第5話

それは奇怪な夢でした。私はあの神社に一人で佇んでいました。

ただ、見える風景はいつもより視座が遥かに高く、そこからは春子の住んでいたあの家が見えました。いや、あの家は・・・。

幻のはず。

そう思っている私の耳に木の葉にそよぐ風の音が聞こえてました。ですが・・・。良く耳を澄ますと、さわさわと鳴っているのは自分自身です。下枝からはざわざわと、上の枝からはさわさわと。私はなんと桜の木になっていたのです。

でも・・・。ああ、これでいつまでも春子と一緒に暮らせるのだ、私はぼんやり思ったのでした。この角度から見える景色・・・やしろと階段の位置を見る限り・・・ おそらく私はエドヒガンと春子が呼んでいたあの桜になったのでしょう。

動くこともままならず私はそのままじっと佇んでいました。今でさえ朦朧とした意識の中で、やがて私はこの残っている意識さえを失い、脳髄は木質に溶け込んで桜の木として一生を終えるのだ。春子と同じ世界で暮らすのだ。そう思ったのですが不思議に悲しい気持ちはありませんでした。

暫くすると神社の社から巫女が出てきました。目を遣ると驚いたことにそれは春子でした。春子は私を仰ぎ見ました。優しい眼差しでした。

春子。

私は呼びかけました。

でも声になりません。風で私の体中の枝が揺れます。春子、君は私と契ったじゃないか、巫女は生娘でないとなれないものだよ。それに私がせっかく桜になったのに、君が人間の世界に戻るとは・・・。それでは意味がないではないか?

ですが私の心の声は伝わらないのか、春子は私に静かに目礼をしてから躊躇ったように私の体に触りました。それは性交を終えたときに私をゆっくりと優しく撫でる時のあの湿った柔らかい感触でした。

その感触にうっとりとし、春子、僕はずっとこうして君と暮らすことができるのだね、あの小さなアパートや君の家では一緒に住むことができないけれど、こうやって僕が桜となって逆さの国で、一緒に住むことができるのだね。それが春子の願いだったのだね。と思いながら私は目を閉じました。鳥の声、ざわめく風、おだやかな陽の光、僕らはそんな中で永遠に共にいられるのだ。

でも・・・春子の囁くような声がしました。それは彼女が掌で触れたところから突然、衝撃波のように直に私の脳髄へと響いてきたのです。

「あなた、私はもうすぐ死ぬの。それが定めなの。でもあなたの手で私を殺して。そうして私を転生させて」

その囁きに驚いて目を開き春子を見やると、春子はもうそこにはいないのでした。雷の音がして、空を見上げると空は暗くなっていました。ああ、雨が降る、僕は傘もなしに雨に濡れるのだ。これではひいている風邪がひどくなる、どうしたらいいのだろう、視線をあげそんなことを朧に思っているとふと、足元から女の泣く声が聞こえてきました。見おろすと裸の女が私の根元に跪いています。

一瞬、春子かと思いましたが、その女は春子より肉付きが豊かで、髪の毛を束ねています。ああ、これは麗子だ、麗子、君はそこで何をしているのだ。雨が降り始め、その雨に打たれるだけの女の体に水滴が光っています。すると社から黄色の和傘をさした男が出てきて、傘に雨が当たって音を立てます。男は和傘をさしたままで顔が見えません。男は麗子に背後から近づくと傘をさしたまま、後ろから麗子を犯し始めます。麗子の体が前後に揺れ、麗子が首を持ち上げます。麗子の目に雨に混じって涙が流れています。やめてください、先生。私は声にならない叫びを上げました。麗子の首が揺れ、麗子がアクメに達しようとしています。やめてくれ、と私はもう一度叫びます。風がざっと吹いて、黄色の和傘が飛ばされます。ああ、と声にならないまま傘の飛んでいった方向に目をやり、そして麗子を組み伏せている男に目を戻します。麗子を犯している男は、「私」でした。


二日間の入院を終え、昼前にタクシーに乗って家に帰りました。六畳の和室の扉を開けると埃くさく、澱んでいた空気がゆっくりと動きました。二日分の新聞を取り入れ、ぼんやりとしていました。春子は桜の精だったのでしょうか。春子との日々は夢だったのでしょうか。春子の温かく滑らかな体や、つんととがった乳頭や、黒い眸や長い髪、黒々とした飾り毛はすべて私の妄想だったのでしょうか。ねつくさい体はまだだるかったのですが、私は決心すると、風呂を沸かし、体を洗って家を出ました。

