グッバイ・ベースボール

七つ味

第1話 山を舐めるな

 さて、何の話をしたものかと頭を掻く。対面に座る彼女は俺がどんな話をするのか期待した顔、というよりか、こちらを試すような挑戦的な笑みを浮かべている。気取ってみせても仕方がないので、たわいの無い、こんな話から始めよう。

「人生を山登りに例える教師はいい加減、滅びるべきだと思わないか?」


◇◇◇


 君が来るべき将来を待つ若人だとして、君には叶えたい夢があるか。成し遂げたい目標があるか。

 物心ついた時からそのためだけに全てを捧げ、来る日も来る日も頂上の見えない岩壁を登りつづけたことがあるか。微かな指先の感覚を頼りに、指紋がまっさらになるまで、それでもと。さらなる高みに杭を打つ。

 そして想像してほしい。

 いまだ辿り着かない頂を見つめたまま、全てを失って彷徨うことになったとしたら。きた道はすでになく、前方は轟々と流れ落ちる急転直下の滝である。

 その時、何を思うだろう。

 何ができると言うのだろう。

 俺はただ待っている。あのどろどろに溶けた日々に宿った熱が、冷え固まるその日を。

 

◇◇◇

「これから一年間よろしくお願いします」

 しんとした教室に椅子を引いた音が響くと、遅れて小さな拍手が伝播していった。俺の泳いだ目線は机の端の、誰かが暇つぶしにコンパスで掘った小さな窪みに収まった。

「じゃあ、自己紹介も済んだので」

 担任の教師は若い男で、親しみやすい温和な雰囲気を感じる。教壇に両手をついて少し大げさな笑顔を浮かべている。そうやってつつがかく朝のホームルームを進行している。

「人生は山登りに似ているよね。受験や部活動、将来の目標に向かって着実に一歩一歩進んでいくんだ。それが…」

 教室には、開放された窓から四月の肌寒い風と麗らかな日差しが舞い込んで、薄黄緑のカーテンを波打つようになびかせていく。昨夜はよく寝たはずなのに、新たな環境に放り出された不安と昼前の眠気が瞼を重くしていた。

「みんなはもう2年生になるわけだけど、今からでもうちの部活は新入部員を歓迎してるからね」

 そう言って、自分が野球部の顧問だということ、この伊音学園高校の野球部がアットホームで親しみやすい部活動だと数分語った後。

「今日は始業式と新入生のオリエンテーションだけだから。じゃあ明日からよろしくね」

 そう言って彼は少し長いHRを終えた。


「ねぇ、バドミントン部なんていいんじゃない?」

「うん、一緒に見学行こ」

 1年生の教室が並ぶ2階の渡り廊下、新入生であろう女子生徒の二人組が通り過ぎていく。

「俺もう、自分のバッシュ持ってきたぞ」

「マジ?やる気出しすぎっしょ」

 男子生徒の二人組が通り過ぎる。

「いやいやチャーライより時代はトリプルテイクですしおすし」

「ウイングマンこそ至高、それを今から証明して見せよう」

 流行りのゲームの話だろう。男子生徒が通り過ぎる。

「チニングなど邪道!!男はフカセ!!埼玉の高橋哲也とは俺のことよ」

「はいはいローテク好きなんだから」

 日焼けした男女が通り過ぎる。埼玉には海はないはずだが、水上公園ならもしかしたらもしかするかもしれない。

「九条はうちの制服にあわねえな」

 男子生徒が通り過ぎる。聞き覚えのある声だが、俺は足を止めることなく階段を下る。

「ナレーションでやり過ごすなよ」

 男子生徒がすかさずツッコミを入れてくる。どうやら彼はお笑い研究会の部員のようだ。

「お笑い研究会なんてない、いやどうだろ。ともかく。お前に話しかけてんの、俺は」

 その男子生徒はするりと俺の前へ出て階段の手すりに腰かけると、ブレザーの襟を緩めた。知り合いの成田誠司だった。

 俺は軽く挨拶して、その場を立ち去る。

「立ち去るなよ、会話の最中でしょうに。それとその変なナレーションもやめてくれ」

「お前のことだから、2年生から編入した俺を気遣って話しかけてくれたんだろ。気持ちだけもらっておくよ。帰って『相棒』の再放送みないといけないんだ。じゃあな」

「全部言っちゃったよ…。まあ、元気そうで良かったけど」

 話が終わると、二人は並んで廊下を歩き出した。

「ついてくるなよ」

「あいにく暇だからね。それに編入したてのお前は、この先がどうなってるか知らないだろ?」

 成田はニヤリと口角を上げる。

「どうって、玄関のロービーがあるだけだろ」

 まだ見慣れない校舎ではあるけれど、どこの学校の校舎も似たり寄ったりなので、別に不都合はない。だから1階の中央ロビーにあるであろう玄関から校舎を出るつもりだった。

「聞いてないのか?『新歓日』なんだよ今日。だからロビーは『少しだけ』混雑してる」

 新歓というのは、大学なんかで部活やサークルの勧誘のために行われるイベントのはずだ。

ああ、部活勧誘をしてる上級生と話を聞く新入生で混み合ってるってことか。こいつの言う『少しだけ』が、どの程度かは分からないが、できればすんなりと帰りたい。

「この伊音学園高等部は1学年に約500名、計1500名近い生徒数を誇る県内有数のマンモス校である。」との記述が入学時の案内の書類にあったことを思い出した。近年、少子化の煽りをうけて生徒数の多かった第二次ベビーブーム時の三分の一にまで定員が減らされたとも。それでもなお、1500名というのは少子高齢化が取り沙汰されるこの国では目を見張る数だ。やだやだ、もっと減らないかな人間。そう考えると、この先の混雑は少し厄介そうである。それが顔に出ていたようで、成田がしたり顔で助言してくる。

「そういうこと。まあ、北側の非常口から出て、外から玄関に回り込めばいいだけの話なんだけどな」

 それもそうだと納得して、俺たちは階段を下って行く。ちょうど1階に降りたとき、廊下の向こうでは、流れる新入生の列とそれを引き留めようとする上級生の束で人混みができているのが見えた。

「噂をすればだな」

 成田はこの類のイベントに目がないため、浮き足立っているのが横目でも分かる。

「言っとくが、俺は付き合わないからな」

「うん?何に?」

「お前も何かしら部活をやってるんだろう?そんで新入生の勧誘なんておあつらえ向きじゃないか」

 すると戸田は少し怒った表情をする。

「あのなぁ、たしかに俺はこういう類のイベントには目がないさ。でもな、友達を嫌々巻き込むなんてのは趣味が悪いよ。だから今日のところはお預けだな。それにやることもあるし」

 戸田はやれやれと言った感じで、俺の肩を抱き、その群衆を横目に通り過ぎていく。珍しいとは思うが、こいつにはこいつなりの気遣いはあるのだろう。ただ、暇だというのは俺の聞き間違いだったのだろうか。

 しばらくして非常口が見えてくる。緑の蛍光灯が薄暗い廊下を照らしていて、そのそこでは2人の生徒が立ち話をしている。のっぽとチビ。

「おっす、連れてきましたよ」

 成田がその中の1人、背の高い、ついでに面の整った爽やかくんに挨拶する。

「まずは編入おめでとうだね」

 そのイケメンは優しげな口調で俺の肩を叩く。

「はぁ、どうも」

「いやぁ、こいつそれなりに頭はいいんで、心配することなかったですよ。嬉野先輩」

 どうやら成田の知り合いらしい。制服の首元の学年章を見るに、3年生のようだ。

「成田は入らないんだな」

 もう1人の男、こちらは仏頂面で背の低い、強いて言うなら性格の悪さがその顔から滲み出ているような。彼も3年生のようだ。

「黒川先輩も久しぶりです。すみませんが僕は気ままにやらせてもらいます。すでに3つほど兼部させてもらってますし。落研にクイズ部に…」

「用があるなら、先帰るぞ」

 これは蚊帳の外だなと居心地悪くなり、通り過ぎようとする。友達が先輩と仲良さげにしてる時ってどうふるまっていいのか分かんないよね。

「まあまあ」

 そう言って襟の後ろを掴んだのは、さっきのイケメン先輩だ。

「なんですか?」

 何か用ですかと、むしろ何も用はないですねと言外に伝わるよう、出来るだけ嫌な顔をして答える。用がないならすぐ帰宅、それが俺のセブンルール…。

「そんな顔しても僕は気にしないよ」

 残念なことに、そう笑顔で言われてしまった。先輩の御歴々はうらまないのが学校のルール…。飛んでいってくんねぇかなイスタンブールあたりに。

「九条だろ?話は聞いてるぞ」

 もう1人のしかめっ面先輩が話しかけてくる。『話は聞いてるぞ』の後に続く言葉なんて、俺の場合は一つしかない。

「野球は続けないのか?」

 ほらね、きたよ。こいつら俺のこと野球選手か何かだと思ってるのか?俺はただの高校生。少し野球が上手かっただけの。

「ええ、しませんよ」

 この台詞は何度目か、口にするのは何度目だろうと面倒くさい。

 本当に面倒くさい。

 俺が野球をしなくなったら、あんたらはなにか困るんだろうか。これが嫌だから地元を離れて、こんな辺境の、私立高校に来たって言うのに。

「そうか、そりゃあ残念だったな」

 俺はそのあっけらかんとした言葉に驚いてしまう。なんなのこいつ。

「はぁ」

 そのせいで俺は間の抜けた声で返事してしまう。

「ところでお前、何かやりたいことあるのか?」

「やりたいことですか?」

 とりあえず今日は、帰ってから相棒の再放送をみるつもりだが、この人が聞いてるのはそういうことじゃないんだろうなぁ。『がっこうせいかつでがんばりたいことは』という書き出しから始める作文は昔から苦手である。

