父子と姉妹

 試験航海を切り上げたゲルトルート号は、補給船と鹵獲したガレー船を連れてペルセポリスに戻って来た。港に着いたのは昼すぎだったが、曳航され接岸したのは既に日没近くだった。ゆっくり風呂に浸かろうと久しぶりに離宮に帰ったイゾルテだったが、その前に皇帝ルキウスからの呼び出しがあった。湯船は諦めて手早く体を拭うと、彼女は身支度を整えムルクスと共に皇宮に向かった。

 皇宮に上がる時、イゾルテは好んでタイトンの民族衣装であるトーガを纏う。それは、異民族の血の濃いイゾルテが必死にタイトン人たらんとしている……ように見えるらしく、意外に評判がいい。だが本当のところは腰をグイグイ締め付けるドレスが苦手なのと、トーガだと体の線が分かりにくいから着ているのだった。特に胸のボリューム(が無いこと)を隠せることが重要なのだ。



 皇宮に上ったイゾルテは、後宮の入り口で姉のテオドーラに捕まった。二人の生母であるイザベラとゲルトルートは共に既にこの世にはなく、後宮には皇帝1人が住まうだけであったが、多数の侍女と衛兵は配置されていた。だからその現場は、彼らに目撃されることとなった。

「イゾルテ! ようやく戻ってきたようね」

テオドーラはイゾルテの行く手を遮ると、彼女を睨みつけながらそう声をかけた。普段のテオドーラを知る者には想像もできないほど硬い声だ。

「舟遊びなどして、お父様を心配させるのはもうお止めなさい」


 以前からテオドーラは、事あるごとにイゾルテに絡んで来ていた。最近はますますねちっこくなっていて、イゾルテはを感じたことすらあった。

「遊びなどではありませんわ、お姉さま。新しい船の開発は帝国にとって重要な事です」

普段のイゾルテを知るムルクスにはむず痒く聞こえるが、イゾルテはお淑やかな振りもできた。というか皇宮ではいつもネコをかぶっているので、一般にはこんなしゃべり方をする娘だと思われているのだ。

「そんなことは男にまかせておけば良いのです。高貴な姫がするようなことじゃないわ!」

口答えされたことに腹を立てたのか、テオドーラの拳は震えていた。まずいと思ったムルクスは、とっさに2人の間に割って入った。

「申し訳ありません、テオドーラ様。陛下がお待ちですので、イゾルテ様はすぐに参らねばなりません。テオドーラ様にはまた改めてご挨拶させていただくということで如何でしょう」

