アイデンシティ理論

「二十一世紀前半は、自由意志の説明する理論の群雄割拠の時代だったんです」

 ファルシードは再びオープンカフェの椅子にかけ、説明を始めました。普通、パシフィカンは説明に仮想二次元スクリーンを愛用しますが、ファルシードはそれを展開することなく、すべて自分の言葉で説明してしまうつもりのようでした。

「今から数十年前、統合情報理論、グローバル・ニューロナル・ワークスペース理論、受動意識仮説――あらゆる理論が割拠し、自由意志の逆行分析が完了する日は――人間という機械の仕組みが完全に解明される日はそう遠くないと思われていたんです。でも、〈シェン・ルー〉に応用されている全脳シミュレーション技術などの脳神経分析の精細化とナノマシンによるリアルタイム脳内分析によって更なるエビデンスが積まれていくと、多くの理論が矛盾を孕んでいたことが分かってしまった。襲い来るエビデンスの前に、あらゆる仮説が敗れ去り、散って言ったんです。その後も様々な仮説が立てられては散っていったんですが、あるとき、関係学会にもある種の諦念が漂い始めました。私たちは、雲を掴もうとしているのではないかと。結局、自由意志とはただの幻想でしかなかった――現在の脳神経科学者や関連分野の学者の多くがそう考えているみたいでね」

 その手の話を武田が耳にしていた記録は複数残っています。武田自身は脳神経科学の専門家ではありませんが、脳神経に影響を与える全覚言語の研究をしている以上、その分野についてもある程度の知識が求められるのです。

「自由意志は幻想、ですか」

 ただ、それ以上にその言葉が武田の脳内のニューロンを不整な発火に導いていました。何といっても、ファルシードは自由意志党の党首なのです。

「まさか、あなたからそんな言葉を聞くとは思いませんでしたよ」

「俺だって、前時代的なのは出で立ちだけですよ。大事なのは、人間が本物の自由意志を持って行動することじゃない。そんなことしたらどうなるか。その末路はいくらでも歴史書を紐解けば載っている――そこまで俺は馬鹿じゃないし、パシフィカを滅ぼすテロリストになるつもりはない。ただ、全覚文に操られている――その感覚が強い厭世観を生むのは間違いない。人間は元来、自ら選択をしたい生き物なんです。だから大事なのは自由意志に基づいていることではなく、

「つまりあなたは――」武田は間髪入れずに聞き返そうとして、そこで一瞬言葉を切りました。

「躊躇わなくていいんですよ、タケダさん」

「なら、言わせてもらいます」

 武田は一つ咳払いを挟んだ。

「自由意志に基づいて我々は行動を選択しているという錯覚をパシフィカンに抱かせる――それがあなたの目的ですか」

「正確には、目的を達成するための手段、というべきですかね。適度な全覚文の利用による、社会全体の効用最大化と、自由意志の幻想を抱くことによる個々人の幸福、人間性の担保――その両取りこそ、が求める真の社会像です」

 武田は一つ息を吐き、背もたれに体を預けました。

「どうやら、僕はあなたを誤解していたのかもしれません。思っていたより数倍、あなたはマシな人のようですね」

「よく言われますよ」ファルシードは気を悪くした様子を見せずに、再び口角を上げました。

「それで」横からクワッカが身を机に乗り出します。

「先ほど仰った、『本質的には一緒』――これは一体どういう意味ですか」

「自由意志は幻想に過ぎなかった――俺はそう言いましたが、実は一つだけ、検証に耐えられた仮説があるんですよ」

「教えて」

「事後解釈仮説、というものです。物語仮説とも呼ばれています。ただ、これを認めるには、自由意志の定義を少しばかり変える必要がある。多くの場合、自由意志が意味するところは、『外的要因に依らずに、自分の意志の決定権を自らが握っている』ことだと思いますが、この説の場合には、『そのように自分が感じている』という定義に変わります」

「それはつまり」武田が口を開きました。

「あなたの言う、『自由意志の幻想』に少し近いものですかね」

「ええ、そうです」ファルシードは頷きました。

「大事なのは、本当に自分の意志を外的要因と独立に持てることじゃない。そうであると、自らが感じていること――そのような状態を自由意志が存在している状態と定義するのなら、事後解釈仮説は成り立ちます」

