私を見つけて

 三万五百六十三の聴衆で沸き立つセントラル・パシフィック・ドームの中央ステージに、ファルシードは立っていました。彼は全覚文依存からの脱却がもたらす様々な損益についてのエビデンスを、空中に浮かべた無数の二次元仮想スクリーンにこれでもかと投影していました。

 三万五百六十三のパシフィカンたちは記されたグラフやシミュレーションの結果に目を奪われ、少なくともファルシードの主張が反全覚言語論者の戯言ではないことは納得している様相を見せています。

 その光景を、バーク、クシーの二人は上空十数メートルのところから見下ろしていました。そこでは、まるで彼らが大勢の注目を受けているかのような錯覚を覚えることができました。

「空中に浮かぶ私たちがまるで注目を集めているみたいですね」

 クシーがけらけらと笑います。

「呑気なことを言ってないで怪しいやつを探せ」

 バークがたしなめると、間延びした声で「はーい」とクシーは答えました。

「タケダ、発話状況はどうだ」

 バークが空に向かって問いかけると、武田の声が降ってきました。

「ドーム内部の全覚文発話状況はすべて僕の〈リュシャン〉にモニターさせています。干渉はできませんが、〈サイエンス・ファースト〉の発話があればすぐに分かります。それに、急造ですが、〈サイエンス・ファースト〉受話者の表情抽出アルゴリズムで全聴衆の表情分析も行わせています。キリフ・アイルセンの殺人当時の表情変化をベースにしたもので、有用性は決して高いとは言えませんが……」

「了解。怪しい奴がいたら教えてくれ」

 バークとクシーは散り散りになって、二次元仮想スクリーンの森の中、中空を滑っていきます。


 中央ステージの真下の警備室には二台の五感VRカプセルが用意されていました。擬似的な明晰夢状態を作り出すもので、多くの仮想ワークステーションとは異なり、自分自身の肉体そのものを仮想化させられるのみならず、運動神経と仮想体の運動をシームレスに連結できることが大きな利点です。

 その二台のカプセルにはそれぞれバークとクシーが横たわっていて、二人はセントラル・パシフィック・ドームのリアルタイム再現環境上に自らを仮想化し、上空からの監視作業に入っていました。

 残った武田は二人を見守りつつ、セントラル・パシフィック・ドームの警備担当者と共に通常の二次元仮想スクリーンに囲まれながらステージ付近を監視していました。

 そこにチェンがやってきました。

「怪しいやつはいたか」

 今日のチェンやいつも以上に人工毛の艶が光り、実服を彩る上品な銀色は仮想スクリーンの光を滲ませて反射させ、柔らかなグラデーションを形成していました。

「構造銀の柄ですか、お似合いですね」

 武田の〈リュシャン〉が代わりにチェンに告げた。『今のところはいませんよ』

「それより、これから応援演説でしょう? 準備はしなくて大丈夫ですか」

「準備は完璧。いつもな。それより、君たちの言う、このセントラル・パシフィック・ドームで創発性全覚文の発話が起こるという不確定情報の方がよほど私の神経を悩ませる」

「ご心配には及びませんよ。自由意志党の雇った警備員たちが協力してくれています。そしてこのパシフィカで武器を手に入れることは困難である以上、〈サイエンス・ファースト〉の受話者は素手か拾ったもので殴打するくらいしか殺害方法がない。仮に狙われるのがファルシードだとしても、殺す前に警備員が駆け付けます。万が一、襲撃の対象があなただったとしても、それは変わりないでしょう」

「狙われるのが登壇者とは限らない。聴衆が隣の聴衆を突然階段から突き落としたりすることも考えられる」

「だから、僕は〈リュシャン〉にモニターさせているんですよ。〈サイエンス・ファースト〉の発話の兆候はあるか。受話の兆候はあるか。もし先に見つけられたなら、警備員をそちらに向かわせ、隣の聴衆を襲う前に無力化できるかもしれませんから」

「そうかい。何はともあれ、殺人は絶対に防いでくれ。そうでなければ、自分の人生を棒に振ってまで君の論文提出を食い止めることができなかった自分自身を、私は死ぬまで悔やむことになる」

