第24話 崩れ去る日常③
雪道に横たえた黒い液体が、僅かずつだが未だ衰えることなく広がり続けていた。白い雪を侵食する場違いな反吐を、男は踏みにじる。その眼光は足元の
「はあ……そういうことか。この年になっても感度が高いし、いつの間にかゆいの家に移動していたし……変だとは思っていたが」
髪を無造作に掻く。
「災難だな」
男は息をつく。眉を顰め、憐憫の眼差しを一つの月に向けた。人を狂わせる魔力をも帯びた虚構の満月。人の気も知らないで堂々と居座るそれは、世界から突き放されても尚怪しく彼らを照らし続ける。
「なに、やって……」
乾ききった口からやっと出てきた言葉は、辛うじて彼女の耳に入ったらしい。
「殺したんだよ、それだけ」
淡々と彼女は答えた。
視線は亡骸となった男に、しかし彼とも目を合わせないように。
「なんで……!」
立ち尽くした身体が震える。
「つとむさんは……るいにとって大事な人なんでしょう? だから」
それ以上は答えなかった。
静寂が闇に呑み込まれ、釘の打たれた瞳が虚空を捉える。
「だから、なんで……!」
足を引きずり彼女の腕を掴んだ。跡が残るほどに強く。
「なんで殺したんだ!!」
湧き上がる怒気をぶつける。もう黒い反吐も気に留めていられない。摺り合った歯は痛み、目は高く釣り上がった。
彼女は初めてたじろいだ。やっと向けたのは、今にも泣きだしそうな顔。口を固く縫い、僕から必死に目を反らし——、
——だから言っただろ、影痕には食われるなって。
代わりに聞こえたのは暗がりに沈んだ男の声と、この場にあまりにも似つかわしくない、空気を切る軽い音。
と同時に四肢にめり込んだのは、
「糸……!?」
月の光を反射し、歯を見せて笑う銀色の糸。救済の文字を知らない無慈悲な勧告。
「簡単な話だ、影痕は人の存在——痕跡を食い荒らす」
赤段なぎは真っすぐ、糸の餌食向かって刻々と歩み寄る。
「だから、先に殺してやったまでだ」
寸刻とも言わず彼の手が口と鼻を覆った。
籠った熱が意識をぼかし、瞼を緩めていくのが分かるのに、抗う暇も与えられない。酸素が足りずに思考が
張り詰めた糸がほどけていった。
途絶えんとする五感は大きすぎる“夜”を拒絶し、春の嵐に淡くかき乱される。靄のかかった視界。フィルター越しの聴覚、消えゆく血の匂い。忘れゆく悪寒。身体が泥を回すように大きく揺れた。
「ポー……カー……」
瞼の裏に焼き付いたのは、言葉を失い涙を湛えた少女の姿だった。
「躊躇ったな、お前」
金髪の青年は、るいを抱えてゆいを見据える。
「しょうが、ないじゃない……だって……」
鼻を赤らめ少女は、今にもちぎれそうな声で言った。
「ま、殺せたんなら結果オーライか。俺はこいつを送っとくから、お前は影痕食ってろよ……腹減ってるんだろ?」
ずっと抑えていたことを、なぎは見抜いていた。
つとむの身体を
「はやく……行ってよ」
「はいはい」
なぎは林の奥に消えていった。男一人抱いているのに、重さを感じられないほど軽やかに木々を跳ねる。あれほど目立つ金髪が夜の帳へと簡単に溶けてしまった。
——ここには彼女しかいない。
首筋を舐めるような冷たい風が、気味悪く感じられた。後ろ髪を引っ張られる感覚。そのまま頭皮ごと引き抜かれてしまいそうだと。
いくら食い意地を張っていても、どれほど口元を汚しても、ここには彼女しかいない。
羽衣原ゆいは、ポーカーだから。
結局は人間でもなんでもない、化け物でしかないのだから。
満月が、独りの少女を照らしていた。
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