「そうだよ、やりたいこと。大して長くもないこの高校生活を捧げて後悔しない、そういうなにか」

「先輩ってなんか『くさい』ですね」

「そりゃどうも。それであるのか?」

 あったんだけどね。今はないかな。

「まぁ、その、ないですけど」

 俺がおずおずとそう答えると、先輩は嬉しそうな顔をする。

「そうか、そうか。嬉野、俺はこいつに決めたぞ」

 嬉野、この横に立ってる爽やかノッポ先輩のことだろう。あと、なにかが俺に決まったらしい。やったね!!たえちゃん…。本人に無断で決まることといえば、ロクでもないことが多い。唯一の成功例は身内が勝手に送ったジャニーズの書類審査だが、今となっては…。

「うん、それがいいね。じゃあさっさと部室で打ち合わせしてほしいんだけど」

 嬉野先輩は腕時計に目をやり、時間を気にしながら答える。

「わかった。よし、九条ついてこい」

 先輩がしっかりと俺の肩に手を回し、睡眠が足りてなさそうな虚な目で、俺の顔を覗き込んでくる。

「いいよなぁ、少しくらい付き合ってくれるよなぁ」

 そう言って、仄暗い笑みを浮かべている。

 よくない。これはよくない。多分俺は、なにか良からぬことに巻き込まれている!

「おい、成田。お前の差し金だろう。俺を騙したのか」

 俺は振り返り、戸田を睨む。今まさに、不気味な上級生に哀れにも連れ去られようとしている。そんな俺の姿を見た十年来の友人は。

「代わりに相棒の再放送? 見ておいてやるから、安心しろ」

 さすが俺のともだちだな。

 

◇◇◇


 どうも、俺は高校2年の九条、名は御月みつき。入学早々怖ーい先輩に捕まってしまい、強引に連れ去られてしまった僕がまさかのハーレム状態!?今日は自宅で簡単にでき、人生大逆転の必勝法をお教えします。大宮駅周辺にお住いのあなた!そう、あなたです!  

 スマホの画面にウザい広告が流れ出し、右上の小さな×印を人差し指で丁寧にタッチして消し去った頃、目的地の部室の前に着く。

 長かった…。いや、本当に。

 繰り返すが学校の敷地内とはいえ、ここ伊音学園高校は全国でも屈指のマンモス校で、1500人の生徒と、5種類の専門コース。膨大な生徒を迎え入れるために旧西武球場4つ分の敷地を有している。その広大な敷地に各種グラウンド、スポーツ推薦の学生のための寮や、芸術コースの生徒のための専門施設、文化部の部室棟などがひしめき合っているという噂が、まことしやかに囁かれてはいない。噂ではなく事実だからだ。

 そんな埼玉の九龍城砦と呼ばれたり、呼ばれなかったりするこの伊音高である。敷地の北側にある校舎からこの最果ての部室棟に来るまで、実に10分もの時間がかかっていた。そのせいか先輩たちとも打ち解けてしまい、歩きながらちょっとした小咄を披露するくらいには仲良くなってしまった。

「けっきょく渋谷駅で山手線から埼京線に乗り換えるぐらいの距離を歩きましたね」

「今は改修して山手線と埼京線が横並びになってるけどな」

「へー、工事終わったんですか。前は乗り換えるのに、スプラッシュ・マウンテンくらい並んでましたもんね」

 などと埼玉県民らしい談義(ディズニーランドは県民の日に限り埼玉県の所有地である)に花を咲かせつつ、部室の前に立つ。

「お笑い研究会ですか…」

 ステンレスの扉の中央、曇りガラスにコピー用紙が貼られ、お笑い研究会と書かれている。あるのかよお笑い研究会…。これだと向上委員会の方もありそうやな。ファーwwww。

「俺はお笑いとかはわかんないので、帰らせてもらいます」

 お笑い研究会なんてものがある部活の盛んさにはあきれる。俺は漫才師でも、ましてや板の上の魔物でもないため遠慮させてもらおう。

「まてまて。今はこの部室を借りてるだけだ」

「とりあえず入りなよ。話だけでもさ」

 なし崩しに中へと入れられる。押されると弱いのよね。俺みたいなやつがデニーズでマルチ勧誘をされてるんだろうなぁと思ってしまう。○ム○ェイの製品を勧められる覚悟でその扉を開いた。

「素敵な部室でございますね」

 いたって普通の部屋だ。パイプ椅子が四つと長机が中央にある。机の上には、書類を挟んだファイルがいくつか無造作に置かれている。周りを見回すと、壁には島田秀平のサインが飾ってあった。島田秀平のサインも、それを額に入れている人も初めて見た。本当になんの部活なんだ。

「ちょっと押さないでくださいよ」

「さぁさぁそこに座って」

 パイプ椅子の前へと促され、座ってしまう。

「お茶でいいよね、一応ミロならあるけど」

「いや、お構いなく」

 部屋の隅に小型の冷蔵庫が置かれているのは、3月まで校則の厳しい学校に通っていた身からすれば、少し高揚するものではあったが一応断っておく。

 それはそれとして、この二人のどちらかはいまだにミロを飲んでいるのだろうか。身長から見れば嬉野とかいう先輩。それか低いからこそ黒川先輩。いや、両方もありえるのか。難問だな。あほくさ。

 それにしても、あまり気を利かせられると、あれよあれよで帰りずらくなりそうだ。

「そこの煎餅食べていいぞ」

 机の上にはお茶請けが置いてあり、いくつかの見知ったお菓子が並んでいる。

「草加せんべいを埼玉県民がお茶菓子にしてるの初めて見ました」

「結構いけるぞ」

「僕は七味がすきなんだよね」

 七味なんてあるのかと少し感心したのを悟られないように話を本筋に戻す。

「それで結局、なんの部活に勧誘しているんですか?部活勧誘ですよね」

 長い、沈黙。

「いや、ちょっと黙らないでくださいよ。そもそもなんで俺なんかを無理やり連れてきたんですか?」

「まぁ、そうだな。お前も急に連れてこられて困っただろう」

「それは、もうこの際いいですけど」

「実は事情があってね…」

「なんですか?」

 事情、仮にこれが漫画の一話目だとすると、人数の足りない部活。あとは問題を起こして自粛中の部活とか。そんな感じかなとぼんやり想像する。

「事情があってな…」

「事情とは?」

 長い…、沈黙。

「いや、なんとか言ってくださいよ!」

 勢いよく立ち上がる。

 なにがどうしてこうなったのか。

「いい加減にしてくださいよ。どんな展開ですかこれ!無理やり部室に拉致されて、『入部しろ』なら分かりますよ!でも!なんの部活かも分からない!」

 俺は息を吸う。

「しまいにはみんなで黙る」

 俺は自分が興奮しているのを自覚しながら、抑えきれないこの感情を声に乗せて捲し立てる。

「もうここまできたら、入部書類に名前書かせろよ!なんでちょっと遠慮してんだよ」

「いや、なんか今になって無理やり連れてきたのはよくなかったかと思ってな」

「どこで後悔してんですか」

「それによく考えたら、入部の申請は明後日からなんだよね」

「そんなもん、無理やり書かせて奪えばいいでしょ」

「よくないよ。それは」

「誰が言ってんだ!」

 大きな声を出したことに、少し恥ずかしさを感じて椅子に座る。なにを一人で熱くなってんだ俺は。「まだ慌てるような時間じゃない」と心の中の、なんかの漫画の刈り上げのひとが首を振っている。

「それで、なんの部活なんですか?」

 俺は改めて、2人にそう尋ねた。

「それはな」

 黒川先輩が勿体ぶるように一息入れる。


「お疲れ様です」

 ステンレスの安っぽいドアが擦れて、甲高い音を上げながら開いた。外の爽やかな風と共に入ってきたのは、小柄な少女である。稲高の制服を着てるから高校生なのだろうが、その背の低さと童顔で中学生と見間違えられても仕方のない風貌だ。