「そう、仕方ないわね。じゃあ、後で私の部屋に来なさい。必ずですよ」

「はい、お姉さま」

頭を下げるイゾルテの肩は少し震えていた。



 何とかテオドーラをやり過ごしたイゾルテは、暗い顔のまま皇帝の寝室を訪れた。

「よく来たな、イゾルテ。息災か?」

「はい、陛下」

「陛下とは他人行儀だな。私は何か悪いことをしたか?」

「『息災か?』っていうのも他人行儀じゃありませんか?」

二人は声を合わせて笑った。噂とは違い、二人の仲は悪くないのだ。


「沈んでいる様に見えたが、ゲルトルート号はかんばしくなかったのか?」

「いえ、試験航海はなかなかの結果だったのですが……」

口ごもるイゾルテに、ムルクスが助け舟を出した。

「先ほどテオドーラ様とお会いいたしまして、陛下を心配させないようにとお叱りを受けたのです」

随分と婉曲な表現だったが、ルキウスはそれだけでだいたいの事情を察した。

「そうか、あれにも困ったものだ。そろそろ婿をとって私を安心させて欲しいものなのだがな……」

父娘はそろってため息をついた。

「お前ならどうにか出来るとは思うが、あれがいつ使に出るかもしれん。十分に気をつけなさい」

「……はい、分かっています」

イゾルテはうつむいて小さく答えた。


 そんな沈んだ空気を変えようと、皇帝は努めて明るい声を上げた。

「それはそうと、ゲルトルート号はどうだった」

「はい、なかなかの結果でした。弱風から強風まで、これまでの帆船の1倍強~2倍の速度が出せました」

「ほう、問題はないのかね」

「帆が多いぶん、水夫の質と量が要求されます。旋回1つで甲板上は大わらわでしたわ」

「ふーむ、それでは戦には使えないか」

「いえ、それがなかなか。マストが高いので見晴らしが素晴らしいです。いち早く敵を発見できました。あとは船べりが高いのも良いです。おかげでガレー船を無血制圧できましたわ」

自慢気に語るイゾルテを尻目に、ルキウスは鋭く目を細めた。

「……ムルクス、説明してくれ。余の娘は何の話をしているのだ?」

ムルクスは笑顔で答え……

「…………」

……られなかった。いつも通り笑顔のままだが、やたらと汗をかいていた。だから代わりにイゾルテが、無い胸を張って答えた。

「私がマストに登っていたら、補給船に近づくドルクのガレー船を見つけたのです。そこで例の網を使って行動不能にし、舷側から弓で威圧しました!」

「……ほう」

ムルクスを見つめるルキウスの目が一段と細くなった。興に乗ったイゾルテは更に声を高めた。

「威圧された敵は武器を棄てました。そこで私がマストからとぉっと乗り移り、高らかに宣言したのです!

 『諸君には寛大な処置を約束する。イゾルテ・ペトルス・カエサル・パレオロゴスの名においてな!』……と!

 すると敵の船長はひれ伏し、どうか部下の命だけはお助けくださいと頭を下げたのです!」

鼻の穴をスピスピさせながら、イゾルテは自慢気に反り返った。ふと見るとムルクスは煙のように姿を消していた。

「……いろいろ言いたいことはあるが、それはムルクスに言っておこう。ともかく、その身を大切にしてくれ。私は愛しい家族を再び失いたくはないのだ」

父は娘を優しく抱きしめた。



 イゾルテは後宮を辞すると東にあるテオドーラの宮殿を訪れた。テオドーラの事を考えると頭が痛いのだが、約束を破ると後々大変な事になる。現在この国は、テオドーラによって存亡の危機を迎えているのだ。

「イゾルテ様がお越しになられました」

「通しなさい」

イゾルテが侍女の案内でテオドーラの私室に通されると、テオドーラは全ての侍女に退室を命じた。イゾルテは先程の父の言葉を思い出した。

『あれがいつ実力行使に出るかもしれん。十分に気をつけなさい』

彼女は緊張に身を固くしてゴクリとつばを飲み込んだ。

 テオドーラは侍女が退室するのを見届けるとにわかに走りだし、イゾルテの前で右手を振り上げた。

「イゾルテ!」



 その頃皇帝の寝室には、再びムルクスが呼び出されていた。イゾルテがいないので、ルキウスは遠慮なくムルクスを叱りつけた。

「まったく、お前が付いていながらあの娘を危険な目に合わせるとは!」

「あー、その、危険な目に合わせたのではなく、姫様の方から危険に飛び込んで行ったのですが……」

「それもお前の教育が悪いのだろうが! あれが男だったとしてもなるのは提督だろう? マストに登ったり敵船に乗り込んだりと、それでは水夫か水兵ではないか! まさに匹夫の勇だぞ!」

ルキウスの言葉は尤もだったが、ムルクスはいけしゃあしゃあと言い訳を始めた。

「まったく仰る通りです。ですが姫様は身分の垣根を越えた繋がりを求めておられるようでして、水夫や奴隷たちとも気さくにお付き合いなされております。それが姫様の魅力でもあり、皆が姫様を愛する理由でもある訳でして」

「兵に支持される将軍や国民に愛される王とて、将として王としての立場は弁えているものだ。あれは皇女という立場を忘れておるのではないか? 特に我が国には皇位を継げるものが事実上2人しかいないのだぞ!」

