文意創発
海面上レベルの巨大ドームを支えるレベルCの円柱型ビル林の一つが、
その十三階にあるのが、
「一昨日はお疲れさまでした、タケダ。すみませんねえ、悪童症候群を解決に導いた全覚言語学会の若きホープに違反使用検査の仕事なんて簡単な仕事をお願いしてしまって」
満席のワークスペースの中を抜けながら、ショアン・レンは隣の武田洋平に言いました。ふっくらとした丸顔に、仮想髪すらない頭部は威厳の特徴量に著しく欠けてはいますが、神経情報学の博士号を持った〈シェン・ルー〉の扱いに長けたエンジニアであると同時に職員の監督業務を兼任しており、武田の直属の上司に当たる人物でもあります。
「状況は理解しています」武田は周囲を見渡しながら言いました。
「人員不足なのは分かっていますから」
「どうでした、ファルシードは」
「残念なことに、自由意志党には全覚文の不正利用の痕跡は認められませんでした。癪ですが、彼らは信者獲得にはいかなる全覚文も使っていないように思えます」
「余程彼が嫌いなようですね」
レンはにやにやと笑いました。
「だって、自由意志党ですよ? 自由意志! そんなものを信奉しているのは、人間が特別な種だと驕っているからですよ。ただ――」
「ただ?」
「情報源は匿名の通報者とのことですが、なんかくさくないですか」
あえて
「そこを疑っても仕方ありませんよ」レンは笑い飛ばしました。
「自由意志党はここ半年で急速に支持層を広げて一躍第三党にまでのしあがった。危機感を覚えた第一党、第二党が何かしていても不思議ではないと思いますが」
「根拠がおありで?」
レンは半ば嬉しそうに顔を武田に寄せ、囁くように言いました。
「ただの無根拠で無責任な憶測です」
「全覚言語学会の若きホープも無責任な発言をするんですね」
「僕だって人間です。それで、次の仕事って何でしょうか」
ちょうど、レンが足を止めました。二人はワークスペースの一帯を抜け、仮想ワークステーションのブース前に着いていました。
真っ白な三メートル四方の滑らかな壁面に覆われた仮想ワークステーションの中で、レンが口を開きました。
「あなたに今度やってもらいたいのは、有害全覚文の発見です」
武田が目を細めました。
「わざわざ僕に頼むということは、既存の有害全覚文の検出ではないみたいですね」
「もちろん、未知の有害全覚文の発見です。ここ二十四時間で、四件もの殺人事件が起きたのはご存知で?」
レンはきゅっと目を絞った。
「その件って、有害全覚文なし、と結論付けたと聞きましたが、何故未知全覚文の可能性があると?」
「PCDからの再捜査依頼です」
「再捜査依頼? PCDが? 一体何故」
「依頼者は文意喪失を疑っているみたいですよ。四件の殺人事件ではいずれも〈ローレライ〉が起動していながら、犯人は皆〈わたしと共に歌いましょう〉の効果を受け付けていなかった。けれども、その依頼者は犯人たちに一切の環境要因を排除した上で〈わたしと共に歌いましょう〉を発話させたところ、全員の受話を確認した。そのことから、彼らが〈歌いましょう〉の失読者である路線はなくなった。それで、文意を喪失させる未知なる全覚文があるのではないかと考えているみたいですね」
「PCDの捜査官にもそれだけのリテラシーを持っている方がいるとはね……。名前は分かります?」
「エン・バークというそうです」
「覚えておきましょう」
武田とレンの二人は仮想レベルHの極夜帯に降り立っていました。
存分に照度の落とされた通りを、目に刺さる原色のホログラムが飛び交う中、ライムグリーンの仮想髪を振りまく他性が一人、足早に進んでいました。
「第一の事件の犯人、マハ・ユールです」
