第19話 波紋が生じることへの煩悶

「あれさぁ、氷室じゃない?」

「あ、ホントじゃん。あれ彼氏かな?」

「またんじゃね?」

「うっわ、あり得るんだけど」

「ヤバイよね、行こ行こ!」


 喫茶店の帰り道、聞こえるか聞こえないかの声量でひそひそと語るのが偶然にも聞こえてしまった。

 内容から察するに、深雪さんと同じ高校に通っていただろう。

 あまり品がいいとは言えない内容だったので、僕としても少し気になったが、そんなことより問題は深雪さんが今のを聞いていたかだ。

 あれ以来、あやふやなままだが、一応の解決、それとも時効か、とにかくそっとしておく事となった。

 だから、こうして突然にもその事実に直面するとやはり気まずい。


「えへへ、行こっか……」

「……うん」

 あぁ、聞こえてたのか。いや、隣にいる僕が聞こえてるのだから当然か。よくもまあ、妙な空気にしてくれたなギャル集団め。時代の遺物かと思いきや大学にも結構いる。僕は個にして孤であるがために小なので何の言い返しも出来なかった。

 自分でも今の言い回しは意味不明だから、ただただ虚しい。

 友人が辱めを受けているに近い状況を、ただ嫌がっているだけで終わってしまうような情けない人間だったとは、自分を買いかぶり過ぎていたようだ。

 日本人は他者に批判されないかを気にして行動する『恥の文化』なのもあって、一層自分が恥ずかしい。


 だが何と言う?

『気にしなくていいよ』?『僕は大丈夫だよ』?

 星の数ほどセリフと向き合ってきたというのに、何一つとしてふさわしい言葉が出てこない。

 自己嫌悪の渦が語彙を蹴散らし、赤子と言えどももう少し励まそうとするはずなのに、ただぼんやりと帰路をゆく。


「ごめんね……嫌な気持ちにさせちゃったよね」

 そして僕はとうとう彼女の口からこんな言葉を引き出してしまった。

「そんなこと……!」

 この作り笑いを見るくらいなら、ギャル集団に殴り込みに行った方が幾分かマシにさえ思えてくる。


 結局僕はまた、本の世界に閉じこもろうとしていた。

 今までにも嫌なことが起きたらそうしていたから。

 既に家に着いてしまったので、彩香がそっと僕に晩ごはんができたことを伝えるまで、世間というものをシャットアウトし、汗牛充棟かんぎゅうじゅうとうなる殻に閉じこもるという算段。


 でも、今の僕はなぜだか読書を逃げ場とするほど物語に没入できなかった。

 深雪さんにせめて一言だけでも伝えたい。そんな情けなくも悲痛な想いが僕を読書スペースからキッチンへと歩ませていた。


「ん?晩ごはんはまだだよ~って、え、えええええ!?」


 普段、一切悩んだりしない分野で試行錯誤しても答えがすぐ出てくるはずがない。

 僕の手札はすべて何らかの書物から学んだ、ではなく受け売りの語彙しかないのが露呈した今、僕は死中に活を求めるように、深雪さんにまた、ハグをしていた。


 みせた一種の錯乱状態ではないので、深雪さんは慌てふためいている。

 そうか…………結局は僕が慰めてほしかったのかもしれない。

 母を守らんとして試行錯誤するも非力を悟った子が、かえって母に慰めてもらうかのように。

「いったいどうしたの?」

 僕が『子ども』だからか、深雪さんはお母さんのように優しく尋ねてくれる。

「ごめん、あの時何もフォロー出来なくて。僕って最低だよ。本当にごめん」


「好き」

「……え?」

「好き♥」

 手札にないカードを使うのはやはりまずかったか。

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