「あの方は賢いお方です。成長すれば、自然と立場に則した態度を取られるようになるでしょう。しかし、下々と別け隔てなく接することができるのは子供のうちだけです。それに、あの方は必要悪というものを理解していらっしゃいます。国のためとあれば、涙を隠して兵を死地に送り込むことが出来る方です」

「そういう言う方をするのはずるいぞ。確かにお前の言うとおりかもしれんが、今問題なのは皇統の継続だ。別にあの娘が全てを背負い込む必要はない。だれかいい男を見繕って子供を産めばそれで良いのだ」

「ですがイゾルテ様は、テオドーラ様かそのお子が皇位を継ぐべきだと考えておられるようです」

巧妙に話が逸らされて話題がテオドーラに移ると、ルキウスは頭を抱えた。イゾルテの身の安全も心配だったが、ルキウスはテオドーラのことでも頭を痛めていたのだ。

「分かっている。私自身もそう考えておるのだが、テオドーラがあの様子ではな……」

「また縁談を蹴られたのですか?」

「ああ。だが無理強いすれば壊れかねん。アレの母親もそうだったからな……」

「は? イザベラ様ですか?」


 イザベラはルキウスの正妃でテオドーラの母である。側妃のゲルトルートとの不仲が噂された人物ではあるが、結婚の前も後もルキウスとの不仲を噂されたことはなかった。ゲルトルートが寵愛を得た後ですら、彼との仲は睦まじかったのだ。

――そういえばテオドーラ様がイゾルテ様を見る目は、イザベラ様がゲルトルート様を見る目とそっくりだ。流石は母娘と言うべきか……。

そのイザベラも、イゾルテの産褥で死んだゲルトルートの後を追うように病死していた。

「イザベラもゲルトルートに夢中だった」

遠い目をしたルキウスの言葉に、ムルスクは驚いた。

――夢中? 虐めるのに夢中だったということか? それほど陰湿な方ではなかったと思うが……。

「イザベラは嘘をつけない女だったからな。人前で無理に心を押し殺そうとすると、どうしても睨むようになってしまったのだそうだ。よくゲルトルートに謝っていた」

話の展開が意外すぎて、ムルクスにはイマイチ良くわからなかった。

「……イザベラ様はゲルトルート様を嫌っておられたのではないのですか?」

「とんでもない。今だから言えるのだが、イザベラは浮気をしておったのだよ」

その言葉にムルクスは衝撃を覚えた。皇位継承権第一位のテオドーラはイザベラの娘なのだ。

――ま、まさかテオドーラ様の父親はルキウス陛下ではないのか……!?

ムルクスは緊張に顔を強張らした。……傍目には笑顔にしか見えなかったけど。

「……ゲルトルートとな」

「はぁ?」



 振り上げられたテオドーラの右手は電光のごとく振り下ろされ、イゾルテを打った。

「寂しかったわ!」

勢い余ってイゾルテの背中を打ったその右手には、決して放すものかとばかりにグイグイ力が込められた。ちなみに、振り上げられなかった左手は今、イゾルテのお尻を撫で回していた。

「お、お姉さま、近いですわ」

「久しぶりに会った姉妹が抱き合うのは普通のことだし、愛しあう姉妹がくちづけをかわすのも自然なことだわ!」

唇を寄せてくる姉を、イゾルテは唯一自由になる右手で止めた。

「抱き合うのはともかく、くちづけは自然じゃありません!」

「まぁ、抱き合うのは認めてくれるのね! 嬉しいわ!」

「…………」



 ルキウスの話は続いていた。

「私はイザベラを愛していた。だから一生お互いだけを愛すると誓い合っていたのだ。だが、イザベラは私を裏切った! さらにムカつくのは、相手がゲルトルートだったことだ!