 睨むような釣り目と固く結ばれた薄い唇。そのせいか、野暮ったさはないのに『ガキ』という失礼この上ない言葉が浮かんだ。

「入部希望?」

 彼女は絶賛監禁中である部外者の俺を訝しげな目で見てくる。

「いや、そうじゃないけど」

「そう」

 伊音高の女子の制服はブレザーで、胸の学年章の色で何年生かが区別できる。驚いたことに彼女は同級生のようだ。

「黒川先輩いい加減、枠を抑えてください」

 彼女はリュックを机に置くと、不機嫌そうに俺の向かいの席に座った。俺の上がり切ったボルテージは、彼女の出現で一気に下降していく。別に男子同士で騒いでいる時に、女子が近くを通ると我に返ってしまって恥ずかしくなったみたいなトラウマがあるわけではない。断じて。

 それにしても。彼女の外見は一見、幼く無害そうに見えるが、黒髪のウルフレイヤー、不自然に白いファンデーション、涙袋にラメ、頬に薄桃色のチーク、リュックにぶら下がるサブカル的マスコットキャラクターのぬいぐるみ。そしてこの謎の部活の部員であることを加味すると、彼女はサブカルケイ・メンヘラビッチであると考えられる。必殺技はブロン・オーバードーズ。現Xこと旧Twitterでは深夜、#病み垢で自撮りをアップしている類の人種だ。やだやだ、自己承認欲求の塊じゃないの。

 そんな想像を繰り広げていると、例のあの人、というかその少女から声をかけられる。

「私は赤井林檎だ。よろしくな」

「はぁ、どうも九条御月です」

 意外にも友好的なようで安心し、握手を要求されるのでそれに応じる。

 握力半端ねぇ。ルロイ修道士かよ。あと顔が近い…。なんか距離感がバグってるなこの人。めっちゃいい匂いがしてこうふんしました。これがドルチェ&ガッバーナか…。

「赤井、実はな、こいつを入部させたいと考えているんだ」

 黒川先輩が、握手のすんだ彼女に話しかける。なにを驚いたのか、切れ長の目を丸くした後、ぷんすか怒りながら先輩たちに詰めよった。

「私にこいつとコンビを組めってことですか?」

「そういうことらしいよ」

 嬉野先輩がニコニコしながら答える。

 じろり、と俺に不快な目線が突き刺さる。

「言っときますけど嫌ですから、こんなやれやれ系なろう主人公となんて」

「だれが教室の端でラノベ読んでそうだって?」

「さわんな、童貞がうつる」

「ど、童貞じゃないし」

 俺は童貞ではないし、もしそうだとしても童貞はうつらない。まぁ一応、距離を取るけどね。一瞬、普通に手をあげそうになったが、良心とかではなく、社会性の観点から押し黙るしかない。まったくとんだ聖人だな。フランスの大聖堂だかのスタンドグラスに描かれた俺が信徒たちに崇められている画が見えた。人をラベリングするのは良くない。道徳未履修かこいつ。次に会うまでにこころのノートを熟読してきてほしい。

 いや、もちろん、次はないことを祈るが。

 それよりもさっきの先輩の言葉は聞き流せない。コンビ?だとかなんとか。

 一瞬のうちに頭の中にさまざまなコンビが湧き上がった。松本と浜田、杉下右京と亀山くん、布袋寅泰と吉川晃司、おすぎとピーコ、ダフトパンクの金色の方と銀色の方、挙げればきりがない。ともかく面倒なことに巻き込まれてたまるかの精神で、はっきりとNOと言っておく。

「なんの話か分かんないですけど、俺は断りますよ。分かりますか?お断りです」

「ほら、このモブもそう言ってるじゃないですか。もっとまともな奴を探してください」

「誰がモブだよ」

「はいはい、お前はお前の人生の主人公さ。ほらよ、これやるから帰りな」

 赤井林檎 a.k.a クソアマがポッケから使い捨てのマスクを投げつけてくる。俺はそれを流れるようなバックトスでゴミ箱に捨てる。

「言わせてもらいますけど、先輩たちよくこんなやつと一緒に部活動してますね」

「おい、せっかくのチャンスだぞ。1番近い便所は隣の体育棟だ」

「最低ですねこいつ」

 そんなセリフを彼女が吐いた時、次なる訪問者が現れた。

「おい、お前ら」

 そこの立っていたのは、年配の男性。スラックスにワイシャツのどうみても教職員である。あと、取り立てて言うことではないかもしれないが頭髪が薄い。

 最近はAGA治療とやらで随分進歩したと聞くがこれが現状か。どうにか20年後には。

 急な教師の来訪で、彼らにも少しの緊張感が走ったのを感じる。よそよそしい。なんというか、棚からエコバッグに商品を隠す主婦のような。それじゃあ百戦錬磨のGメンは欺けませんよ。はい確保。

「物理の岩田だ」

 赤井がつぶやく。先輩方も顔馴染みのようだ。

「岩田先生どうかされましたか?」

 DV先輩がすかさず物腰柔らかく対応する。命名の理由としてはこの歳ですでに大人相手に非常に温厚な態度を示せるあたり、信用がならない。信用ならざる高身長イケメン、これ須く女殴也。

「どうもこうも、お前ら勝手に部室を使ってんじゃねぇ。お笑い研究会?とかいう団体から苦情が来てんだよ」


◇◇◇


「というわけなんだが」

 俺は昨日の放課後に起きた出来事を、購買で買ったクルミパンをちぎりながら成田に話していた。それを聞いた友人はしたり顔で返事をする。

「先輩にお前を紹介してよかったよ」

 いかれてんのかこいつ。

 3組の教室は昼食を食べる生徒たちの喧騒に包まれている。教卓の上に備え付けられたスピーカーからは、『ワンダーフォーゲル部』という団体が新入生へ、羆の恐ろしさを伝えようとする声が流れ出ていた。

 立派だがそれ、部活勧誘に関して言えば悪影響じゃないだろうか。

 おれは横の席で二段重ねの豪勢な弁当を食べる成田を睨みつけるが、飄々とした様子で取り合おうとしない。こいつは普通科特進コースである5組の生徒なので教室は隣の校舎なのだが、編入したての俺を心配してか、わざわざ教室にまでやってきて空いた隣の席で弁当を食べている。余計なお世話だとは言えない。現にこいつの心配した通り、俺はすでに出来上がっていたクラスの輪に馴染めず孤立していた。

 それにしても転校生だよ?少しくらい話しかけてくださっても、ねえ。やはり最初の自己紹介でインパクトを残せなかったばっかりに。

「ちなみにその後は4人で職員室に呼ばれたよ」

 俺は食べ終わったパンの包装を四つ折りにしながらその後の経緯を説明する。成田は聞き役に徹しているのか、相槌をうつのみで、結局5分もすればあらかた話し終えることができた。

「岩田先生ってのは、あのゴツくてハゲの?」

「そうだな、それに2年の学年顧問だとか」

「高校生活始まって早々に面倒な先生に目をつけられたな」

「それよりもあいつらなんなんだよ。結局何の部活かさえ最後まで教えてもらえなかったし。それに、あのチビ。ああいう『私、思ったことズバズバ言っちゃいますよ?』ってタイプは嫌いなんだ」

 思い出すとムカつくので、できるだけ思い出さないようにしていたが、顔立ちや見栄えが無駄にいいぶん直ぐに顔が浮かんだ。俺は人の気持ちを思いやれない、品性のない人種は嫌いだし、みんなもそうだといいなぁ。

「ああ、赤井にも会ったんだな。面白いよなあいつ」

「面白くない。それよか、なし崩し的にあいつらの仲間に入れられてないよな。別れ際に、『また明日』ってDV先輩に言われたんだけど」

「DV先輩?」

「あ、いや。嬉野って人」

「確かに、うれぴー先輩は腹黒イケメンって感じだな」

「というか、お前はなんであの人たちと知り合いなんだ?」

「説明しようとすると長くなるんだが…」

「じゃあいい」

 俺が食い気味で返答すると、成田は不満そうにぴしゃりと箸をおく。

「俺に興味なさすぎか」

「別に今更。正直まったく惹かれない話だ」

「でもあの三人は、別々の意味で有名人だから。お前もいずれわかるよ」

 なんだその界隈では名の通っている方々みたいな。その大概は厄介者だし、界隈という言葉自体がそもそも胡散臭い。

「それであいつらってなんの部活なんだ?」

「は?『放送部』だろ。それも聞いてないのか?」

「いや、もったいぶって言わないから、それよか『放送部』って、マ?」

「そうだよ、確か全国規模のコンクールで金賞とってたし、うちの文化部の中じゃあ立派な部類かもね」

「立派じゃない部活が存在しているのも問題だと思うが、それにしては部室もないし。なんかきな臭い感じだったけどな」

「本当なら部室棟Aの3階にあるはずだけど、またマヨセンとなんかあったのかな…」

「あの」

 後ろから声をかけられる。ただでさえ声をかけられづらいので、驚いた猫のように背筋が跳ねる。

「おお、びっくりした。えっと、ごめん誰だっけ?」

「長洲です」

 そう名乗ったのは見知らぬ女の子。というかこの学校に俺の見知った顔なんて、この成田を除けばいないわけなので当たり前の話だが(昨日の奴らは除く)、すらりとした長身に飾り気のない顔、立ち振る舞いは知性的な感じがする。やだ~、なかなかしっかりした娘じゃない。と心の二丁目ママが出てくるくらいに品のある女生徒だった。

