チンパンジーとゴリラのヤンデレ百合官能小説

山群 例

第0話 私、ゴリラ。脱走する。

銀色の背を、私は、ぼうっと眺めている。

それはきら、きら、と陽射しを反射して、波を打っている。特に眩いのは腰のくびれ辺りで、彼が腰を前後に動かす度に水溜りの水面のように美しくきらめく。彼は今、藁の寝床に横たわる雌のゴリラの膣の中で性器を揺すっている。私はつまり、同族の交尾を眺めている。最近は、頻繁に。交尾時の性器特有の濃い臭いが、目に見えない濃霧のように、このすり鉢状の小さな世界に満ちている。

灰色の壁の上では、小さくて弱々しそうな、繊細なつくりをした生き物たちが、あの二頭の交尾を指さして、目を閉じたり開いたりしながら歯を剥きだしたり、目を手で覆ったりしている。彼らはしばらくあの二頭にはしゃいだ後、私に気づく。彼らは色々な色の指で私を指さした後、さっきとは違うやり方で、口元を手で覆う。それから、似たような仕草をまた繰り返す。けれど今度は、少し違う。何かが違う。あの二頭に手を叩いて活発に動くのよりも、陰湿で、どこか気の毒そうで、でも馬鹿にしているような仕草を。

私は、それが、厭だった。

他のことは、嫌ではなかった。赤ん坊の頃から一緒に育った彼と私しか居なかった世界に、知らない、新しい雌のゴリラが加わったことも、その雌と彼がさっそく番になって交尾しはじめたことも、正直、どうでもよかった。私はただ、壁の上から注がれる得体の知れない不快な澱が、我慢ならないほどに、厭だった。私は彼、あの雄のゴリラに、あたたかな愛着を抱いていた。けれど、私は彼に発情したことはなかった。

たぶん、それが原因だった。

私たちゴリラはここで、あの小さくて弱々しそうな繊細なつくりをした生き物によって生かされている。彼らは二種類に分類できた。壁のぐるりの内側、つまりこの小さな世界を整えたり、私たちに安定しておいしい果実や樹皮をくれる種類と、壁の上から私たちを観察して様々な反応を示す種類。

たぶん、前者のほうが、その雌のゴリラを連れてきた。はじめて彼女の顔を見た時から、その雌のゴリラは発情していた。不思議なことではなかった。ちょうどそういう時期だった。私と彼とその雌は、食事の八回分、それぞれに背を向けて食事をし、十二回分かけてその雌と触れ合うことに慣れ、そして二十回目の食事を済ませた後、陽が真上に昇っている時、その雌のゴリラは雄のゴリラの目を覗き込んで、腕をこすり合わせた。

それが、彼らの一回目の交尾だった。

私は発情しなかった。

生まれてこのかた、一度も発情したことがなかった。

それで困ったことは、なかった。


『交尾ができないと、壁の上から不快な何かが降ってくる。それは私の胸を突き刺して、そうすると私は、痛い』

その法則を学んでしまった時、私は心底うんざりした。ここから逃げたいと思った。そして逃げたいと思ってはじめて、この世界が、その外へは容易に出ていけないような造りになっていることに気付き、恐怖に慄いた。あの小さく細い生き物たちは、毎日食べ物をよこし、私たちの糞をどこかへ持っていく。どこへ?私は彼らの木の枝のようにか細い背を目で追った。彼らは私の視線には気づかなかった。雄のゴリラとは、これまで通りにじゃれ合ったり身を寄せ合ったりするし、雌のゴリラとも、同じようにした。私はこの二頭が好きだった。けれど、なにか、違和感が。どんどん、私だけが、この世界の輪から離れていっているような疎外感が、漠然とした恐怖が、増していくのだった。



限界は、明白に訪れた。

ある日ぱったりと、世界から色が消えたのだ。

目に映るバナナの黄色や、リンゴの赤、茂る緑。藁の榛色。全てがくすんでいるように覚えてから、私はうまく食事ができなくなった。味がせず、舌がだるい。与えられたバナナは足の指でこねて、ぶちゅ、ぶちゅ、と潰してしまうだけ。樹皮を歯でしごく気が起きなくて、与えられた太い枝をただ握りしめてひたすら壁に目を凝らしていた。すべてが面倒になり、無気力で腕さえ動かせなくなった。内側へ入ってくるほうの小さく細い生き物たちが、私を指しながら、私にはできないやり方で眼や唇を動かしていた。困っている、考えている。おそらく、そういう感じだった。

どこかへ、連れていかれるのだろうか。殺されるのかもしれない。いいや、彼らはきっと私を殺す気なのだ。だって、私は交尾をしないから。それはたぶん、いけないことなのだ。私は疑心暗鬼になっていた。ここから、なんとしてでも逃げ出さなくてはならない。ひらひらと動く小さく細い生き物の小さな手を睨みながら、私は決意した。殺されてなるものか。私は私の妄執に対して、宣戦布告していた。私はこの時既に、精神を病んでいた。


陽がすっかり沈んで、壁の上には何者も存在しない。

暗がり。色のない私の視界は、太陽が昇っていてもいなくても、ただ輪郭がわずかに霞むほどの変化しか感じられない。空虚と不安が、私の決意を強固に保っていた。

雄のゴリラは大木の上で眠り、雌のゴリラは藁の中で眠っていた。

私はその二頭を見遣り、ゆっくりと、まばたきをした。この世界から出てゆくというのは、この二頭にもう二度と会えないということでもあった。悲しかった。けれど、私はその悲しみを上回る不快感から、逃れずにはいられなかった。私はいつも、あの小さく細い生き物たちがそれぞれ別の方向へ歩き出す時にするジェスチャーを真似てみた。片手をあげて、手のひらを相手の背中に向けてしばらく向ける、あの奇妙な動作を。

狭い世界の底は、一番暗かった。

今、私だけが目をひらき、この世界の底から、てっぺん、あの岩まで一気に駆け上がり、そして思いっきり前の足で、それから後ろの足の指でその岩肌をぎゅっと掴み、そして、蹴り出す。


ひゅうっ


風の音の静けさで、私は、世界の外に降り立った。

一。二…、三歩。

足を、おずおずと前に進めて、それから、顔を上げた。

そうして、私は遠く、沈黙したままざわめく闇の中へ、駆け出した。

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