第4話 ひるね

 小さいお父さんは、ソファの上ですうすうと寝息を立てている。お風呂上がりで、クーラーの効いた部屋でアイスを食べて、昼寝をする。なんて幸せな夏なんだろう。何より、家の中ではマスクをしなくたっていい。

 部屋から戻って来たお母さんは、コーヒーを入れながらこんな話をした。


「お父さん、子どもの頃に、足に釘が刺さって、何日間か熱が出て死にかけたらしいの。聞いたことある?」

「そんなこと言ってた? お父さん、よく死にかけるんだね」

「澪には言わなかったのかしら。若い時は、よく武勇伝みたいに話していたけれど」

「釘が刺さって熱が出るって、昭和ってそんなに危なかったの」

「古い小屋で遊んでたそうだから、よっぽどだったんでしょう」

「じゃあ、さっき言ってた“病院に運ばれた”っていうのは釘のせいで、その死にかけてる時に、“僕が死んだ後の世界を見たい”って誰かにお願いしたってことなのかな」

「あのちびすけの言うことをまとめると、そういうことになるわね」


 お母さんだって、自分が口にしたことを信じられるわけではないらしい。短いため息をつきながらテーブルの席に座って、ソファで眠るお父さんの方に目をやった。ため息はテーブルの上にぽつりと落ちたまま、お母さんの手元をぐるぐると回り続けている。


「初めてあの人に会った時、言われたのよ。“俺は君に夢の中で会ったことがある、俺たちは結婚して君は女の子を産んでくれる。だから他の男は諦めて、早いところ俺と付き合った方がいい”って」

「なにそれ……。ナンパみたい」

「大学のゼミ室で、ゼミの初顔合わせの時だったんだけれど。いきなりそんなことを言い出すから、もう恥ずかしくて」

「でもさ、お父さんちょっとそういうこと言いそうだよね」

「でしょう? それに、生まれてきた子が本当に女の子だったから、わたし驚いちゃって。それでようやく、あの時言ってたことは嘘じゃなかったのかもしれないって思ったんだけれど……。まさか、こういうことだったなんて」


 二人の馴れ初めを聞いたのは、これが初めてのことだった。子どもの頃は、二人に馴れ初めなんてものがあるとは考えたこともなかった。それに、恋愛する両親の話なんて、聞いたところでくすぐったいだけだ。背中の奥の方を、誰かに羽根で突かれているような心地がする。


「それ、初めて聞いた」

「当たり前よ、そんなの。娘にこんな話、恥ずかしいじゃない」

「でもさ、それなら、せっかくだし大学生くらいの見た目で来てくれればよかったのにね。子どもじゃなくて」


 アルバムのページを進めれば、大学生のお父さんの写真が一枚だけ出てきた。入学式の写真らしく、お父さんは不愛想な顔をして校門の前に立っていた。おばあちゃんの顔も若々しい。この中に写る人の中で、誰があの口説き文句を思い描いただろう。この写真の数年後に、お父さんは初対面の女の子に、ちっとも訳の分からないプロポーズのような言葉を言い放ったのだから。

 私が何の気なしに口にした言葉で、お母さんはしばらく黙っていた。入学式の写真に視線を落として、指先でお父さんの姿を撫でる。初めて会ったゼミ室を思い出しているんだろう。それにきっと、あの強烈な言葉は“恥ずかしい”以上にお母さんの心を奪ったに違いない。だから、私がここにいる。


「……そんな格好で来られたら、こっちがおばさんなのが悲しくなるじゃない。さっきも、“こんなおばちゃん”って言ってたし」

「でもさ、今のお母さんの顔を見て、大学生になってからお母さんに“早く付き合った方がいい”って言ったんでしょ? 今のお母さんのこと、お父さん嫌いじゃないんじゃない?」


 お母さんははぐらかす。


「じゃあ、今の澪のこともきっと好きね」

「そうかなあ。ピンと来てないと思うけどなあ」

「大学生になった娘を見て喜ばない親が、いるわけないでしょう」

「うーん……。そう? 子どもなんか、放っておいても大人になるでしょ」

「ばかねえ。放っておいたら、子どもは死んじゃうの」


 もういないはずのお父さんの、小さな背中が寝返りを打つ。まだ、誰かと結婚することも、誰かの親になることも知らない、小さな背中。

 それがソファから落ちそうになったから、私は慌てて駆け寄った。お父さんはぴたりとソファの上で動きを止めて、またすやすやと眠り始めた。



──お父さんの命日は、私が中学校に入学した年の6月12日。街中が“父の日の贈り物におすすめ”なんて叫ぶチラシであふれて、ネットで調べ物をする度に、“趣味を大事にするお父さんにはこれ”なんて広告が出てくる時期だ。


 その日は良く晴れていた。一年ほど入院していたお父さんが息絶えるのを見ているのは、あんまりにも現実味がなかった。

 ドラマや映画みたいに、「お父さん! お父さん!」なんて泣きながら肩を揺する演出が、嘘くさく思えた。人が死ぬ時に聞こえる音は多くない。ピー、と脈が止まった電子音と、死亡時刻を唱える医者の声と、遠くで聞こえるカラスの鳴き声くらいだ。


 ただ、もう憎まれ口を叩くお父さんはいなくて、アイスを一緒に食べてくれるお父さんはいなくて、「お父さんなんて大嫌い!」と叫ぶ相手はいなくなって、もう、父の日のプレゼントに悩む必要もなくなったということを、音のしない病室で私は知った。


 お母さんが、ぎゅっと私の手を握ってきた。その手が震えているのには気がついたけれど、見上げたお母さんの横顔が、涙を必死に堪えているのを見たら。急に何もかもが涙に変わって、情けないくらいにぼたぼたと、私の目から落ちて行った。

 ちっとも泣かないお母さんの分まで、私が泣かなくちゃいけないと思った。私が泣いて、泣いて、泣いて、たくさん泣けば。その分お母さんは、前を向いていられる。

 少なくとも、この時のお母さんには、こんな栄養ドリンク程度のその場しのぎでも、私の涙が必要だった。


 今でも私は、そう信じてる。──

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