「えっと、俺は」

「九条君だよね。知ってる」

 編入したての俺の名前を憶えてくれているとは、なんて素敵な子なんだ。

「隣の席だから」

「お前さあ…」

 成田が若干引いていた。仕方ないだろ。うちの学校はコースごとに個人で授業登録をして教室を移動するため、HRと昼食の時ぐらいしかクラスメートと顔を合わせる機会はない。HR中はその日の課題や何やらを済ませたりと忙しいんだ。

 家でやって来いって?そんな正論言わないでよ。ほんとデリカシーの無い人ってキライ。

 実際のところは編入したものの、以前通っていた高校の授業の進行度合いと伊音学ここのものとには大きな差があるため、その穴埋めに手こずっているのだ。

 俺が編入したのは人文コースと呼ばれる、文系科目を中心とした学習プログラムのため、すでに生徒たちは進級時に古文漢文の基礎をあらかた修了しており、俺は随分と後方に遅れてしまっている。

 そのため、空いた時間を見つけてコツコツ自習を行っていた。なんだ、すごく勤勉な生徒じゃないか。

「授業は教室違うからまだあんまりクラスの奴と顔合わせる機会もないし…」

「古典は後ろの席だし、日本史も同じ教室だけどね」

「お前…」

 それは俺も引くわ。えっ、俺の視野狭すぎない?ほとんど何も見えてないじゃん。その代わりに他の五感が超進化してないとおかしい。味覚か?確かに何を食べても大概美味いと感じるが。うん、それは退化だな。

「それで、長洲さんはなんか用があったんじゃないの?」

 みかねた成田が尋ねる。どうも風向きが悪い。これ以上失態を晒す前にここを乗り切らせておくれ。

「九条君まだ課外実習の希望出していないでしょ?編入したてだから分からないこともあるかと思って」

「ああ、え?なんだっけそれ」

 見かねすぎてもはや半笑いの成田が助け舟を出してくれる。

「大層な名前だけど、要は社会見学だよ。ただ、うちの学校は生徒数が多いから三カ所に別れて行くんだ。HRで希望票もらっただろ?」

 そういえばと机を探ると、『課外学習の希望調査票』と銘打たれたプリントが出てきた。

 選択肢は、行田にある浄水場、浦和の有名お菓子メーカーの工場、所沢のドーム球場の三つだ。

 嘘だろ?こんなの…。

「票が偏ったりしないのか?」

「だから一週間前に希望とるんだろ」

 なるほど人数を調節する前提で行われているわけか。不満とかでないのかな…。いや、浄水場も興味深いと思うよ。水なんてのは生活するうえでもっとも重要なインフラなわけだし。これからは水の取り合いで戦争が起きると池上彰も言っていた気がする。

 俺は浦和のお菓子工場に丸を付けた。

「あ、俺と同じだな」

 成田がはにかむ。

「お前工場行ったら赤のボンテージ着て踊ってそうだもんな」

「どこのウンパルンパだよ。べつに作ってるのチョコレートだけでもないし」

「九条君、そっちにするんだ」

 長洲が少し不思議そうな顔をする。

「なに?俺には浄水場の方がお似合いってか?」

「あ、ごめん。そういうわけじゃないけど」

 しまった。編入して数日間、こいつとのコミュニケーションばかり繰り返していたせいで、ずいぶんとつっけんどんな返答をしてしまった。しかし彼女はさして気にも留めた様子はなく、話を続ける。

「それ職員室の前に出しに行かないといけないんだけど、職員室の場所は分かる?」

「おい成田」

「5限は体育だから、そろそろ着替えないと」

「わから…、る」

「分かんないんだな」

「何で嘘つくの?」

 なんだこいつって目で見られた。いや、その、自意識過剰でしたね。

「教えてもらえると助かります」

「最初からそう言えばいいのに。私も提出しに行くからついてくれば?」

「はい」

 なんで敬語になってるんだろうな。昔からパリッとした美人に弱いので、あっという間に小さくなって教室を出る俺を、成田は面白いものを見たという顔で見送る。

「相変わらず、面白やつだよおまえ」



◇◇◇


 俺は手に持った鞄を探って、プリントを出す。

「ここでいいんだよな」

 目の前に置かれた学生机には、アクリルのケースが乗っかっていて、その中にはA4のプリントが束になって入っていた。先に長洲さんがそうしたようにそのへ投函する。

「うん。そうしたら、そこの『提出カード』にチェックして」

 付き添いの長洲さんが教えてくれるのまま机の横を見る。そこには厚紙の端を紐で閉じたものがぶら下がっている。開いてみると2年生の生徒の名前が並んでいて、その隣にいくつかの空欄がある。俺は自分のクラスを見つけ、九条御月の空欄を控えめなチェックマークで埋めておいた。

「私のもお願い」

 彼女に頼まれて、目線を下にずらす。さ、た、なと。長洲藍というらしい。覚えておこう。いや、他意はないんですよ。と自分に言い訳する。

「長洲さんは、長洲でいいか?」

「うん、なら私は御月って呼ぶね」

「はは、やめてくれ。親みてぇだし」

「そうかな?じゃあ御月くん」

「そうしてくれ。それで長洲はどっちにしたんだ?社会見学」

 俺は、提出カードを閉じて元の場所に戻す。

「私もお菓子工場。友達もそっち行くから。同じクラスの子」

 そう言って彼女は窓際から中庭を眺めている。

 友達ねえ。これはクラスメートと仲良くなるチャンスかもしれない。この高校に編入して初めての学校行事、これを利用しない手はない。

「なあ」と長洲に声をかけるが無視される。あの、ちょっと傷つきそうなんですけど…。「あの」と再び声をかける、いやお声をかけさせていただくと、「あっ、ごめん」とこちらに向き直った。「どうしたの?」と訊かれたので、その友達が許すなら社会見学を一緒に回らないかと誘う。

「ええ~、どうしよっかな」

 彼女はこちらに分かるように冗談っぽく笑うので、こちらも「そこをどうか、友達がいないものでして」とわざとらしくへりくだってそのノリに合わせる。

「成田君がいるんじゃないの?」

「あいつはな、こういう時は必ず貧乏くじを引くんだ。あいつは浄水場行きだ」

「そっかぁ、なら、成田君が残念な事になってしまった時は一緒に回ろうか」

「かたじけない」

「かまわんよ」

「長洲って意外とノリのいいひとなのか?」

「逆にどう思ってたのよ」

 おれたちは目的を果たし、午後の授業へと向かう。去り際、俺は長洲の見ていた中庭をちらりと見た。校舎と自転車置き場の間で人影が動いた。しかし、すぐにその影は建物の裏へと消える。見覚えのある小柄な後姿が見えた気がした。寒気がする。不吉だ。

 クワハラ、クワハラっと。俺はハマスタに一礼した。


◇◇◇

 

 桑原将志の加護は、ここ埼玉の辺境にあってはその効力を発揮しないようであったと、俺はそう後世へと残したい。現に俺は校門でスクラムを組んでいたラインマンたちに担がれながら、彼らの部室へと連行されているのだから。

 なんでやねん。

 似非関西弁で突っ込むがそれを咎める関西人も、聞きとめるものさえいない。下で俺を持ち上げる彼らはというと「えっさほいさ」と掛け声を発しながら、一心不乱に俺を家路とは反対方向へ担いでいく。

 事件は放課後に起こった。本当なら今頃は学校の最寄駅で空いた夕方の電車に乗っていた、はずだったのだ。校門にたむろした男衆に押し倒され、縄跳びで縛り上げられ、えっさほいさと運ばれるなんてことは人生で一度であっても起こり得てはいけない。

 夕陽が西の空を茜色に染めているのが見えた。鳥たちが群になって滑るようにその色彩の中を飛んでいる。

 『ちなみに「えっさほいさ」の語源はヘブライ語で・・・』脳内杉下右京が紅茶を高い位置から注ぎながら雑学を教えてくれる。今知りたいのは縄で拘束された時の脱出方法なんです。あの、聞いてらっしゃいますか?それと時々、アメフトのヘルメットが腰に当たって痛いんです。

「こんなんで赤井が大人しく捕まるとは思えないっすけど」

 おれを担ぎ上げているうちの一人、のっぽでこの中では比較的細身の男がつぶやく。先ほどから、あだ名であろうか、モンブランと呼ばれている。

「モンブラン。いいから運べ、また坂東さんにどやされんぞ」

 刈り上げたツーブロックの男がいう。こちらはくら寿司と呼ばれている。

「こいつがいれば先輩の怒りの矛先こっち向かんだろうが」

 聞きたくない話を聞いてしまった。

「あの、つかぬ事をお聞きしますが、なぜ俺は拘束されて運搬されているんでしょうか?」

「ああ?だから赤井たちを捕まえんだよ。あのアホは逃げ足速いから、人質作戦だ。これがインテリジェンスってもんよ」

 俺の疑問に対し、背の低い、その代わり筋骨隆々とした男が答えてくれる。先ほどからスーツ呼ばれている男だ。さっきからあだ名が特殊過ぎないか?

