1(3)そうだ、教習所に行こう!
バーの時間帯の営業を終えた紫庵とリゼが洋館に戻ると、弥月の用意した夕食が待っていた。
先に夕食を済ませたアッサム、キャンディはリビングのソファやラグの上に座り、テレビを見ている。
「お疲れ様」
ダイニングテーブルに二人が着くと、ありすとなぎ、弥月はミルクを多めに入れたミルクティーを飲む。
紫庵とリゼが喫茶の時間後も働く分、朝から店に出すパンや菓子の仕込みのある弥月は早めに上がり、夕食を用意し、早めに就寝している。
「市内の自動車教習所でペーパードライバーコースっていうのがあってね、わたし、免許を取ってから車を運転したことがないから、そこで復習して練習してからレンタカーで車を借りて、海に皆で行った方がいいと思うの」
二人の前にもミルクティーを置いてから、なぎが話を続けた。
「えっと、ブランクは三年未満ではあるから、一番安くて短いプランで大丈夫みたい。でも、路上の練習もしたいし、三回以上は通いたいかな」
紫庵とリゼが、ナイフとフォークを動かす手を止める。
「それって、教官と二人っきりで車に乗るヤツ?」
「そう」
「教官て男?」
「大抵は……」
「なぎさん、セクハラのことを思い出して、嫌じゃありませんか? ぼくたちのためにそんな無理をすることはありません。海には電車で行けばいいので、嫌だったら無理しなくていいんですよ」
「鏡を使う手もあるけどさー、こんなに大勢で出入りしたら人目に付きやすいか」
ミルクティーを一口飲むと、弥月にしては珍しく周囲のことを考えた発言をしていた。
リゼが心配そうな顔をなぎに向け、紫庵も眉間にシワを寄せて頷いている。
「電車だと、そこの元町・中華街駅から各駅で五駅で横浜、そこから大船まで東海道線なら二駅、モノレールで江ノ島か、大船で降りずに藤沢まで行って江ノ電か……電車代は同じだけど乗り換えが三回もあるし」
「石川町駅まで歩けば、大船まで乗り換えなしで行かれますよ。少し歩きますが」
「そうねぇ……」
なぎは電車での様子を想像してみるが、三両しかない狭いモノレール車内で混んだ中「みーくん、静かにして!」などと注意しまくっている姿しか思い浮かべられなかった。
「……やっぱり、電車だと乗り換えも多いし、何かと気を遣って疲れそうだし。私も皆と周りに気兼ねなく、ドライブ兼ねてわいわいしてた方が楽しいから、運転頑張ってみるわ」
「なぎちゃん、そこまで僕たちのために……!」
「なぎさん、ありがとうございます」
紫庵とリゼは、じーんとしているようだった。
感謝された……。
あんまりこういうことって、前の職場ではなかったな。
仕事ではまだまだでも、自分でも役に立てることがあったのだと思うと、なぎには嬉しく思えた。
「そうだ、ぼくたちも、毎回教習所まで交代で迎えに行きますよ」
「そうだな。もし、教習所に良からぬ教官がいたとしても、男連れならそう簡単にセクハラしようとは思わないだろうし。弥月やキャンディだとコドモだからってナメられそうだから、僕とリゼが交代で行くよ」
紫庵がウィンクし、リゼも微笑む。
「……ありがとう」
なぎは、微笑しているありすの表情も確かめると、はにかむように笑った。
なぎの担当教官は、普通の中年の男性だった。
ドキドキでハンドルを握り、慎重に運転を始めるが、速度は遅くともスムーズに車を走らせる。
一時間近く練習をしてロビーのソファに座り、スマートフォンを見ていた。
「あれー? なぎさん、偶然ですね」
「
近所のライバル店店長の
一番近い教習所となると被って当然よねと、なぎは思った。
「免許取るんですか?」
「短大卒業する頃に免許は取ったんですが、実際に車を借りて運転するのは初めてなので」
「お出かけするんですか?」
「はい、みんなで」
「それで練習してるんですか。やさしいんですね、なぎさんは」
「いえいえ、私も楽しみになってきたので。運転出来れば、今後も皆といろんなところに遊びに行けると思うし」
「僕も同じです。従妹たちが海に行きたいっていうもので、毎年この時期は念のため教習所で練習してるんです」
「わあ、同じですね! わたしたちも海に行こうって言ってるんです」
「そうなんですか。いつ頃どちらに?」
その時、紫庵が自動ドアから入ってくるのが見えた。
気付いた紫庵も手を振りながら近付き、海音に目を留める。
「あれ? ティールームの店長さんも?」
「そうなんですよ、偶然ここで会って。あ、どうせ近所ですし、お店抜けられるのも似た時間帯でしょうし、僕がなぎさんと毎回同じ練習枠取るようにして一緒に帰れるようにするので、わざわざ迎えに来なくても大丈夫ですよ」
「へー」
紫庵はにこりともせず、気の無い声を出すと、無言でなぎを見下ろした。