レンがその背中を示しました。そのユールの後を極夜帯の闇に紛れて追う黒服の姿を二つ武田は認めました。男性的な体格をした長身の他性とその胸くらいまでしかない小柄な女性でした。そしてその二人のすぐ後ろを、真っ白な実服とスキンヘッドのままの中性的な体格の人型の仮想体〈シェン・ルー〉は歩いていました。
これは原始犯罪課のエン・バーク捜査官とダイエル・クシー準捜査官が〈シェン・ルー〉を連れ、マハ・ユールの事件発生直前の環境を再現したものの再再現です。
あの二人の捜査官はログ再生であり、武田たちはインタラクションを取ることができないものの、そもそもがソフトウェアの〈シェン・ルー〉だけは違いました。
「まずはしばらく、マハ・ユールの行程を追ってみましょうか」
武田たちはユールの後を追うバークらのさらに後を追うことにしました。途中、アンドロイド風俗店でユールが乱れるのに閉口こそしたものの、それは記録の中の二人の黒服も同じようで、あっけにとられた四人に見守られる中行為に耽るユールの姿はいささか滑稽にも見えたことでしょう。
その間〈シェン・ルー〉だけは無表情を全く崩しませんでした。しかし、行為の刺激もまた全覚素の一つになりうるからとその刺激はカットされることなく〈シェン・ルー〉に与えられるのです。
「ハハッ! 面白いでしょ、タケダ。こいつ、こんなポーカーフェイス気取ってるくせして二十一回もイってるんですよ」
行為がクライマックスを迎える頃、唐突にレンが噴き出しました。武田はポーカーフェイスとやらを全く崩す気配のない〈シェン・ルー〉の顔を見ましたが、ユールが体を痙攣させているというのに、〈シェン・ルー〉は眉一つ動かしません。
間も無く風俗店を後にし、帰路につくユールをオートモービルで追いかけている最中、レンは武田に訊きました。
「今回の一連の殺人事件の共通項を知ってますか?」
「一連?」
武田はその言葉に引っ掛かったようでした。
「これら四件の事件に関連性を見出す合理的理由が?」
「さすが、全覚言語学会の若きホープ。奇天烈な事件が起きても、冷静に状況を分析できているようですね」
「年に二、三件しか起きない殺人事件が四件も二十四時間以内に起きた――その事実は人を惑わせるかもしれませんが、事件に関連性があるとは言い切れないでしょう」
「あると言ったら?」
レンはにやりと笑いました。武田は表情を変えず、冷静に答えました。
「一連の殺人事件、ではなく離散殺人集合、とでも呼びますか」
「ハハッ! その言葉、気に入りました!」
レンが高笑いしました。既にオートモービルは刺激の強い極夜帯を離れ、薄明の朝夕帯に入っています。再現環境の時刻は間もなく夕五時半。未明と呼ばれる時間帯です。
「それで、離散殺人集合の犯人集合たちは共通項を持っていたんです。全員が三十未満の純パシフィカ人だったんです」
「それは確率的な揺らぎの範疇を逸脱する事象には思えませんが、パシフィカ生まれのパシフィカ人と全覚文、となれば話は変わりますね」
武田は目つきを鋭くしました。
「さすが神童! その通りです。パシフィカ人のように、仮想知覚に頼る機会が多くなると、脳構造もそれに適合した形になる。そしてそれは、幼少期からその環境にあった純パシフィカ人程顕著だ。現に、全覚文の実に四割が、純パシフィカ人により強い効果を有意に示すことが明らかになっていますから」
「でも、レン。〈シェン・ルー〉はアジア人の神経学的特徴を色濃く受け継いでいるはずでしょう」
「もちろん、世界の人口比で重みづけして標準モデルを作っていますからね。だから、同じようにしてパシフィカン仕様にチューニングするんですよ」