 それよりもこの人間だんじり祭りには知性の欠片も見当たらないだろ。その証拠にすれ違う生徒はみな驚いた表情を見せた後、電車内で虚空に怒鳴る異常者を見たときのようなあからさまな無視をし、下を向いて去っていく。

 屈辱だ。

「なんか勘違いされてるみたいですけど、俺はあの女と関係ないですから」

「しらを切ろうってのか、だがな、こっちも証拠があって、ちょっと、お前意外と重いな。よし、せーので一旦下そう」 

「せ「せーの」」

「ちょ、ま。頭側からじゃねえだろ、普通」

 あわやコンクリにヘッドバットを決めるところだった。幸い縛られているのは両足だけだったのでブリッジの状態から体を起こす。

「お前もう歩け」

 覚えとけよこいつら。そう思いながらも体格のいい男たちに両脇を掴まれると仕方なしにも従うほかない。俺は足に絡まる縄を解き、彼らに従う。まるで護送される犯人のようで、これはこれで居心地が悪い。四月の爽やかな風が吹くと汗とバンテリンの匂いがする。

 そうやって恥をスギ花粉みたくまき散らしながら彼らの部室へとたどり着いた。恥の多い人生を送ってきました。いろんなことに失格しそうです。

 そこは先日訪れた部室棟の南向かいだった。各種グラウンドに隣接する場所に建つ二階建ての部室棟は何十年も昔に建てられたのだろう。元々は白かったであろう壁は灰色に濁り、ところどころ亀裂が走っていて味のある外観だ。渡部淳史がいればその建築の蘊蓄でも語れたかもしれない。

1階の向かって右端から三番目、扉の前に立たされる。アメリカンフットボール部と印刷された紙が貼られている。でしょうね。

「坂東先輩、連れてきましたっす!!」

 まとめ役らしい雰囲気を出すスーツが、体育会系特有の野太い声と乱暴な敬語で叫ぶと、扉がゆっくりと開き俺は部室に放り入れられる。そして暗がりから、このゴロツキどもの親玉がのそりのそりと出てくる。運動部特有の饐えた匂いや、山積みになったスポーツドリンクの粉末、なぜか視線の端に見える神棚などには一切注意がいかないくらいに、その男の姿は衝撃的だった。

 そのそびえたつ巨体はハルク。もちろん俳優のエリック・バナではなく変身した後の緑色の方。いや、エリックも脱いだら結構すごいかもしれないけど、とにかく超人と呼べる分厚い体(なぜか半裸)の上に四角い顔がのっていてヤバイ。画風がアメコミだった。そして何よりその四角い顔は悪鬼羅刹のごとく怒り狂った表情が浮かびあがって、まさしく般若。うれしくない和洋折衷、日米危険保障条約。170後半の俺でさえ子供に見える。もし彼の身長が巻末に載せられる際は、単位がフィートになっていることだろう。

 そんな巨人がゆっくりと口を開いた。

「九条、うぬは」

 人称名詞がおかしい。どこぞやの拳王でしか聞いたことのないセリフだ。

「うぬはラジオ部で違いないな?」

「ち、違いますよ」

「ぬん、われが聞いた話とは違っているようだな。うぬかわれ、間違っているのはどちらだろうな」

 怖え。強い言葉で問い詰めてこない。話をきちんと聞いてから怒るスタンスなのがさらに怖い。それって四十超えた大人がする戦法だろうが。

「い、いえ戸田が言うにはこいつもラジオ部だと」

 ああ、さらば友よ。生きて帰ったらあのにやけ面にコークスクリューを叩き込んでやろう。

「た、確かにあいつらに勧誘されはしました。けど、断りましたし、赤井とも別に面識があるわけじゃないですから」

 危険生物を前に少々言い訳くさくなってしまったが、嘘は言っていない。

「そうか残念だ。ここに確固たる証拠がある」

 そういって坂東は一枚のプリントをおれの前に突き出した。そこには放送部という名前と校内放送のタイムスケジュールが記載されていた。

「これは?」

 坂東と呼ばれる男は指先で印刷されたゴシック体の文字を指でなぞる。そこにはアメリカンフットボール部という団体が翌日4月11日の16時半から16時45分までの15分間、勧誘を目的とした校内放送を行うといった趣旨の文言が並んでいる。

そしてあろうことか、その上から二重の線が引かれ、ラジオ部という聞き馴染みのない団体の名前が載っている。その裏面には各団体の出演者の名前が並ぶ。九条御月。どこかで聞いた名前だ。不思議と十数年連れ添った心地よさがある。ラジオ部なる部活にも得心がいってしまった。

「毎年、この数日間はどこの部活も放送部と連携して勧誘の放送流してんだよ。それが今年は部活数増でタイムスケジュールがキツキツ、そんで俺らは放送部に頼み込んでどうにか枠をもらったわけ。それがどうしたわけか」

「あっ、もうわかったんで」

 スーツが懇切丁寧に説明してくれるが、その先は察しがついた。

「つまりあんたらは放送の枠を奪われた腹いせに俺を捕まえてきたってことですよね」

「ちがう!おれたちは被害者だ!どうせまたあの問題児が不当な取引で枠を奪ったんだ!どうにかして奴らから放送枠を奪え返さなくては。坂東先輩がこの日のためにどれだけ準備してきたか分かるか。坂東さんはアメフトの楽しさを皆に知ってほしい一身で原稿用紙100枚分のスピーチを書いてきたんだぞ!」

 いや15分の枠で収まんないだろとは言えない。だってそんなこと言ったら殺されちゃうからね。

「その演説を聞けばお前も涙腺を熱くするだろう。俺たちは坂東先輩のために必ずや放送枠を奪還するのだ!」

 周りを取り囲む部員たちはみな、うんうんと鳩みたいに頭を縦に振っている。運動部独特の結束力というにはどこか支配的な様相で、なるほどこいつらもこの坂東という先輩が怖くてたまらないのだろう。そして先輩のメンツを傷つけぬよう、こんな暴挙にでたに違いない。

 しかし、見当違いも甚だしい。俺は奴らの仲間でも何でもない。そう伝えようとするが、ヒートアップした一同は叫び声をあげていて聞く耳を持たない。シュプレヒコールは最高潮に達し、今にも暴動が始まらんとしている。

「だがやつらは神出鬼没、しかも放送日は明日だ。窮地に立たされたおれたちは無い頭を捻り、捩り、こねくり回し考えた。そうして閃いた。奴らは少数精鋭、鉄の結束で結ばれている。そこで仲間のお前を使った人質作戦を決行するに至ったのだ。ふはははは、赤井!お前の仲間はここだぞ!悔しかったら「どへらっ」

 目の前で怒号をあげていたスーツの顔面に球体が激突した。ゆっくりと倒れる様がスローで、プリングルズのロゴのような間抜け顔、ぱちぱちと二回瞬きをしたのが見えた。

「春山ぁ!!」

 誰かの叫び声が聞こえた。スーツ…、ああね。

 その凄惨な事故は、いや事件というべきだろう。とにかくスーツの春山は凶弾(バレーボール)に倒れた。俺たちはボールの飛んできた方向を見る。

 そこには見覚えのある、不吉なこけし頭の女が立っていた。

「やあ!やあ!薄汚い筋肉ダルマの諸君。私が来た」

 それは赤い衝撃。この騒動の中心人物、赤井林檎その人である。彼女は今しがた息絶えたスーツ春山のもとへやってきて「大丈夫か?」と尋ねる。無茶苦茶すぎる。

 しかしアメフト部員たちは彼女のその傍若無人な振る舞いに慣れているのか、すぐさま臨戦態勢をとる。セットポジションというのだろうか、壁のように並び、こちらが少しでも動けばとびかからんとする構えだ。