なぎは紫庵の瞳を見つめてから、海音に向き直って微笑んだ。
「お気遣いありがとうございます。せっかくですけれど、紫庵たちが交代で送ってくれることになってるので、ついでにお店の買い物にも寄れますし、大丈夫です」
なぎは紫庵と並び、教習所を後にした。
買い物袋を二人とも手に提げ、エレベーターで公園口に出る。緑の木々に、薔薇の刻印のされた木戸があちこちに見える、外国のような、『不思議の国のアリス』のトランプ兵が出てきそうな、城の裏門の雰囲気も感じられる。
「さっきさ、『うちの従業員たち』って言わずに、名前で言ってくれたよね? なぎちゃんが付けてくれた呼び名で」
「え、ああ、そうね」
「嬉しかった」
「え?」
「単なる従業員とは違うって思ってくれてて、それをあっちの店長にも見せてくれたってことだもんね」
「そんなの当たり前じゃない。今はプライベートで、お店は関係ないんだし」
笑い飛ばすと、紫庵が立ち止まり、つられてなぎも立ち止まった。
「ありがとう。こっちの世界の住人じゃない僕にも」
なぎは不思議そうに首を傾げる。
「なんか珍しく素直。どうしたの?」
ふと、紫庵の顔がほころんだ。
「いや、アズサが僕たちを他人に紹介する時は、店の外でも必ず従業員って言ってたなぁって思い出して」
「……さびしかった?」
「うん、まあ」
「そう……そうだよね」
見えない壁を感じてる。
紫庵でさえ、疎外感感じる時があるんだわ。
「わたしもリゼさんが時の番人だって知った時は、ぎこちなくなっちゃったし。あの時は本当に悪いことしたって反省してるから。今は皆のおかげでわたしも立ち直って元気になってきてるって思ってるから」
えへへ、と照れたようになぎが笑うと、紫庵の目がキランと輝いた。
「ありがとうー! なぎちゃーん!」
さっと、なぎが身を
「ハグはしなくていいから!」
「察しがいいね。じゃあ……」
なぎの頭にポンと軽く手を乗せた。
「ありがと、なぎちゃん」
にっこりと笑った中にも僅かに照れた目元に、なぎは気が付いた。
「あら? 紫庵て、イケメンなのかしら? いつもこうなら格好いいかも知れないのに」
はあ、と紫庵がため息を吐く。
「あのね、自分で言うのもなんだけど、僕のカッコ良さがわからないのは、なぎちゃんくらいだからね。なぎちゃんのイケメンセンサー絶対おかしいから、一回修理してもらった方がいいよ」
「な、なんなのよ、それー!」
*
「うちは一般的な乗用車を借りるつもりですが、紅茶館の皆さんは人数多いですもんね」
「はい。大きい車は車高が高くて見通しがききますし、車体感覚も掴みやすくて、運転しやすいんですね」
「そうですよね。勘は戻りそうですか?」
「なんとか大丈夫そうです」
湊海音と話しながら教習所の玄関に向かうと、リゼが既に迎えに来ていた。
「毎回お二人交代で、よくここまで迎えにいらっしゃいますよね。電車代もかかるのに」
海音が笑った。
リゼもにっこりと返す。
「電車代といってもそんなに高くないですし、それくらいは出せますから。なぎさんの身に何かあったりした方が大変ですので」
「それって、例えば……僕がなぎさんにチョッカイ出すとか、心配されてるんですか?」
なぎは二人を交互に見た。
海音は挑発的な笑みを浮かべている。
え? なぜか、なんか変な雰囲気になってない……?
そもそも草食動物系のリゼさんは、相手に挑戦的な態度に出られたりしたら——
「ああ、あなたがそんなことしないのはわかってますから、大丈夫ですよ」
にっこり吹き飛ばしたー!?
「教習所の教官とか職員とか、電車で痴漢に合わないかとか、主にそちらです」
「あ、あの、そんなことよりも買い物もありますし、わたしたちはこれで!」
恥ずかしくなったなぎが遮るように口を挟んだ。
「『そんなことよりも』ではないですよ、なぎさん。大事なことです」
「なあんだ、てっきり、もう一人の長髪の方——紫庵さんでしたっけ? あの方とお二人でなぎさんを取り合ってるのかと思ってました」
海音はさらりと、微笑んで言った。
「え? なぎさんを取り合う……? ぼくたちが? なぜです?」
海音が「え?」という顔になる。
「……お互いに
海音の口からは呆然と言葉が漏れていた。
リゼがニコニコと応える。
「紫庵とぼくは友達ですし、なぎさんは、皆のなぎさんですから」
「も、もういいですから」
なぎは、これ以上リゼが妙なことを口にしないよう、リゼの背を押して足早に教習所を去ろうとした。
「じゃ、じゃあ、湊さん、お疲れ様でした。お先に失礼します〜!」
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