「神経科学的な解説はないの」

 今度はクワッカが詰めるように訊きます。

「人間の左脳には〈インタープリタ・モジュール〉という神経集合体があります。これは自分の行動を、事後に解釈するモジュールです」

「事後に解釈……」クワッカが復唱しました。

「ええ、たとえば目の前にいる人が突然腕を振り上げたら――」

 そう言って、ファルシードは自らの腕を振り上げ、クワッカに殴りかかる体勢をとりました。クワッカは両腕で自らの頭を庇い、武田は思い切り立ち上がり、手で制しようとしました。

 ただ、ファルシードは構えただけで殴り掛かることはありませんでした。すぐに構えを解くと、呆気に取られているクワッカに訊きました。

「アルジ・クワッカ、何故今、君は腕で頭を庇った?」

「それは――」

 答えるより早く、ファルシードは棒立ちの武田に向かって不敵な笑みを投げかけました。

「ヨウヘイ・タケダ、何故今、君はクワッカを庇おうと立ち上がった?」

「私が叩かれると思ったから」震える声でクワッカが答えました。

「アルジが殴られると思ったからだ」武田も続きます。

 ファルシードは椅子に深く腰掛けて足を組むと、髪をかき上げました。

「どちらも違う」

「どういうこと」クワッカが目を細めます。

「俺が殴る構えを見せた。その視線はアルジ・クワッカに向けられている。故にファルシードはアルジ・クワッカを殴ろうとしており――本当にそんな思考ができる程、人間の思考は速いと思うか?」

 武田は俯いて、ぼそりと言いました。

「そんなことをしていたら間に合わない」

「そうだ! 人間は思った以上に、思考も、行動も、自動で行われている。なのに自らが小脳のゾンビだと感じる人がいないのは何故か。それは〈インタープリタ・モジュール〉が意識せずに行った行動の数々に、後から理由付けを行い、その行動がまるで自分の意志によって行われたものだと錯覚させるからだ。つまり、それは物語だ。行動があって、理由が後から解釈される。その連綿と続く営みがシームレスに繋がると、人それぞれの物語になる。それゆえに、全覚言語オールセンスの――心を操る魔法の最中にあって、人は滅多に自分の自由意志の不在性を感じない。脳の自動思考に従って行動するのと、全覚言語オールセンスに唆されて行動するのには、本質的な違いはないんだ。

 そして、自由意志が後付けのものだと分かれば、思考の主体なんてものも、自我なんてものも、単なる錯覚でしかないことは自ずと導かれる。さて、脳というものは、神経の集合体だ。そこには明確に個というものはなく、ただ、無数の神経細胞が見せる発火パターンを〈インタープリタ〉が解釈することで、それが一つの個であると――アイデンティティであると錯覚する。つまり、自由意志とは、意識とは、ある集合体を解釈し、系としての個として捉えたときに見える幻に過ぎない」

「意識も神経の集合体が生み出す、一種の創発現象だと?」武田が訊きます。

「ええ。そして、神経細胞の集合体の行為を解釈して得られる人間の自由意志と、人間の集合体の行為を解釈して得られる種としての自由意志の間に、本質的な差はあると言えるか――これで君の質問の答えにはなったかい? アルジ・クワッカ」

 ファルシードの解説はクワッカを圧倒していたと解釈するのが妥当なようです。事実、彼女は珍しく何の応答もできていませんでした。

「ファルシード、一ついいですか」

 対照的に、武田はファルシードの話術に飲まれてはいないようでした。

「何でしょう」

「今、あなたは言いましたね。集合体を解釈すれば、事後解釈仮説で言うところの、集合体としての、系としての自由意志を――つまり系の物語を捉えることができると」

「ええ、そうです」

「それなら、解釈技術さえあれば、見えるということですか。全覚言語の、」 

 ファルシードは一瞬間を挟んでから、白い歯を覗かせた。

全覚言語環境ASLEだけの物語でよろしいんですか?」

「より大きな系の物語を解釈できると? 一体誰がそんな理論を」

「神経計算学者マイケル・マクファデン。〈アイデンシティ理論〉の提唱者です」

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