「おい」と彼女に声をかけると「なんだ、いたのか」と素っ気なく返される。なんだとはなんだ。お前には言ってやりたいことが山ほどある。

「話し合いで」黒川先輩と「解決しよう」嬉野先輩もどこから出てきたのか、颯爽と現れる。それはこのバカが実力行使に出る前に言うべきセリフでしたね。

「坂東、後輩たちが世話になったな」

 黒川先輩がスクラムの向こう側にそびえたつ坂東に呼びかける。

「やはりうぬの差し金か」

「いいや?今回は赤井が勝手にしたことだ」

「後輩の責任をとるのが上の者の責任ではないか」

「うちはうち、よそはよそ。放任主義でやってるんだよ。ただし後輩に手を出されちゃ黙っていられんなあ」

 静かな闘志が二人の間で渦巻いている。ところで三人とも俺の後ろに整列しないでくれませんか。明らかに視線が俺に集まっているんですけど。仲間だと思われてるんですけど。

「これはァ白黒はっきりつけさしてもらいましょうやァ」

 赤井はその小さな背丈を限界まで大きく見せるように、つま先立ちで腕組みをする。俺の後ろで。

「なんやと。坂東のおじき、わしら舐められちょりますよ。ちょっとばかし痛い目にあってもらいましょうや」

「そうせんといけんじゃろう」

 くら寿司が大見得を切り、モンブランがそれに続く。さっきからなんで広島弁なんだよ。まさしく仁義なき戦いの火ぶたが切って落とされようとしている。非常にまずい。

「戦争じゃ。ぶちまわしたるけえの。なあ、九条」

 肩に手を置き赤井が呟く。なんだ、ここはのったほうがいいのか?

 俺は腹に力を込めてこう叫んだ。

「どっからでもかかってこんかい!!」


 俺の健闘むなしく、というか、俺だけの健闘で怒涛の、仁義なき、血で血を洗う、世紀の決戦は幕を閉じた。赤井はスクラムに押しつぶされた俺に近寄り、鼻息を荒くした男どもを制すと仁王立ちをして「この戦争を終わらせに来た!」と叫んだ。そして俺はこの女だけは殺してやろうと思った。

 黒川と嬉野両先輩方はその終戦を見届けてから、坂東に話しかける。

「坂東、聞いてくれ。俺たちはお前らと争うようなことはしたくない。だから今日はちょっとした提案をしに来たんだ」

 ならばなぜ初めからそう言わなかったのか、俺の安寧という名のチーズはどこへ消えたのか、なぜあんたらはベストを尽くさないのか、謎である。

 部室前はアメフト部員たちと、放課後の練習へと向かう運動部らしき野次馬で騒がしくなってきていた。先輩達もそのことを気にかけていたのか「場所を変えよう」と言って坂東を除いたアメフト部員たちを解散させ、俺の拘束も解かれた。

 俺は半身を起こして、砂でよごれた制服をはたき、居住まいを正す。

「おい」

 胡座をかいて逆立った精神を落ち着かせていると、後ろから覗き込むように赤井が俺を呼んだ。

「なにしてんだおまえ」

「きえろ」

「なに?」

「ぶっころされんうちにな」

 赤井の顔の前で中指を立てる。それを見た赤井は急に憐れんだような表情をして両手を俺の後ろに回し、制服の首元を勢いよく持ち上げる。

「学ランの襟って丈夫だなぁ」

 俺は第一ボタン、その上のフックまでしっかりと留めていた。それが仇となるとは。数週間前に買ったばかりで型のいい襟が、しっかりと俺の頸動脈を締めた。

「おい」

 立ち上がって赤いと向き合うと随分と見下ろす形になる。しかし、こいつをどれだけ上から見下ろそうと、一向に優勢に立てる気がしない。ただそれは、尊敬や恋慕といった類の感情からくるものではなく、単に不遜で不穏な問題児を前にした不安感によるものだ。

「なんだよ」

「わたしのせいでとんだ災難だったな。悪い」

 災いはお前自身だけどな、とは言わなかった。まさか謝られるとは思わなかったから驚いてしまったが、よく考えればまだ俺はこいつのことを何も知らないのだ。確かに多少は失礼な事を口にして、破天荒なとこもあるようだが、こうして顔を合わせて話すと、自分と何も変わらない17歳の少女だとも思う。だからこの2日間の言動だけを切り取って彼女を頭のおかしい奴だと断言するべきではないのかもしれない。 

 いや、そんなことはない。こいつはおかしいし、思い返せば腹も立つわ。

 俺は赤井の可愛らしい頭頂部を鷲掴みにする。

「許してやるから頭を下げやがれ」

「ワルカッタナ。コレカラモヨロシクナ」

「ハハ、キニシナイデ」

 意地でも頭を下げない赤井との攻防の末、気がつくと俺たちは部室棟を離れ、校舎裏へとやってきていた。

「二人ともやっときたな」

 その言葉は間違いなく、俺と赤井にかけられたものだった。

「なんだ先輩たち、こんなところにいたんですか」

 坂東と、黒川、嬉野(敬称略)の3年生ズがそこに揃っていた。そういえば、話があるから場所を変えようと言っていたなと思い出す。

「ついでに聞いていけ。赤井と九条にも関係のある話だ」

 なんで俺に関係あるかどうかをこいつ(敬称略)が決めているんだろうか。

「あのですね、その前に俺に色々と説明することがあるんじゃないですかね」

「確かにそうかもしれないな…」

「待ってくださいよ、黒川先輩。すべての訳を、私たちがこいつを勧誘する訳を話すのは、早計です。放送部員同士で対立して私たち3人が部を去り、新しくラジオ部を立ち上げたものの、パーソナリティがわたしだけでは放送内容が過激になりすぎるというリスクと、部員が4人以上いないと予算が割り振られないという問題を同時に解決するために、話題性があり、常識もあるこいつを2人目のパーソナリティとして入部させようとトラブルに巻き込ませて、いつのまにか仲間意識が芽生えていたという作戦をたてていたことを話すと、『教師に呼び出されたり、アメフト部に拉致されたのは、やっぱりお前たちのせいじゃないか』と反感を買う危険性があります」

「でもね、放送部員同士で対立して僕たち3人が部を去り、新しくラジオ部を立ち上げたものの、パーソナリティが赤井さんだけでは放送内容が過激になりすぎるというリスクと、部員が4人以上いないと予算が割り振られないという問題を同時に解決するために、話題性があり、常識もある九条くんを2人目のパーソナリティとして入部させようとトラブルに巻き込ませて、いつのまにか仲間意識が芽生えていたという作戦をたてていたことは事実な訳だし、この際正直に彼にも話すべきじゃないかい?」

「いや、そもそもラジオ部内のことを、放送枠を争う難敵であるアメフト部部長の坂東に聞かれるのはまずいな」

「なるほど、うぬらが放送部員同士で対立し、3人が部を去り、新しくラジオ部を立ち上げたものの、パーソナリティが赤井だけでは放送内容が過激になりすぎるというリスクと、部員が4人以上いないと予算が割り振られないという問題を同時に解決するために、話題性があり、常識もある九条を2人目のパーソナリティとして入部させようとトラブルに巻き込ませて、いつのまにか仲間意識が芽生えていたという作戦をたてていたことは、われの心の中だけに留めておく。このわれ、伊音高校アメリカンフットボール部キャプテン、禍㎜東一のクウォーターバック、坂東丸鉄の名にかけてそのことを約束しよう」

「ふっ、お前が義に厚いことは皆が知っている。信じよう」

「今回だけだ」

 二人は肩を抱き合い、硬い握手を交わす。

「それで九条、そのことなんだが...」

「うるせぇー!もう分かったわ!何度も何度も、気が狂うかと思ったわ!」

「ぬっ、どこかから情報が漏れているのかっ!!」

 くそ、この似非ラオウもあいつら側の人間じゃねぇか。騙されたのが悔しい。

「九条も事態を飲み込んだようだし、『アレ』の話に移りたいんだが」

 黒カス(敬称なし)がなにやら神妙な面持ちで話し始める。どうせまたロクでもない話なんだろうけれど。

「やっぱり『アレ』をするんですね。わたしはいつでも準備できてますけど」

「でも『アレ』をするなら準備が必要だよね。すぐにって訳にはいかないな」

「うぬら『アレ』でわれらに勝てると思っているのか?」

「あれぇ坂東先輩、そんな噛ませ犬キャラみたいなセリフ吐いてて大丈夫ですかぁ?」

「絶対的な自信は揺るがぬ。だが」

「だが?」

「必然的にキーマンになるのはあやつだろうな」

「そうだね」

「まぁ、そうなりますねぇ」

 あーあ、くそだりぃーや。早く帰ってハウスキーパーさんの飯食いてぇ。

「そう、九条、『アレ』の勝敗はお前にかかっている」

 あーあ、あーあ。うるせー。


 ◇◇◇


「結局『アレ』ってなんのことなんだろうな」

 朝から降り続いている雨のせいか、教室内はじめっとした重い空気に包まれている。今日は、大道芸部なる団体がお昼の放送で本格的なジャグリングを披露しているようだったが、残念ながら音声のみではその凄さは伝わってこなかった。

