第8話


それから間もなく教授は、自分が癌であることを大学に伝え、学生たちにも退職生活を送ると宣言しました。私と麗子は文学部の別の教授に今後指導を受けることになりました。

「君たちにも迷惑を掛けるね」

検査入院をする前日の晩、教授の家に招かれ、高価そうな香りのする赤ワインで乾杯すると、一人ジュースを手にした教授は申し訳なさそうに私たちに謝りました。

「そんな事ありません」

いつも辛辣で厳しく傲岸な印象しかなかった教授が人前で頭を下げるのを初めて見て、私は驚き慌てて手を振り、麗子は幽かにかぶりを振りました。料理を運んできた夫人が、

「ほんとうにご迷惑を掛けて。わがままな主人でごめんなさいね」

と付け加えたので、私たちはますます恐縮しました。夫人が教授と麗子の間にあったことを気付いているのではないかと、私は危ぶんでいましたが、その明朗な様子を見る限り夫人は何も知らない様子でした。逆に夫が死病を宣言されたというのに余りにも明るいのではないか、と疑いさえ抱いたのですが、ご主人の病状を知ったために敢えて明るさを装っているのではないかと自分自身を納得させたくらいでした。

「でも、君たちはもう大丈夫だろう。最後に教えた学生が君たちで本当に良かった。僕はまあ、後の人生を楽しませてもらうことにさせてもらうよ。」

教授は放射線治療を拒否し、在宅医療を選択して可能なら夫人と旅行をすることを望んでいるとのことでした。

「本当に、いつまで持つのかしら」

夫人の直截な物言いにも教授は笑いながら、そうだな、まあ、よろしく頼むよ、と夫人に笑いかけ、夫人もにっこりとしました。本当に穏やかで幸せそうな夫婦でした。

教授が夫人に、ああ、音楽をかけてくれ、そうだな、ベートーベンのチェロソナタ、フルニエとグルダが弾いているのが良いな、そんな明るい声の教授の声に答えている夫人の様子を見ると麗子のした行動も決して無駄ではなかったような気がしました。料理を戴き、帰る間際になって夫人が、

「麗子さん、ちょっと」

と麗子を別の部屋に呼びました。


「あの子は良い子だな」

教授は私と二人きりになると、ウィスキーのグラスを出して私に勧めながらそういいました。そして自分もグラスになみなみと注ぎました。ワインを控えていたのに、と思って

「お酒は大丈夫なのですか」

と尋ねると

「医者からは駄目だといわれているけどね。気にする方が体に悪いと思っている。但し女房には内緒だ」

悪戯っぽくそう答えた教授と小さく乾杯をすると、私は

「楽しい旅になるといいですね」

と心から言いました。

「そうだな。あいつと最後に旅行が出来るとは思わなかった。病人二人で本当に大丈夫かとは思うが、締めくくりはあいつと一緒が良い。君もそんな女性を見つけるといい」

そして、松尾君は本当に良い子だ、と繰り返しました。優しい子だよ、あの松尾君は、としみじみ言うと、検査を終えてから行く四国の旅の話を始めました。まずフェリーで大阪まで行き、たこ焼きを死ぬほど食べるつもりだ。僕はこう見えてたこ焼きが好きでね。あれはフランスの焼き栗と比肩する食べ物だ、それに比べ英国のフィッシュ&チップスなんて、あれはそもそも食い物かね、肉まんも旨いが、たこ焼きには敵わない。淡路島に寄ってから香川に讃岐うどんを食いに行く。

先生、炭水化物ばかりですね。私がいうと

「おお、そうだな、それはいかんな」

教授は大きな笑い声をあげました。そんな楽しげな教授を見たのは初めてでした。

麗子と夫人が戻ってきました。麗子は化粧をなおしたようでしたが、目が赤く目尻に涙の跡がありました。夫人が麗子の腕を取って、大丈夫よ、という風に麗子の手を握り、

「あら、楽しそうなお話をしているのね。まあ、もうお帰りだというのにお酒を勧めて、すいませんね、橘さん」

と言い、教授はそれには答えず、私たちに向かって

「ああ、いかん。教授室の鍵を返し忘れていた。君たちも必要な資料があったら、持って行っていいぞ。大学には適当に整理をしておいてくれといってあるから、君たちも駆り出されるだろう。その前払いだ」

そんな前払いと言うのがあるのか、そもそも教授室にあるものは大学の備品ではないのか、と思いつつも元気そうな教授を見て私は嬉しくなりました。


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