殺意不在の殺人

 朝七時五十二分、間もなく夕零時を迎えようとしたとき、エン・バークはレベルHの白昼帯にある、オフィスモジュール群からなる原始犯罪課PCDに出勤していました。すぐに、業務終了を間も無く迎える朝組のメンバーの顔が引きつっているのにバークは気が付きました。

 彼らはバークの姿を見つけると、深く息を吐きました。バークは足を止め、表情を強張らせます。

『バーク、朝組からあなたに託された資料をデスクの上に置いておいたわ』

 バークの〈リュシャン〉が言います。

 オフィスの仮想化の波に漏れず、PCDのオフィスには基本的にデスクとチェアと、それを彩るいくつかの淡い色合いのインテリアだけがあります。相次ぐ人員削減で人口密度が下がっていることを考えれば、オフィスはがらんどうの印象を与えていることでしょう。

 ソファから立ち上がったり、ゴミをダストボックスに廃棄したりする朝組の職員の合間を縫って自分のデスクに進んでいくと、昨日までなかったはずの紙の束の山が隆起していることにバークは気が付きました。既に仮想の紙の山はバランスを崩し、雪崩を起こして隣のクシーのデスクとの境界線を越えているようです。

「ちょっと、バークさん。領海侵犯しないでくれますか」

 横からクシーがふいに現れて言いました。〈リュシャン〉がバークだけに見せている仮想クシーです。彼女は自分のデスクに入り込んだ紙の束をバークのデスクに押し返し始めました。

「という訳で以前にもお伝えした通り、私は今日は大学の方にいますが、気になることがあって朝組に二時間程混じらせてもらったので、今日は私が引き継ぎしますよ」

「どういうつもりだ、〈リュシャン〉」

 バークは目の前にいる、クシーに見えるものに向かって問いかけました。その脇を帰宅する朝組や出勤してきた夕組の課員が横切っていきましたが、空に向かって話しかけるバークを不審な目で見る者はいません。三組労働制度ではよくある引継ぎ行為です。

 今回、バークと同業務を担当する朝組のメンバーはバークへの引継ぎ役にクシーを選んだようでした。

「事件のことは、まだ聞いていないみたいですね、バークさん」

 バークの顔色を窺ったクシーが低いトーンで言います。

「少なくとも、パシフィカにおいては業務時間外のスイッチはオフにした方がパフォーマンスは高くなることがいくつもの論文で報告されている」

「知ってますよ、バークさん。何たって、私は〈リュシャン〉ですから」

 クシーはけたけたと笑います。バークは重心を傾け、息を吐きました。

「で、事件って」

「殺人事件です」

 クシーは自分の額に二本指を当て、脳内の情報を引き出すように指を引きました。たちまち光の束が彼女の光から飛び出すと、指を離れて独りでに空中に浮かぶ三つのスクリーンの形態へと変化します。そこには、加害者と被害者のプロフィールセットがそれぞれ写っていました。


 夜0時三十六分 レベルG白昼帯Ac1区 パシフィカ中央大学キャンパス内

          加害者:キリフ・アイルセン

          被害者:マキマ・イザシンボ

          殺害方法:テラスから突き落とす

 夜七時十一分  レベルI極夜帯F7区 カジノ・メラネシア

          加害者:アトラシア・キム

          被害者:サミュエル・ファインバーグ

          殺害方法:人口臓器を改造し、ランダムに死ぬように設定

 朝二時五十七分 レベルI白昼帯Id11区 BBDバリアリーフ・ビジネス・ディストリクト

          加害者:フラ・マサ・シン

          被害者:アンダールタ・メゼカ

          殺害方法:開発中のナノマシンを体内に混入させる


「このたった二十四時間で、マハ・ユールの件も含め四件も――三年分もの殺人事件が起きたというのか」

 バークの顔の筋肉が強張りました。

「その通りです。でも今日、ダイエル・クシーは大学の研究室に行かねばならなかった。だから朝早く、朝組に混じって少し調べていたんです」

「捜査状況は?」

 クシーはもう一度額から光の束を取り出して空に放ちました。スクリーンの配置が換わり、空いた北側上の一角に新たなスクリーンが入り込み、見慣れたライムグリーンの仮想髪の姿――マハ・ユールが写っていました。