「それってたぶん『アレ』のことでしょ?」

 今日も今日とて、昼飯は成田と相席している。昨日は、ぐだぐだ続くかと思われた話し合いも下校チャイムによって唐突に終わり、『アレ』の説明はなされないまま帰路についた。

「なんだ、知ってんのか?」

「部活同士の紛争解決といえば『アレ』しかないからね。まさか転校早々『アレ』をするなんて、九条もやるなぁ」

「『アレ』って言うな。もしかして成田、お前もアイツらの仲間なのか?違うならその『アレ』ってやつを俺に教えてくれるよなぁ」

「うっ、なんだよ。日に日に顔がやつれていってるぞ。野菜食えよ、野菜」

 そう言って成田は食べ終えた弁当に残った、レタスの切れ端を、箸で鼻先に出してくる。

「うるせぇ、それよりも『アレ』ってなんなのか説明しろよ」

 俺は有無を言わさない顔つきで成田を睨みつけた。ついでに萎びたレタスは食べ終えたカレーパンの包みにくるんで捨てた。

「しかたないなぁ。でもどこから話したものかなぁ。そうだ、うちの学校の部活動いくつあるか知ってる?」

「普通の高校なら10から20ぐらいか?生徒数を考慮して30前後でどうだ」

「正解は」

 どこかで聞いたようなSEを口ずさみ、もったいぶって答えを口にする。

「87!」

「まじかよ。減らせ減らせ、どうせ大した活動してないんだから。ラジオ部とかアメフト部とか」

「うーん。うちの学校のモットーは多様性と実践教育だから、どうしても学生主体の活動は認可が下りやすくてね。大会やコンペの成績で活動費の増減はあっても、滅多に廃部になんてならないし、新しい部活も作りやすいんだよね」

「なんだ?やけに詳しいな」

「ああ、実はおれ、生徒会の役員をやっててさ、部活動の管理を任されてるんだよね」

「意外でもなんでもないな」

「そうか?まあ所詮学生の委員会活動だから、大した仕事でもないんだけど」

「お前の権限で『ある部』を廃部にすることって可能か?ラジオ部っていうんだが」

「伏せた意味ないよね。俺にメリットないからやらない。それに、赤井さんに聞かれてちゃ、なおさらね」

 視線を右にずらすと、確かに赤井がいた。なんでだ?

「成田は嫌いな食べ物とかあるか?俺はパクチー。そろそろ自分の教室に戻ろうかな。じゃあな」

 混乱した思考回路から生まれた、アクロバットな言い訳で逃走を謀る。

「九条、ここがお前の席だぞ。落ち着け」

 赤井に諭されるが、それを俺は無視した。

「九条、ここがお前の席だぞ。落ち着け」

再び赤井に諭され、それも俺は無視した。

 席を立ってみる。

「九条、ここがお前の席だぞ。落ち着け」

 三度赤井に諭される。

「九条、ここがお前の席だし、無視したって無駄だぞ。私は何度でもお前にこのセリフを言い続ける」

「怖いからやめて。分かったから」

「なら、はじめから人の話は聞けよな。ちなみに私はこんにゃくが苦手だ」

 そうか、今度からは教室内にこんにゃくを吊るしておこう。新手の魔除けみたいだ。

「それよりも、赤井さんがどうしてこんなとこに?」

「いい質問だね成田君」

「ごく一般的な反応だと思うが」

「あなたは黙っていなさい九条君」

 いたよな、都合の悪いことは聞き流したりする先生。だいたいそういうやつに限って、ヒスっぽくて、あのときも自分が無視されたと勘違いして。いや、そんなことよりも赤井の見た目について二、三、気になることがあった。

「なんでお前、ジャージなの?しかも泥ついてるし」

 赤井はまず黒のジャージを身につけており、おかしい。なぜなら、学校指定のジャージは学年ごとに色が分かれており、2年生の彼女のジャージは俺たちと同じ赤色でなくてはならない。俺も転校に際して購入したが、まあ、可もなく不可もなくといったものだった。しかし、彼女が着ているそれは、どこからどうみてもアディダスの上下セット、ドンキで5000円黒ジャージである。

 加えて体は全体的に湿っており、袖や裾に泥が散って固まっている。この雨の中で走りこみでもしていたのだろうか。

「特訓を少々」

「もしかして、『アレ』と関係があるのか?」

「今日の九条は鋭いね」

 成田がしたり顔で相槌を打つ。もっと鋭利になってお前らの首元を掻っ切ってやろうか。

「話を元に戻すけど、うちの学校は87もの団体が部活動を行っている。当然、グラウンドといった練習を行う施設や部室の利用で、たびたび衝突が起きている。もちろん生徒会や学校側が介入することもあるんだけど、当事者による交渉で解決できるならそれに越したことはないわけだ。そこでできたのが『アレ』と呼ばれる、伊音高校の伝統、闘いの掟、超法規的措置」

 長いな。kindleならスワイプして読み飛ばしているところなんだが。聞き飛ばせないのが腹立つ。これが巷で噂のオーディオブックスか。

「その名も『相撲チェスクリケットバトル』なのだ!!」

 成田と赤井が大見得をきる。

「なんて?」

「その名も『相撲チェスクリケットバトル』なのだ!!」

「突っ込みたいところは多々あるけれど、まずは二人とも俺の席から降りろ」

「確かに行儀が悪かったな」

「たまにはやんちゃしたい年頃なのさ」

 2人は少し恥ずかしそうに席を降りる。それならば始めから登らないでほしい。

「それでその相撲がなんだって?」

「「相撲チェスクリケットバトル!!」」

「うるせぇから2度と言うな」

 そこで俺は、ハッとした。

 なぜ皆一様に『アレ』と呼んでいるのかを完全に理解してしまった。なるほど、あれはみんなが俺を混乱させてからかうためだと勘違いしていたが、単に長ったらしくて恥ずかしいから誰も正式名称を言いたがらないだけだったのか。いやどっちもあるな。

「それで『アレ』はいったい全体どういうものなんだ?」

「それはこの私、赤井が説「おれが説明しよう!!」

「成田に任せよう!」

 即席の割に連携が取れている点が腹立たしい。

「団体同士が学校内の事柄に対して衝突した時、団体の長の判断によって『相撲チェスクリケットバトル』を行うことができる!!」

「行うことができるぞ九条!!」

「そして共に団体から代表を3人選出し、それぞれが『相撲』『チェス』もしくは、『クリケット』の中から自分の得意な競技を選択し、勝ち越した方が勝者となる。もちろん、勝者側は争点となった事柄について一方的に権利を行使できる。これが」

「「相撲チェスクリケットバトル!!」」

 俺はスマートフォンでスマニューを眺めながら説明を聞いていた。ふむふむ、ブラック校則なるものが問題視されているらしい。確かに行き過ぎた規制は当初の目的から大きく外れて、むしろ生徒の足枷となることもあるだろう。しかしながら、そんな世論に一石を投じたい。高校生は厳しい規則が無いと、こんな馬鹿げた、いやイカれた風習を生み出してしまうのだ。みんなはどう思う?

「おい、成田の説明で合点がいっただろう?私たちラジオ部はアメフト部と勝負し、なんとしてもお昼の放送枠を勝ちとるのだ」

「勝ち取るのだじゃないが。なんで相撲とチェスとクリケットの3択なんだよ。そもそもクリケットは団体戦だろ。なんでわざわざクリケットを個人戦に落とし込んでんだ」

「まぁ、そう思うよな」

 成田は分かる分かるよという寄り添ったような笑みを浮かべている。

「それならこの制度の成り立ちから話さないといけないだろうね」

 どうにか話さないことにはならないだろうか。そんな俺の願いも虚しく、回想は古ぼけた一枚のフィルム写真へと時を遡っていった。

 

『国外では湾岸戦争、ソ連崩壊による周辺国の混乱。そして国内でも長期に渡り続いた経済興隆の終焉が少しずつ見え始めている。ここ私立伊音学園でも、そんな社会情勢の混乱に誘引されてか、生徒による授業のボイコットやいじめ、薬物使用と学校内の治安の悪化はもはや無視できない様相をなしてきていた。

 時の理事長であった権藤仁はこの危機に対して、生徒自身による自治、生徒組織の学校内での権限を強めることで生徒の不良行為を生徒によって改めさせるという革新的な学園政策を行なったのである。それが今日、私立伊音学園の生徒主体の学校運営といった自由な校風を作ったとされている。

 しかし学校内の治安が改善した一方で、権威を持った生徒組織間での抗争が生まれ始めた。そのような抗争を解決するため、私たち生徒会はこの『相撲チェスクリケットバトル』の導入を決定する。』