「後悔することはありませんよ、教授。これ以上殺人事件は起こさせません」

 チェンは部屋を離れ、ステージ真下の控室へと向かいました。

 ちょうどそのとき、武田と隣の警備員の耳にバークの声が飛んできました。

「こいつを見てくれ。様子がおかしい」

 バークの声と共に、空いていた空間に大きな仮想スクリーンが自動的に浮かびました。

 それは三万五百六十三の聴衆の中の一人、セワピル・ホグッペという十九歳の男性を上空から捉えた映像でした。

 ホグッペは周りの聴衆と同じく空中に浮かぶ無数の二次元仮想スクリーンに目を奪われている様子でした。しかし、他の人がそこに示された無数のエビデンス同士を結び付け、ファルシードの主張への納得感を強めていく中、彼だけはまるで宙を踊る数字に取りつかれているような目をしていました。そして、腕が微かに震えていたのです。

「どうだ、タケダ、〈サイエンス・ファースト〉の発話はあるか?」

『私が代わりに答えるけれど』武田の〈リュシャン〉が即答します。その声はバークやクシーにも聞こえていました。

『同じ発話パターンは全く見られていないわ。けれども、〈サイエンス・ファースト〉の九つの構成素のうち、三~五は常にみられる。いつそれが出揃うかは分からない』

「今ホグッペが受容している構成素をリストアップできるか」

 武田が問うと、〈リュシャン〉はすぐにその情報をホグッペの写るスクリーンの周囲に展開しました。周辺の光景の時間変化――すなわち光素フォトニム速素ヴェロシティムの複合素で二つ、音素フォニム熱素ヒーティム、風圧つまり圧素プレッシャレム。この五個が既にホグッペが受容しているようでした。

「この五個の組み合わせを他に受容している者を探せる?」

 無関係な仮想スクリーンの幾つかが消え、空いた空間に巨大なパノラマ型の三次元仮想スクリーンが浮かびます――ミニチュアの仮想セントラル・パシフィック・ドームです。

『全部で六人のようね』

〈リュシャン〉が告げると同時、仮想セントラル・パシフィック・ドームには六つの赤い点がプロットされていました。その内の一つこそホグッペでした。

「これをバークとクシーに共有するんだ」

『もうしてるわ』

〈サイエンス・ファースト〉の幼体だ、と武田は小さく呟きました。

 複数の構成素からなる全覚文はそれら構成素がすべてそろって初めて意味をなす――発話したとみなされますが、その一部のみがそろった場合に、発話の前兆を見せることがあります。既に全覚文として機能し、人間の脳波の想起パターンに干渉してはいるものの、行動を大きく変える程ではなく、効果が認知できない――潜伏全覚文と類されるものです。

「今送った六つの赤い点が、〈サイエンス・ファースト〉の発話候補点です」

「タケダさん。これって、六人に対して同時に発話が起きるってことですか」

 今度はクシーの声が武田の耳に響きました。

「いいえ。これらはあくまで〈サイエンス・ファースト〉の幼体に過ぎません。その構成素の一部分を持ち、かすかに人間の脳波に影響を与えていますが、有害な影響を与えるに至ってない。彼らの誰かが、これから欠けている残りの全覚素を受容し、〈サイエンス・ファースト〉を受話することになると思います」

「つまり、私たちはこの六人を用意周到に見張っていればいいって訳ね」

「ええ、。見張りは〈リュシャン〉に任せましょう」

「了解」バークが答えました。


 二台の五感カプセルの蓋が立て続けに開き、バークとクシーの二人が目を覚ましました。

 バークは素早く降り立ちながらも、バランスを崩して手をつきました。

「立てますか」駆け寄った武田が手を差し伸べました。

「大丈夫」呼吸を乱しながらも。バークは壁に手をつきながら立ち上がりました。

「少し眩暈がしただけだ」

「シャットダウンする前、すぐ起き上がらないように、って注意受けたじゃないですか」

 クシーは危なげながらも、慎重に床に降り立ちました。

「見張りを急がないとな」バークが荒い息の中言います。

「ご心配なく。既に警備側には連絡をして、五人の傍に移動させています」

「残りの一人は」

「ステージの近くです」

「つまり――」バークは天井を見上げました。武田もクシーもつられて顔をあげます。

「この真上ということか」

「僕たちで見張りましょう」


 階段を昇った先はステージのすぐ真裏でした。そこには椅子に座って出番を待つエイドリアン・チェン教授と自由意志党の党員が数名控えています。ファルシードの意気揚々とした演説がよく響いて聞こえます。

