のお布施とか?」

「それもあるし、戒名だって、あれは売り物だ。永代供養の契約もあるしな」

「なるほど、よくできたビジネスモデルじゃんか」

 満太郎は、そのすんなりした鼻の脇に意地悪そうなしわを寄せた。

「よりにもよってハナケンの口から《ビジネスモデル》だなんて言葉を聞くとは思わなかったよ。まあいいさ。君と同じことを考えた奴がいたのが、事の発端なんだから」

 話の要約があまり得意ではない僕が、理路整然とした満太郎の説明をまとめると、だいたい次のようになる。

 満太郎には、姉さんが二人いる。そのうちの一人、上の姉さんは、正しく言えば「いた」と言うのが正しい。なぜなら彼女は三年前に他界してしまったからだ。名前を由佳里ゆかりという。由佳里さんは、死の一年前に、結婚をしていた。元の名を今川竜之介いまがわりゅうのすけというこの男は、婿として満珠院家に入籍し、今も満珠院姓を名乗り、真言宗満珠院の住職に納まっている。

 この竜之介という男は、元はと言えば、証券会社のディーラーだった。由佳里さんは故郷を出たことがなかったので、竜之介との接点はなかった。満太郎こと満珠院太郎が、寺を継ぐことをきっぱりと拒否した時点で持ち込まれた縁談だった。

「俺はそのことを今も悔やんでるんだよ」と満太郎は言った。「ユッカ(満太郎は上の姉さんをそう呼んだ)は知らない男と結婚なんかしたくなかったはずだ。結婚式にも俺は出なかった。で、そのまま逝っちまった」

「竜之介ってのは、どういう奴なんだ?」と僕は聞いた。

「ひどい男だ」

「ドメバイとか?」

「ドメバイ?」

「ドメスティック・バイオレンス――家庭内暴力だよ」

「ああ。それだけは無かったと信じたいけどな」

 満太郎はそう言うと、立ち上がって荷物棚に手を伸ばし、二つある荷物の中から、旅行にはふさわしくなさそうな書類鞄を下ろした。中から一枚のクリアファイルを取りだし、僕に差し出した。ファイルには、一通の速達封書が挟まっていた。達筆な縦書きで「満珠院太郎様」とある。僕はファイルを裏返してみた。これから行こうとしている県名の住所の後で「満珠院由佳里」と記されていた。

「取り出して構わない。読んでいいぞ」

 裏打ちのある古風な封筒に、二枚の便箋が納まっていた。宛名書きよりさらにこなれた行書で、その手紙は綴られていた。


 前略

 暑い季節が来ましたが太郎はどうしていますか

 ユッカ姉は少々夏バテ気味ですよ

 さて 太郎に話があるのよ

 電話くれてもいいけど どこにでも人の耳はありますから

 できれば会って 池の端の草むら(覚えてるよね)に座ってでも話したいの

 今年も帰るつもりはないのでしょうか

 お手紙にはおよびませんから 電話ちょうだいね

 かしこ

 由佳里

 追伸 「浦野真矢」についてのことです


 二枚目の便箋は、白紙だった。


「帰ったのかい?」と僕は聞いた。

「いいや」

「返事……電話は?」

「しなかった」

 そう言いながら満太郎は僕の手から便箋を取り戻し、丁寧に畳んで元に戻した。

「何か大事な話があったみたいじゃないか。その……マヤさん、とやらについて」

 満太郎は目をつむり、沈黙していた。

 車内アナウンスは、名古屋が近いことを告げた。僕は、食べ散らかしたゴミをまとめた。


 名古屋駅の新幹線改札を抜けた。ローカルのXX線に乗り換えるまでに一時間余りがあることは、あらかじめ聞いていた。すでにビールと弁当で腹一杯だったのにも関わらず、味噌煮込みうどんとかひつまぶしなんて書かれた幟を見ると、我ながらいまいましいほどの食欲が湧いてきた。一時間で何か食えるだろうか? 満太郎は奢ってくれるだろうか?

 しかし満太郎は改札を出るなり荷物を足許に置き、しきりにスマホをいじっている。メールのやりとりらしいのだが、彼にそんな相手がいたという覚えがない。

「乗り換えまで、けっこう時間あるんだろ?」と僕は言った。

「まあな」

「このままここに立ってることになるのかい?」

 言い終わらないうちに、また満太郎の電話が鳴る。しかし、メールの着信音とは違った。

「はい……ああそう。……うん。きっと判ると思う。……うん。じゃあ、待ってるよ」

 満太郎は電話を切ると、腕時計に目をやった。そしてそのまま大股で歩き出した。

「誰かと待ち合わせなのか?」と僕は聞いた。聞いてばかりだ。

「ああ」とだけ満太郎は答えた。

 僕らは駅構内のコーヒーショップにいた。味噌煮込みうどんもひつまぶしもない。妙にどろりとしたアイスコーヒーに二つ目のクリームを注ぐと、ちょうど良くなった。

 満太郎がふと目を挙げ、その骨張った手をさっと掲げた。彼の視線の先に目をやると、ロングヘアーのすらりとした女性が、店に入ってきたところだった。ジーンズの足許はサンダルで、なんだか金魚を思わせるふわふわしたカットソーを着ている。トンボ眼鏡と言っていいくらい大きなサングラスを外して、トートバッグに放り込んだ。

「名古屋はそんなに暑くないわね」と言いながら満太郎を見下ろし、僕を見た。

「紹介するよ。下の姉さんのサオリだ。こちらは花沢健一――略してハナケン」

 僕は思わず立ち上がり、サオリさんに会釈をした。

「サオリは京都から来たんだ」と満太郎。

「京都は……暑いですか?」と間抜けな質問をしてしまう。

「ええ。ひどいもんよ」

 サオリさんは如才なくそう答えてくれたが、とはいえ僕をどう扱っていいか、決めかねているらしかった。満太郎が友達を連れて帰ることは聞いていたが、その位置づけが判らないといった様子だ。互いに当たり障りのない話が続く。

「ユッカの手紙はハナケンには見せたよ」と満太郎が言った。

「あたしは見てないわ」

「うん」と言いながら、満太郎は書類鞄を開けた。「内容は電話で伝えた通りさ」

 佐緒里さおりさん(その時までに、どう書くかを聞いていた)は、しばらくその便箋に目を落としていた。

「ユッカの文字に間違いはないわね。浦野真矢って、あのこと?」

「そう。僕らの間では、何度も使ってる符号だった」

 符号?――真矢というのは、誰かの名前じゃないのか?

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