以下推薦人

相撲部部長     新垣 順

チェス部部長    石山 大翔

クリケット部部長  ウォルター・モンデール


承認

学園生徒会会長   権藤 雅


            h4 6.11 学園通信


◇◇◇


「これが当時の資料だね」

 成田がpdf化したプリントをipadで見せてくる。

「権力の腐敗がすぎる…」

 明らかに生徒会長側と相撲部以下の裏取引があったとしか考えられない。それに学園理事と生徒会長の姓の一致といい闇が深い。

「ちなみに生徒会長は理事の息子さんだったらしいよ」

「社会の縮図だな」

 そこで一つ疑問が生じる。

「というか、こんなクソ制度がなんで20年近く続いてるんだ?それにこんなに有利なら、相撲部は小さい国技館くらい持ってないとおかしいくらいだ。だけど相撲部が優遇されてるなんて話、どこからも聞かないぞ」

「ああ、うちは相撲部ないんだよね。というか廃部になってさ。チェス部もクリケット部も」

「なんでだよ。こんなに有利なバトルを作っておいてどうして廃部になんか」

「当初はそりゃあ好き放題だったみたいだけど、『アレ』を繰り返しているうちに、他の生徒たちも対策を練るようになって、もともとそこまで強い部活って訳じゃなかったから、普通に自分たちの競技で勝てなくなって、印象も悪いし、新入生が入らなくて自然消滅したって話だよ。あ、これが『アレ』の詳細ね」

 すごく残念な理由だった。

 確かに優れた運動能力や情報処理能力を持った生徒が本気で競技に取り組めば、経験者を簡単に追い越してしまうというなんてことはよくある話だ。

「でもその三つが廃部になったことで、このシステム自体、公平な紛争解決手段として用いられるようになったって話」

 良いのか悪いのか。だが俺にとって重要な情報を手にしてしまった。詳細を読むに『アレ』に参加すんのは団体の代表、部員ってことらしい。なら、俺はラジオ部の部員じゃないし、しっかり傍観を決め込んでやればいいわけだ

「ふう、安心安心」

 正直、俺を拉致したアメフト部の奴らには多少の怒りがあるが、俺は心が広いので許してやるのもやぶさかじゃない。相撲もチェスも、もちろんクリケットもしたくないし。

「あ、だから赤井さんが来てたんだね」

「何の話だ?そうだ、そういえば赤井のやつ、急に来たと思ったら、いつのまにかいなくなってるし。なにをしに…」

 そのとき、開いたレザーのペンケースと机の上に散らばった文房具が目に入った。シャープペンシルに消しゴム、ふっかちゃんのボールペン、筆ペン。それと、「あれ」と思う。印鑑がない。ここ数日、編入に際していくつかの書類を書いたため、ペンケースに印鑑を入れていたはずだった。

「まさかあいつ。なぁ成田、入部届ってどこに出すんだ?」

「学生課っていう校舎裏にある建物にいる事務員さんに」

 俺は成田がそれを説明し終わる前に走り出していた。廊下を出て、二段飛ばしで階段を駆け下り、校舎の裏手に回るとガラス張りのカンファレンスルームのような、2階建ての建物がある。1階の入り口には、学生課窓口の文字が刻まれている。そしてその建物に向かう女生徒の後ろ姿が見えた。

 俺は後ろから彼女の肩を掴み、乱暴に引き寄せた。

「おい、おまえ」

 振り向いた女生徒は驚いた表情を見せる。

「あっ、えっ?」

 赤井、ではなかった。完全に人違いだった。

「いや、ごめんなさい。人違いでした」

「い、いえ、はい。あの、もう行ってもいいですか?」

「大丈夫です。すみません」

 恥ずかしすぎる。

「馬鹿め、私はここだ」

 学生課の建物の2階、突き出したベランダから今度こそ聞き覚えのある声がした。

「見ていたぞ九条。ベタすぎるだろ。もっと私のことを普段からよく観察することだな」

「高いとこから喋んな。降りてこいや」

「おまえが登ってきたらいいじゃん」

 たしかにそうだ。

「そこを動くなよ」

 窓から顔だけを覗かせる赤井を突き刺さるくらいに指さし、釘を刺してから勢いよく外壁に沿うように伸びた階段を登る。

 2階には備品管理と書かれたプレートが壁に貼られていた。ベランダはこの先だろう。重たいドアをスライドさせ、部屋へと入る。

 物置にしては埃臭いというわけではなく、体育で使うようなビブスや束ねられた延長コード、キャスターの付いたホワイトボードといった品々が丁寧に整理されて棚に収められていた。

 両開きの扉が開けっ放しになっていて、薄緑のカーテンが風に揺れている。ベランダはそこだろう。

「やあ。いい天気だな」

「よぉ、盗っ人」

 ベランダは下から見上げたよりもずっと広く、誰が手入れしているのか、隅のプランターには鮮やかな色のネモフィラが咲いている。校舎の間にあるため、春の陽気を蓄えた暖かい風が吹きつけている。そんな素敵な場所で、素敵じゃない女はベランダの手すりにもたれかかって、俺がやってくるのを待っていた。

「おとなしく、その手に持った入部届を渡すんだな。あと印鑑も返せ」

「力づくで奪ってみな」

「いや、いいけど。クソチビのくせになんでそんなに強気なんだよ」

「人を見た目で判断しないことだな」

 そう言って赤井は股を開いて前屈姿勢をとる。もしかしなくても相撲をとる気だろう。

「いいぜ、怪我しない程度にすませてやる」

 俺もそれに倣って、前屈みに構える。

「はっけよーい。のこった」

 赤井が腹の底から響くような声で叫んだ。

 瞬時に赤井が間合いを詰める。右が利き手なのだろう。俺の腰に手を伸ばそうとしているのを、手の甲で払って、こちらも一気に腰を落として赤井の懐へ潜り込む。

 油断したわけではなかった。

 腕を引っ張られる感覚があり、前屈みになっていた俺はバランスを崩して前に倒れ込んでしまった。

 まずい。なにがまずいって、このまま赤井ごと倒れ込んだら。砂を噛むような音がして、俺は組み合ったまま倒れ込んで、赤井を下敷きにしてしまう。

 その瞬間、パシャリと音がした。なんというかシャッター音のような、いや間違いなくカメラの音だった。振り向くと、先ほど間違えて声をかけた女生徒が一眼レフのカメラを構えて、備品倉庫の扉の影からこちらをロックオンしていた。

 俺は赤井の胸を、いやもちろん不可抗力ではあるが、手のひらで押しつぶすようにして倒れている。そしてそれを写真に撮られたわけだ。なんでだ。

「おい、オス猿よ。発情期なのは仕方ないが、幼気な少女を押し倒して、あまつさえ胸を揉みしだくのはいくつか法を犯していそうだよなぁ」

 どこからどこまでが仕掛けられた罠だったのか。

 いや、まじでどうしよう。詰んだわ。そもそもなんでこいつは俺なんかを執拗に入部させたがるんだよ。俺はこの学校で静かに暮らしたいだけだってのに。あーあ。


春先に 


おっぱい触って 


おわおわり


「いつまでもんでんだ」

 赤井の掌底が俺の顔を的確に捉えて、俺の鼻血は春風に舞った。


◇◇◇


「はい。間違い無いです」

 受付にいたのは40前後の事務員の女性で、俺の入部届は無事受理された。ラジオ部、入部、ナンデ?ボク、ニュウブ、ニューナンブ、ラジオブ、ラストオブアス。いや入部。いりべ?いや入部だ。

 学生課の建物を出ると、赤井とあの女生徒が立ち話をしているのが見えた。俺に気がついた赤井は、笑顔で手招きする。

「これで九条もラジオ部の仲間だな」

 考えうる最悪の経緯で加入したことについてはどのようにお考えだろう。とは聞かないでおこう。とにかく今は事件を風化させなければならない。

「お前に仲間意識とかあんのかよ」

「あ、あの」

 くだんの女生徒がおずおずと俺たちの会話に割って入ってくる。

「わたしそろそろ帰っていいですか?」

「ああ、ありがとうね」

 彼女はペコリとお辞儀をして校舎の方へと去っていく。

「あれは、誰だ?」

「新井山さん」

「お前の友達か?」

「私に友達がいるように見えるか?」

「ふーん」

 よっしゃ、こいつ友達いないでやんの。俺には成田がいるからセーフだ。

「そんなことよりもだ」

 赤井は居住いを正して、俺の正面に立つ。

「決戦は放課後、お前には大いに期待しているところなんだが、どうだ?」

 相撲チェスクリケットかぁ。どれも得意では無い。悪い意味で甲乙つけ難かった。

「勝手にしろ」

「勝負くらい決めておけよな」

 相手はアメフト部。消去法として、相撲は消える。押し合い転かし合いはあちらが何枚も上手だろう。

 俺はしばらく考えて「チェスかな」と答えた。

 赤井はすでにそこにはおらず、昼の授業の予鈴が鳴り響いていた。

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