愛が呼ぶほうへ。

英 蝶眠

Episode 1


 横浜の弘明寺に、


賢象げんぞう御殿」


 とタクシードライバーの間で目印となっている屋敷がある。


 門の脇に普賢象という品種の桜の大樹が聳えているのでそう呼ばれているのだが、桜にしては少し遅めの四月の半ば頃になると、薄くれないの八重の花を艶やかに咲かせる。


 ちなみに。


 普賢象という風変わりな名前だが、由来は普賢菩薩が乗る象のことで、花の中心部に象の牙のように見える蕊があり、普賢菩薩が四月の守護仏であるところからこの名前がついたとされる。


 話を本題に移す。


 海士部あまべ家がこの屋敷の主になったのは初代の正助が岡山から上京し、海士部組という建設業を始めてから、およそ半世紀を経たところから語り起こさなくてはならない。


 昭和の東京五輪の特需景気に乗って財を成した三代目の昭は、弘明寺に地面を求め家を建てた。


 ちなみに桜はそのときには既にあり、


「前の家主が小説家で、どうやら酔狂で植えたらしい」


 との由であった。


 その後は。


 四代目であったたけるが、重機のリースに始まる事業展開の拡大で不動産の取引から、自社ビルを桜木町に建てるまでに至り、そのビルは後にオフィスとして貸し出された。


 やがて。


 まだ孫娘のひかりが石川町の幼稚園に通っていた頃には横浜でもちょっと名の知れた会社となり、花よ蝶よと育てられたのである。


 果然。


 光はいわゆるお受験で名門の女子大学の附属の学校へ入学し、そこからエスカレーター式に大学まで卒業。


 大学生のときにはアメリカに留学までしている。




 ところで。


 その海士部光、アメリカから帰朝し卒業すると、そのまま海士部組に新入社員として入社した。


 配属は総務部で、ごく一般的な会社員として一歩を踏み出したのだが、


「光お嬢さま」


 とか、


「姫」


 などというあだ名がすぐさまついた。


 元来、海士部という少し変わった名字で目立ったところに来て、


「あのお嬢さまは敬語が…」


 とこぼしたのが、光の教育係であった七年先輩の辻翔馬しょうまであった。


 ただ一人、女子社員が大多数の総務に配属されていた翔馬は、川崎のありきたりなサラリーマンの末っ子なので、光の挙動が驚きであったらしい。


 というのも。


 総務に配属されて光がお茶くみをするよう上司に命じられた時に、


「わたくしは、ウェイトレスやホステスではありません」


 と言って、


「それこそあなたは、自販機に行くお金がないのですか?」


 と逆質問をしてくるのである。


 さすがに翔馬はこれはまずいと思ったらしく、


「あの、海士部さん」


 それとなくたしなめようとしたが、


「そもそも日本社会は、女を何だと思っているのですか?!」


 と、大上段からまさかりでも振り下ろすようなやり返し方をしてくる。


 これには、


 ──あれでは嫁に欲しがる物好きもいないだろう。


 と社内で噂が立つほどであった。


 そうして一年ほどが過ぎた。


 光は総務部から、どういう訳かエンジニアリング部への異動となった。


「わたくし、何にも機械なんか触れませんことよ」


 などと光は総務部から離れる事を拒んだらしいが、


「日本の会社ではそんなワガママは許されない」


 という社長でもある父のゆたかの断もあって異動が決まったのであった。


 総務部では形ばかりながら、送別会を開いた。


「どうせみんな、私が異動でいなくなる事を喜んでるんでしょ?」


 光は半分見下したような言い方ではあったが、数少ない仲間でもある翔馬の説得もあって、取り敢えず顔だけは出す結論に決めたらしかった。


 光と翔馬のユニットは、


 「女帝と下僕」


 と陰で囁かれるほどのコンビとして周りでは見られている。


 送別会とはいうものの、やはりそこは県内でも指折りの企業で、桜木町のホテルの広間を借り切ってのパーティー、しかも取り引き先からも何人か来賓が来ている。


 とりわけ。


 目立ったのは不動産管理会社の令嬢と、そのフィアンセで陶芸家の美男美女のカップルで、令嬢は光の先輩でもある。


「セレブってすげぇなぁ」


 翔馬にしてみれば見たこともないような世界で、かつて海士部組に就職が決まった際、


 ──これで孫の代まで自慢できる。


 などと言われたりもした、その理由の一端が分かったような気がした。




 準備から何から、朝早くから下働きのようにあちこち働かされていた翔馬は、ようやく広間の隅で息をついていた。


 そのとき、


「辻先輩…ですよね?」


 うなだれていた翔馬が見上げると、そこにはなぜか、大学のときの三年後輩にあたる綱島つなしま菜々子がいた。


「綱島…なんでいるんだ?」


「パーティーのコンパニオンとして呼ばれたんです」


 お酌や会話のための要員らしい。


「このバイト、結構稼げるんですよ」


 微笑む菜々子に、翔馬は少しだけ複雑な顔をした。


「こんなみっともない姿を綱島に見られて、こんなんだったら就職なんかするんじゃなかった」


 いつわらざるところであったかも分からない。


 菜々子はグラスを手に、


「私は先輩にひさびさに逢えたんで嬉しかったですけどね」


「そうやって媚び売って稼げるんだから、生まれ変わるなら女がいい。札束積まれたって男なんか生まれ変わるのはまっぴらだ」


 翔馬は酒の勢いに任せて暴言を浴びせた。


 菜々子は一瞬、言葉に詰まったが、


「…先輩、何かあったんですか?」


 翔馬の隣に座ると、顔を覗き込んだ。


「遭ったなんてレベルじゃない。社長の娘には振り回されるわ、送別会だから手伝えって朝から駆り出されて、どうせ残業代だって出ないし」


 明日辞表出すからもういいんだ、と翔馬は半ばヤケ気味にグラスをあおった。


「綱島、こんな先輩で残念だったな。そこらへんのイケメンでも捕まえて幸せに暮らせよ」


 翔馬は席を立つと、そのままトイレへ向かった。


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