 クシーが指をパチンと鳴らすと、スクリーン内の情報がすべて更新されました。犯人は四名とも拘留済み。有害全覚文の有無調査を全覚言語管理局ASLAへ依頼していて、一番最初のマハ・ユール、次のキリフ・アイルセンの二件については該当件数0という返答が返ってきているとのことでした。

「〈シェン・ルー〉はどうだった」

「同じですよ、あの無表情を歪めるような発話はまったく見られません」

 スクリーンが再び切り替わり、殺人現場近くで、犯人のすぐ背後を無表情の〈シェン・ルー〉と黒ずくめの課員が歩いている光景がそれぞれ写っていました。

 北側上のスクリーンには、ネオン溢れる極夜帯の繁華街を行くマハ・ユールを追うバークとクシーの姿が写っています。昨日の映像です。一方の南側下のスクリーン、それは今朝レベルIの白昼帯のオフィス街で起こったものですが、勤務中の待機時間をランニングに当てていた犯人フラ・マサ・シンの後をつける課員の中にクシーの姿がありました。朝組に紛れて時短出勤したときのものです。

「一応、ASLAから帰ってくる有害全覚文の検査結果次第ってところではありますが、まあ、望み薄でしょう」

「否定はできない」バークは首を横に振りました。

「単一の未知有害全覚文があったとしても、白昼帯、朝夕帯、極夜帯――これだけ広範なエリアで幅を利かせられる全覚文は〈理性〉くらいだ。可能性があるとしたら、パシフィカに対する破壊工作か」

「その可能性は限りなく低いと思いますよ。四人の犯人はいずれも三十未満のパシフィカ人です」

「パシフィカ生まれの純パシフィカ人」

「パシフィカで生まれ、パシフィカで育ち、まさしくパシフィカ人の典型ともいえるような価値観の持ち主。いずれも認知バイアスの偏向度は最低レベルで、犯罪行動へと引きずり込む認知の歪み傾向も見られませんし、彼らには、パシフィカに反旗を翻す理由はありません」

 そのとき、バークは少し俯いて目を反らしました。明らかに何かの考えがバークの脳内で発火した兆候でしたが、それを口には出しませんでした。

「何か言いたげですね、バークさん」

リュシャンクシー〉は見通していました。

、ですね」

 バークの否定はありませんでした。口は堅く閉ざされたまま、〈シェン・ルー〉のように変わらない表情でクシーを見返しています。

「思考の自制が効いていなかった。忘れてくれ」

「いいえ、この事件に自由意志党が絡んでいるという証拠は全くありませんから、そうと決めつけてしまっては捜査官失格でしょうが、バークさんはそれを口には出さなかった。それに全覚文依存からの脱却を掲げるという彼らの主張が反パシフィカ的であり、そして自由意志党の支持率は純パシフィカ人であることと有意に相関があるということを、バークさんは知っているから、自由意志党の存在が脳裏を過った――違いますか?」

 バークは小さく息を吐きました。それが肯定せざるを得ないときのバークの典型的な反応であることを、〈リュシャン〉は既に学習していました。

「でも、その直感は間違いだ」バークの返答は自らの誤謬を認めるものでした。

「仮に、この一連の事件が、全覚文からの脱却を訴える自由意志党の工作だとして、その事件を引き起こしたのが有害全覚文であると判明し、全覚文依存の危険性を多くのパシフィカ人が認知しなければ工作として意味をなさない。しかし、四件のうち、ASLAからの返答のあった二件については、いずれも既知の有害全覚文と合致する全覚文は見当たらなかった」

 無論、既知の表記法で記された既知の有害全覚文はそもそも発話前の自動検閲で引っ掛かるようになっていますが、バークが恐れていたのは既知の有害全覚文の未知の表記法でした。

「分かってるじゃないですか、バークさん」

 クシーがけたけたと笑います。

「で、本題だ。今の捜査状況はどうなっている?」

「実に奇妙なことになってます。バークさん、最初の事件の奇妙な点を二つ、覚えていますか」

「まさかとは言うまいが――」

「そうですよ、バークさん」

 クシーは白い歯を見せました。

「キリフ・アイルセン、アトラシア・キム、フラ・マサ・シン――残る三人の犯人たちも、言っているんですよ。、と。そしてどの事件もパブリックエリアで起きていた。原始犯罪制圧準人システム〈ローレライ〉は確かに起動していた。なのに彼らは、〈わたしと共に歌いましょう〉に意識を奪われることなくそれをやり遂げたんです」

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