いつもの通りの駅で降りると商店街を抜け、私は大学に行く道を一つ逸れ神社に向かいました。柔らかかった木々の葉は既に硬く厚くなって陽を遮り、神社の参道も木漏れ日は差しても春よりむしろ暗いような感じがしました。それでも、神社の境内は白い石が太陽を反射して明るいものです。桜の木の下はすっかり掃き清められていて、花梗の一つも残っていません。倒れた日は余程の熱であの赤い印を見誤ったのかもしれません。春子は二日も訪れない私を不安の中で待っているかもしれません。高揚と不安が入り混じった気分で私は社の裏のあの枝垂桜に近づき、私が見たあのハートの印を探しました。私の記憶にあったその場所は、しかし木肌が薄く削られていました。ただ消した跡ではなく、薄く丁寧に削り取られた木の肌に呆然となって、私は春子の家に続く小路を目で追いました。しかし、あった筈の小路は木下闇の中で途切れていて、春子へと続く私の道は永遠に途切れてしまっていたのです。春子・・・私は呟きました。そしてあの枝垂桜を両手で抱きました。涙が両方の目頭からとめどなく流れていきました。


アパートに戻ると、玄関に麗子が佇んでいました。いつもと違い、揚げた髪を肩まで下ろしていたので、近くに行くまでそれが麗子とは分かりませんでした。

「行ったのね」

それがあの神社のことを指しているのだと分かったので、私は小さく頷きました。

「春子さんに逢えたの?」

私は、かぶりを振りました。話したとしても、麗子にも他の誰にも私の話は信じて貰えないでしょう。私は鍵を開けて、部屋に入りました。麗子は少し躊躇ってから、入っていい?と聞きました。

「うん、いいよ」

そう答えて、靴を脱ぐと麗子は大人しく私の部屋に入ってきました。

「熱は下がったの?」

「ああ。」

「病院に行ったら退院したって聞いたから」

尋ねもしないのに麗子はそう言いました。

「そこらへんに座ってくれていいよ」

ぞんざいに言いましたが、私の病室で涙を流しずっとそばにいてくれた麗子に申し訳ない気持ちがありました。ただ、麗子は教授の愛人かもしれないのです。麗子と一緒に教授の奥さんに何度も会っている私の中で、あの体の弱そうな奥さんを裏切っている麗子を許せない気持ちがありました。教授の体に跨って私に向かって挑戦的な目をしていた麗子と二人きりで部屋の中にいるのはなんとも居心地の悪いものでした。幻だと思い始めていたあの情景は彼女とこうして二人きりになることで現実感を伴って蘇ってきたのです。

「橘君。私のことを嫌っているよね」

「そんな事はないよ」

答えると麗子は髪を振り乱すように振りました。

「見たのでしょう。教授室で」

私は曖昧に頷きました。

「そうだよね」

麗子は俯き長い髪で彼女の貌が隠れました。そのまま、静かに時が過ぎました。ポトッ、ポトッと音がし、麗子の座った畳の上に雫が落ちていました。麗子の肩が少し揺れ、麗子が泣いていることが分かり私は動揺しました。夢の中で「私」が犯していた麗子が私の部屋で、私の目の前で泣いていました。

「どうしてこんなに泣いてしまうんだろう、橘君の前で」

暫くして、麗子は泣き止むとそういいました。

「橘君は、私を許さないよね。この世の中で、どうしても私を許さないのが、なんで橘君になってしまったんだろう」

「松尾さん」

私は少し優しい気持ちになって麗子に語りかけました。でも口をついて出た言葉は辛辣でした。

「看病してくれて本当にありがたいと思っている。でも、君は先生の奥さんも知っているじゃないか。あの人を裏切るなんて、許されることじゃない。恋愛は自由だが、あんな場所でセックスをするのも僕には不愉快なんだ」

麗子は肩を落としたまま、私の罵詈を聞いていました。

「私は奥さんを裏切っていない・・・誰も裏切ってない」

細く、千切れるような声で麗子はそういいました。

「先生ともセックスはしていない。あの人は勃たないの。もう20年以上も。私たちが生まれた頃から」

麗子のいう事が理解できませんでした。

「松尾さん。僕にも分かるように説明してくれないか」

そう私が言うと、麗子は途切れ途切れに話し始めました。

「先生はもうすぐ死ぬの」

「え?」

 

麗子は訥々とその夜の事を私に話しました。

「先生を誤解しないで、あれは私が一人でやったことなの」

私は麗子の髪に手を当てました。麗子はじっと動かずにいました。

「もし、先生が勃ったら、君はどうするつもりだったの」

「分からない」

麗子は小さな声で言いました。

「受け入れていたかもしれないわ。だって、私は自分の意思でそうしたのだもの」

教授は私が部屋の前から逃げ出してすぐ麗子の体に最後だけそっと手を回して、ありがとう、もういいよ、と言ったそうです。教授が私に見られたかもしれないと知ってもそれまでと態度を変えなかったのは、後で麗子がそうしてくださいと、強く頼んだからだという事でした。

やがて麗子は泣き止みました。涙の跡が残る顔で、帰るね、というと私の返事も聞かずに彼女は帰っていきました。彼女を見送ると私はぐったりとして、そのまま横になりました。色々なことが一度に起きて、私には心の中をうまく整理ができませんでした。

麗子があれほど泣く女だとは思いませんでした。どちらかといえば冷たい女だと思っていました。それに避けえぬ教授の死を、私は気づきもしませんでした。男と女と生と死は、いつもこのような不可解な関係を築いているものでしょうか。色々な思いが頭の中で渦巻いているうちに私はいつか眠りについていました。


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