 武田たちの姿を見るや否や、党員が一人迫ってきましたが、チェンがそれを手で制します。

「私の付き人だよ」

 党員は武田たちに一瞥をくれると、元の位置に戻っていきました。それを目で見送ると、険しい視線を武田に向けました。

「何故ここに来た」

「発話の兆候が見られたんですよ」

「部分全覚文か」

「六ケ所で同時にです」

「六ケ所?」

「だから、うち五か所は既に警備側に警戒を敷いてもらっています。残る一人はステージのすぐ近く。だから我々が来たんです」

「そうか」

 チェンは仏頂面で答えて俯きました。それ以上会話を拒否する姿勢でした。武田もバークらのところに戻り、三人は壁際に立ってステージを覗き見みました。アンチ・パシフィックの先導者の背中が彼らの目に入りました。

「デモンストレーションって可能性はありませんかね」

 俯いていたクシーが思い出したように言いました。

「デモンストレーション。自由意志党が?」復唱したのはバークです。

「確かに、有害な全覚文による殺人現場を作り出せば、全覚文依存の危険性を周知できるという訳か」

「まさか……」

武田が声を震わせました。

「いいや」バークはすぐさま自分で否定しました。

「パシフィカンに一件の殺人事件を見せたところでどうなる? 一件の事件が起こっても五件の事件が防げれば反対する理由はないはずだろう」

「だったら」クシーは顔を上げて、引き笑いを浮かべます。

「数の暴力を見せればいいんじゃないですかね。ここには被害者も加害者の候補もいっぱいいるんですよ」

「それはあくまで」武田が割って入ります。

「自由意志党が黒幕なら、の話でしょう?」

「ええ、そうですよ」開き直ったかのようにクシーは振り返ります。

「あくまで仮定の話です。でも、時々思うんです。私たちPCDは、そのパシフィカにおいてですら滅ぼせなかった最後の原始犯罪と相対する掃討部隊だから、嫌でも原始犯罪を忘れることはないけれど、パシフィカは全覚文によって、人類史上最も犯罪と縁の薄い社会を作り上げた。それで本当に良かったんですかね。だって、原始犯罪はどの社会にもあり続けた。それはつまり、犯罪に及ぶ人間の心理と、人間が作った社会に齟齬があるということを意味しているんですよ。だから、社会というものは――都市というものは人間の総体にとっては最適でも、個人にとってはそうとは限らないんです。なのに、私たちは齟齬の証明である犯罪だけを撲滅して、まるで人間たちが平和になったかのように自分自身を騙している」

「クシー準捜査官。えらい感傷的になって、一体どうした」

 バークが眉を上げた、そのときでした。

 武田の〈リュシャン〉が三人の耳に向かって吠えました。

『九つの全覚素が出揃ったわ! ステージの一番近くにいる女性よ!』


 一人の女性がステージに登っていました。二つの眼窩と額から覗く三つの〈スマート・アイ〉がファルシードを睨んでいます。

人体改造者バイオ・ハッカーか。悪いが」ファルシードは一旦話を切って、彼女の方に向き直りました。

「ステージへの立ち入りは遠慮いただきたい」

「理論上は私が改造した人工声帯が放つ音素フォニムは――全覚言語オールセンスは心拍に共鳴し、不整脈を引き起こす。それを

「何を……」

ファルシードが眉をひそめたそのとき、女性は口を大きく開いて、息を吸いました。

 自由意志党の党員が出るより早く、バークが飛び出しました。ただ、彼よりも一歩早く、その脇を小さな影がすり抜けた者がいました。ダイエル・クシーです。

「おい、クシー!」

 クシーは誰よりも早く、ステージの中央、人体改造者バイオ・ハッカーの女性目掛けて駆け抜けていきます。一方の人体改造者バイオ・ハッカーは息を吐くように、その違法な人工声帯から人間の可聴領域を超えた指向性の音波を放ちました。けれども、その超音波に気付いた者はいませんでした。

 ただ一人、それをまともに受けたファルシードを除いて。

 彼は突然せき込み、その場に膝をつきました。人体改造者バイオ・ハッカーに詰め寄ろうとした自由意志党の党員は方向を変え、ファルシードの方に駆け寄り、彼を支えようとします。