 分かるか? あの妖精のようなゲルトルートだぞ? 私だって初めて会った時から夢中だったのだ! だけどイザベラとの誓いがあったから我慢していたのだ! それがいきなり妻に裏切られた挙句、意中の女を横取りされたのだぞ!

 裸で睦み合う二人を見た時、私には我慢ができなかった……!!」

ムルクスはゴクリと唾を飲み込んだ。

「それで、どうなされたのです?」

「もちろん乱入したさ! 素晴らしい経験だった!」

「…………」

「頑張りすぎていつの間にか失神していてな。気付いたら夜が明けていた」

「…………」

「そうしてゲルトルートを側妃に迎えたのだ。その後もよく3人で愛し合ったよ。そのイザベラがゲルトルートを嫌うはずもないだろう?」


 ムルクスは頭を抱えた。過去のこととはいえ、予期せず皇帝の赤裸々な性生活を知ってしまったのだ。

――できれば知りたくなかった。しかし、陛下がいきなりこんな話をされたということは……?

ムルクスは頭を過ったその考えを馬鹿げたことだと思った。思ったのだが、その馬鹿げた考えを確かめずにはいられなかった。

「まさか、テオドーラ様は……?」

「うむ、イゾルテが好き過ぎて結婚しないのだ」

ムルクスは再び頭を抱えた。



 イゾルテは姉を嫌いではなかった。むしろ好きと言って良いだろう。だがそれは、自分もそうなりたいという憧れのようなものだ。美しく嫋やかで、それでいて誰からも妬まれることもない彼女は、イゾルテの理想の淑女像なのだ。しかも胸も大きく、タイトン人らしい黒髪も美しい。このあたりはちょっとコンプレックスでもあった。

 それはともかく、イゾルテはそんな姉を誇りに思っているし、自分に好意を寄せてくれることを嬉しくは思うのだ。だが、姉が自分に寄せる好意に家族愛以上のものが含まれているのは困るのだ。100歩譲って恋愛感情を許したとしても、プラトニックであって欲しい。1000歩譲って肉体関係を許したとしても、皇女としての勤めは果たして欲しい。結婚して子供を産んでくれないと皇統が途絶えてしまうのだ。だが困ったことに、テオドーラは縁談を次々に断り続けていた。もちろん原因はイゾルテである。

「お姉様、そろそろ結婚なさってはいかがですか?」

「嬉しいわイゾルテ。 私があなたを幸せにしてみせるわ!」

「…………」

 結婚を強制すれば自殺どころか相手の暗殺まで企てかねない――というのが、イゾルテとルキウスの一致した見解であった。逆にイゾルテが結婚したら、初夜の前に相手は暗殺されるだろう――という見解も一致していた。だがテオドーラの暴走っぷりを目前にすると、別の可能性が頭をよぎった。

――無理心中という線もあるかも……

それでは皇室の断絶が確定してしまう。イゾルテは冷や汗を垂らした。

 だがテオドーラはイゾルテの心も知らずにはしゃいだ声を上げた。

「お、お風呂を用意してあるの、船旅の垢を落としましょう。わわわわたしが洗ってあげるワ!」(ハァハァ)

 イゾルテは頬を赤らめるテオドーラを見て身の危険を感じていた。それは同時に帝国存亡の危機でもあった。緊急事態である。彼女は意を決して叫び声を上げた。


「きゃーーーーーーーー! ねーずーみーよーーーーーーーー!」(棒)


 その悲鳴につられて侍女たちがわらわらと駆けつけて来ると、テオドーラは慌てて身を離した。その隙にイゾルテは、「きゃぁー!」とか「ねずみぃー!」とか叫びながらテオドーラの宮殿から逃げ出した。帝国の危機はこうして回避されたのである! ……一時的に。

――次は逃げられるかなぁ……

イゾルテはがっくりと項垂れて溜息をついた。


 ちなみにとばっちりを受けた侍女たちは、テオドーラに徹夜で掃除をするように命じられたそうである。

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