オートモービルから、別のモービルにまたがる〈シェン・ルー〉の頭部目掛けてレンは手を伸ばしました。その手は〈シェン・ルー〉の頭部に触れることはなかったが、レンが声に力を籠めると、レンの手から薄紫の稲妻が迸り〈シェン・ルー〉の頭蓋を穿ちました。レンは〈シェン・ルー〉のエンジニアです。
「手の込んだ演出ですね」
「〈シェン・ルー〉の神経構造をよりパシフィカ人に近づけるんですよ。仮に離散殺人集合を誘発した未知の有害全覚文があるとして、その毒牙にかかったのは四人とも純パシフィカ人であったことが確率的な揺らぎではなかったとしたら、この新しい〈シェン・ルー〉もまた快楽殺人犯になり果てるだろうと予想できる訳です」
更にレンが力を込めると、雷鳴が通りに爆ぜました。武田の視覚は自動的に強い光量をカットし、視界をブラックアウトさせましたが、それが元に戻ったときには、既にレンは腕を下ろしていました。そして相変わらず、〈シェン・ルー〉は無表情で先を行くユールの背中を見つめていました。
「まだ変化はないように見えますが」
「これからのお楽しみですよ、ベイビー?」
炭素ナイフ片手に自宅と逆方向に駆り出したユールの足取りも、目つきも既に常人のそれとはかけ離れていました。しかし、武田が脇目に見た〈シェン・ルー〉は未だにそのポーカーフェイスを保ったままでした。
ユールは人工外性器〈アンドロエゴ〉が勃起させ、ふらふらとはしながらも素早い足取りでシャード・カルタリに近づきつつありました。それを武田、レン、そして再現された二人の黒服は見守っています。
ユールが炭素ナイフを構えます。起動した〈ローレライ〉が〈わたしと共に歌いましょう〉の発話を始めました。それを受話した瞬間、ユールは腕を付き出しました。それを抜くと同時、まるで体内を稲妻が駆け抜けたようにユールは体をピンと張りました。
レンがにやりと笑います。
「随分と早漏だこと」
ユールを支配した痙攣が他性を解き放つと、すかさずナイフをもう一度構え、突き出します。再び痙攣がユールを襲いました。
そのとき、聞き覚えのない、跳ねるような声がしたのを、武田の聴覚は捉えていました。聴覚分析AIが既にその発信源を突き止め、方向感覚モジュールを乗っ取り、その確かな発信源を武田に分からせていたのです。
そちらに目を向けた武田が見たのは、背筋をピンと張った〈シェン・ルー〉でした。それはいつにも増して無表情でしたが、その顔の筋肉が強張っているのが武田にも分かったようです。
「どうした、〈シェン・ルー〉?」
武田の問いにそれは答えません。
ユールがもう一度刃を突き立て、抜き、射精する――そのときです。カクン、と〈シェン・ルー〉の体躯のバランスが変わりました。見開かれた目は焦点をどこにも持っていませんでした。
そして次の瞬間、〈シェン・ルー〉は白目を向き、ひどく歪んだ表情を浮かべながら男性的とも女性的ともいえない素っ頓狂な叫び声を上げて床に崩れ落ち、のたうち回り始めました。
「一体、これは……」
〈シェン・ルー〉のこんなあられもない姿を見るのは初めてでした。
ただ、レンだけは負けず劣らず顔を不気味なくらいに歪め、高笑いを浮かべていました。
「ハハッ! 傑作だ! いいねえ、〈シェン・ルー〉!」
再現が終了した後も、武田は白目を向いた〈シェン・ルー〉の残像を飲み込めずにいました。レンは既に平静さを取り戻し、真っ白な立方体状の部屋で次の準備を始めていました。
「さて、早速ですが見てください、タケダ。これが先ほどの、殺人時の〈シェン・ルー〉の脳波パターンです」
部屋の真ん中に浮かんだ半透明の仮想神経網の中で、花火が散るようにニューロンが喘いでいます。
「そしたら、続いてこれを」
レンが空の中に球体を描くように両手を動かすと、もう一つ、仮想神経網が浮かび上がり、〈シェン・ルー〉の仮想神経網に並びました。