 そのファルシードと人体改造者バイオ・ハッカーの間に、クシーは入りました。

 クシーが体を硬直させました。

 それでも、ぎこちない所作で彼女は駆け寄ってくるバークの方に目をやりました。

『前に、言いましたよね、バークさん』

クシーは口を動かしませんでしたが、意を読み取った彼女の〈リュシャン〉が、クシー自身の声でバークに囁きかけました。

『人の命は、本人や大切な人々からすれば、それは棄却できる問題じゃない、って』

「どういう意味だ」

『バークさんが私を棄却できるか、

 バークは足を止めてしまいました。

 クシーが突然呻き出したのはその直後でした。自分の胸を庇うように背中を丸め、息を荒らげ、バークに視線を投げかけて――そのまま前に倒れ込みました。

 その間、バークは一歩たりとも動けませんでした。

 彼はただ、人体改造者バイオ・ハッカーの女性が武田や自由意志党党員らによって押さえつけられる光景を呆然と眺めていただけでした。


 その頃、アルジ・クワッカは一人ディファーに来ていました。本来ならば今日は武田とここに来る約束で予約を入れていたのですが、創発性全覚文の新たな発話時点がたまたまこの時点だったという理由で、PCDの捜査員と共に発話地点であるセントラル・パシフィック・ドームに行ってしまったのです。

 ただ、クワッカはさほど落胆してはいませんでした。ディファーには二次元生命体がたくさんいるのです。一人の来訪は逆に言えば、遠慮せずにディファーの二時次生命体の生物相に耽られることを意味していました。

 さて、二次元生命体はモールス文字を発明していました。そもそも、紙が一次元になる二次元世界では、文字のバリエーションが非常に少なくなります。線と点の組み合わせでしか文字が作れないのです。その文字の制約性が、生物種に発明させる文字をモールス文字に限定したために、多様な種が同じ文字を使うようになり、それ故にディファーではモールス文字による異種間意志疎通が珍しいものではなくなっていました。

 フェトゥサの子孫フェット・ララ・クーンは体表に自在にモールス文字を出現させ、それによって意志疎通の成り立つ社会を作り上げていました。フェット・ララ・クーンの街トン・ツー・ツー・トンは無数の家々が縦に連なった〈棟〉が並ぶ街で、〈棟〉の上部が街路となっていました。街路に空いた穴を下っていくと、両脇にある〈棟〉の側面に家々の扉があります。更に、〈棟〉は高く、フェット・ララ・クーンはこの都市にいる限り、完全にナガルドンの脅威から逃れることができたのです。

 更に、フェット・ララ・クーンは他のモールス文字を使う種族との交流も深め、着々と二次元文明を作りつつありました。実際に、滑空生物レ・ショー=ラは滑空の飛び出し台として〈棟〉を使わせてもらえるようフェット・ララ・クーンのモールス文字を収斂進化によって事実上学習していましたし、〈棟〉の支柱となっている樹木様の定住型生物アンテセラ・スパイネスは街の形成に力を貸し、またその樹表に巨大なモールス文字を自在に顕現させることで、隣街との交信を可能にする一方で、自身を食べようとする生物からフェット・ララ・クーンに守ってもらうという共生関係を築いていました。

 しかし、クワッカがその街を観察していると、フェット・ララ・クーンの街に一匹の四つ目二足獣がやってきました。ジョックレムです。

 ジョックレムの体表にはモールス文字紋が記されています。「反対側へ行かせてほしい」という意味です。

 一匹のフェット・ララ・クーンはそれに応対し、ジョックレムが街に昇れるようスロープを下ろしました。ジョックレムはモールス文字紋をありがとうに変化させ、街に入りました。そして町の中心部で突如として牙を向きました。次々から次へとフェット・ララ・クーンを襲い、食らったのです。四つ目は――前後方の両眼×2――はやはり肉食獣の印だったようです。

 トン・ツー・ツー・トンは崩壊し、彼らは街の両サイドへ逃げていきました。その多くが原野を彷徨っている、飢えていたナガルドンの餌食となりました。

 どうやら、二次元世界におけるモールス文字は模倣が簡単なことから、捕食者側がそれを体表に記すことができるようです。眼状紋ならぬモールス文字紋といったところでしょう。

 クワッカが〈アルジェブリカ〉を展開しようとしたそのとき、彼女は手を止めました。モールス文字で思い出したようです。

 武田が彼女に見せていた創発性全覚文の発話点の四次元ログ。それらを時間軸で見れば、時間的な間隔が大きく空いているものや、空きがほとんどないものがありました。その二種の間隔はほぼ一定で、まるでモールス文字のようだったのです。駄目元で、試しに、クワッカはそのモールス文字を翻訳してみました。

 その結果を見たクワッカの手から、フォークが滑り落ちました。


 私を見つけて。

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