この夏の、延長線上で

矢向 亜紀

第1章 息をするのをやめた夏

第1話 お墓

 この夏が息をしていないことくらい、みんなとっくに気づいていた。張り切っているのは太陽だけで、最高気温は三十六度を超えている。墓石からの照り返しは最悪で、周りに誰もいないのをいいことに、私はマスクを外す。


「暑いね、お父さん」


 吸い込む空気は熱風だ。言葉は妙な熱に埋れて、足元にべたべたと落ちてしまう。

 お父さんがここに入ったのは、わたしが中学に入ったばかりの頃だ。もう、七年ほど前のことになる。大学二年生の私を見たら、お父さんはどんな顔をするだろう。大きくなったな、くらいは言ってくれるだろうか。


 柄杓ひしゃくで墓石に水をかければ、高桐たかぎり家と書かれた文字の色が濃くなった。仏花と線香を供えると、そこはたちまち墓地らしさで溢れ返る。お盆だと言うのに人気ひとけがないのは、暑さのせいだけではないだろう。

 この夏が息をしていないから。それに尽きる。


みおちゃん」


 ぼんやりした頭に、私の名を呼ぶ男性の声が響いた。声の方に振り向けば、お寺の住職が袈裟けさを着て立っている。彼がつるつる頭の下にマスクをしているのを見て、私も慌ててポケットからマスクを出した。その様子に、住職の目が細く笑った。


「澪ちゃん、暑いのにご苦労様です。涼太りょうたの墓参りですね」

「こんにちは。そうです、お父さんが拗ねたらめんどくさいから」

「ははは、それもそうだね」


 住職は、お父さんの高校時代の友達だ。だから、私の名前も覚えていてくれる。今年は顔を見ないなと思っていたけれど、それは我が家でお経を読んでもらわなかったからだと、今になって気がついた。毎年の行事であったとしても、まるでカレンダーには元から書いていなかったように、今年はすっぽりと抜け落ちている。


「その、袈裟って暑くないんですか?」

「暑いは暑いけど、こういうものですから」

「そっかあ」

「しかしこう暑いと、お花も弱ってしまいそうだね」

「お父さん、“どうせ花なんかすぐ枯れるんだから、その金でアイス買って食べればよかったのに”とか言いそうですね」

「それは確かに」


 穏やかに住職は笑う。同級生の墓石を眺める気持ちは、まだ私にはわからない。その代わりに、お父さんの墓石を眺める気持ちならわかる。それはあまり、いいものではない。


「涼太の面倒もいいけれど、無理しないようにね」

「ありがとうございます」


 袈裟の後ろ姿を見送って、もう一度仏花に目をやった。照りつける日差しの中で、すでに根を上げているように思えた。もしかしたら、本当に仏花ではなくてアイスを買うべきだったのかもしれない。そんなくだらない後悔を、いつもより覇気のない蝉時雨の中で思い描いていた。


 マスクを外せば、また夏の遺骸いがいのような熱風が体の中に入ってくる。せっかくの夏休みなのに、行き場がない。お母さんが在宅勤務中だから家にいるのも落ち着かないし、映画料金はアルバイトをしていない私には少し高い。ただ二時間座っているだけなのに、二時間働いたのと同じくらいの額を払わないといけないなんて。


「お姉ちゃん」


 突然、子どもの声が聞こえた。思わず肩が跳ねて、声の主を探して辺りを見渡す。灰色の墓石ばかりが立ち並ぶ、住宅街の一角にある墓地。蝉の声と、外の通りを走る車の音以外は聞こえない、街から切り取られたような景色。

 その中で、私は見慣れない男の子と向き合っていた。小学生だろうけれど、四年生にも見えれば、一年生にも見える不思議な子どもだった。緑色のポロシャツに、デニムの半ズボンを履いている。黒く短い髪は、丸い頭に沿ってさらさらと流れている。


 私は慌ててマスクをつけた。でも、男の子の方はそんな素振りを見せない。むしろ、私のことを不思議なものでも眺めるかのように見上げている。


「き、君、マスクは?」

「なんで?」

「なんでって……。お、お母さんは?」


 男の子は答えずに、高桐家の墓石と向き合った。その小さな背中は、なぜか懐かしい。もしかしたら、毎年花火大会に合わせて泊まりに来る、親戚のカズくんに似ているからかもしれない。もちろん、今年は花火大会もない。カズくんは、泊まりに来ない。


「ねえ、君、迷子?」

「ちがうよ」


 声をかければ、男の子は墓石から視線をこちらに向けた。丸い目や尖り切らない鼻の形が、煮えるような暑さの中に浮かんで見える。


「ぼく、たかぎりりょうたっていうの。お姉ちゃんは?」


 たかぎりりょうた。

 それはまるで魔法の言葉のように、私の体から力を抜いた。気づくと私はその場に座り込んで、男の子の瞳に映る自分の姿を眺めていた。男の子は「大人なのに自分の名前も言えないの?」と言いたげに、柔らかな眉を少し潜めている。

 アスファルトが暑苦しい。じわじわと熱を溜め込んだせいで、手をついたそばから鉄板みたいに私を焦がす。


「たか……高桐、澪」

「そっかあ」


 聞いた割には、男の子はあまり関心がなさそうな声色で答える。しかしそれは、関心がないからでは無かったらしい。まるで当たり前のことのように、男の子はもう一度口を開いた。


「これ、ぼくのお墓でしょ?」


 言われてみれば確かに、男の子の足元には、あるはずの影が見当たらなかった。

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