〈シェン・ルー〉の仮想神経網が喘ぐと同時、他方の仮想神経網でもニューロンの発火が起こりました。武田の眼にはそれは非常に酷似して見えました。
『一致度を計算するわ』
気を利かせた武田の〈リュシャン〉が二つのデータを比べようとしましたが、それよりも早く既に計算をしていたレンの〈リュシャン〉が二つの仮想神経網の合間に一致度を表示させました。
九十七パーセント。
他方の神経網も〈シェン・ルー〉と同じ一般全脳エミュレータベースのようではありますが、この一致度を無視して議論を進められる程、武田は
「この、もう一つの発火パターンは一体、どのようなパターンですか」
武田が訊くと、案の定レンは「ハハッ!」と瞳孔を開き、オペラ歌手のようにビブラートを効かせて言いました。
「セックス! オーガズム!」
「その脳波パターンが〈シェン・ルー〉のデータベースにあることがちょっと衝撃ですが、それはともかく、マハ・ユールが刺殺しているとき、〈シェン・ルー〉もまた、性的な快楽を感じていたと?」
「その通りです! 気持ちいいセックスをしているときと酷似した脳波パターンが〈シェン・ルー〉の脳に生じているんです」
武田は口元を押さえました。殺人がオーガズムの引き金になる? 武田の脳内のデータベースにも、〈リュシャン〉を介した脳外拡張データベースにも該当する全覚文はありませんでした。
「ですから、これは恐らく、私たちが初めて出会う全覚文になるんです」レンは嬉しそうでした。既知の全覚素を用いていない全覚文の発見は非常に難しいのです。
「既知の有害全覚文を見つけ出すのが難しくないのは、その構成素のパターンがデータベースに登録されているからでしょう、タケダ。でも、未知の全覚文の場合は違う。何がその発話のための構成素なのかすら分からない。そうなれば、その全覚文は実在しているのか、存在を訴える者だけが見た幻なのか分からない。そして本当にマハ・ユールを殺人犯に仕向けた全覚文が存在するとしたら、これは間違いなく未知の部類に入る訳です。まあ、つまり言いたいことは、これが有害全覚文の可能性は十分にあるということです。そして、この不可視の新たなる有害全覚文は、殺人とセックスの快楽を結び付ける――そんな危険な誘惑の香りを持っているんです」
「そしておまけに、〈わたしと共に歌いましょう〉の文意も喪失させうる、と来ましたか。随分と質の悪い有害全覚文ですね。これが実在すれば、ですが。――レン、さっきの場面、もう一度見せていただいてもいいですか。〈わたしと共に歌いましょう〉の発話の瞬間を」
「もちろん」
仮想空間の時が巻き戻り、撒き散らされた血のすべてがカルタリの背中に吸収され、彼の体躯は再び起き上がりました。ユールがナイフを構えたその場面で時が一旦停止します。
「〈シェン・ルー〉に今度は〈わたしと共に歌いましょう〉の受話をさせずに場面を再現します」
『了承したわ』
武田の〈リュシャン〉が〈シェン・ルー〉の設定を変更しました。
「時を進めてくれ」
〈わたしと共に歌いましょう〉のハープの旋律が通りを満たし、再びユールはカルタリの背中に炭素ナイフを突き立てます。
けれども、先程は度重なる絶頂の波に溺れていたはずの〈シェン・ルー〉が今度は真顔を保ったまま、事態を静観していました。
「これは……」
レンが目を丸くしました。
「驚きました」武田も口元を押えました、
「これは〈わたしと共に歌いましょう〉の文意を喪失させているんじゃない。それ自身がこの全覚文の発話のトリガーになってる。全覚文を構成素とした、
「それって、まさか――」
「ええ、文意創発です」
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