自由意志党党首ファルシード
「あんたらは今、何故ここにいるんだ」
嵐のようにぶっきらぼうで、感情的で、荒々しい口調で群衆に向かって、舞台の上に立つファルシードは問いかけます。煽情的な古典的発話テクニックはおよそパシフィカンらしからぬ物言いですが、パシフィカンに違和感こそ覚えさせども嫌悪感による転覆まではさせない絶妙な塩梅をついているようで、それはかえって二万八千十九の聴衆にスリリングな体験をもたらしていました。
「パシフィカは確かに平穏な都市となった。ただ、可変フラクタルのモジュール都市構造に認知地図を奪われた我々には意志決定を外注する必要があった。当初の単純なレコメンドアルゴリズムに基づく簡素な方向指示システムだけに留まればよいものを、今やこのパシフィカは人の心を操る魔法で溢れてる。それは実に、パシフィカ人の言動の六十パーセントを決めるとも言われ、パシフィカが世界最高のGDPを叩き出せ続けていられるのも、その魔法――
ファルシードが頭を垂らすと、彼の頭皮から直に生えるうねる実毛が彼の顔を隠しました。
「私たちはその代償に、大切なものを失った」
彼の本能的な眼光がその現実髪の合間から光を放ちました。
「もう一度問う。あんたらは今、何故ここにいるんだ。全覚文を聞くがままにここに来たのか。いいや、違う。ホモ・サピエンスは元来、自己選択の種だ。確かに遺伝子と文化の共進化による多重適応はホモ・サピエンスを遺伝子的進化に頼らずに様々な環境に適応させることを可能にした。だから、同じ遺伝子の持ち主でありながら、キャッサバの毒抜きと氷上のアザラシ狩りを、一夫一妻と分割父性を、音声言語と身振り言語を両立させることができた。けれども、いつだって、未知の環境は人を襲い、しかし人はそれを生き延びてきた。乗り越えてきた。そして覇権を握った!」
ファルシードの叫び声が木霊します。それは聴衆を気圧しているようにも見えますが、実際のところ、二万八千十九の聴衆のうち、少なからず自由意志党を支持している者は三千にも届きませんでした。多くは自由意志党をうさんくさいカルトだと考えているか、あるいは生理的な嫌悪感すら覚える者もいたようです。
けれども、
だからこそ、ファルシードの古典的な煽動話法は聴衆の混乱を招いたのです。混乱が落ち着き、一瞬だけ、凪のように空気の流れがぴたりとやみました。
その時を、ファルシードは狙っていたようでした。
「……何故だ」
絡まったくせ毛を振りまきながら、自らに問いかけるような、神に懇願するようなかすれ声を絞り出しています。
「環境とその応答に逆らい、自らの意志に従って新しい道を切り開く者がいつだっていたからだ。ゆえにヒトは新大陸に進出し、新たな技術を、社会を生み出して、そしてここパシフィカだって作り上げた。これらが、そのエビデンスだ! 見よ!」
ファルシードの大きく広げられた両腕から無数の論文が宙へと飛び立ちました。その仮想ドキュメントたちは聴衆の〈スマート・アイ〉の拡張視界の中でひらひらと舞い、そして一人一人の手の上にそっと舞い降りました。
それらの論文は、どれも実在のものでした。一人一人の〈リュシャン〉が自動的にネットワークを探索し、それらの論文のインパクトファクターとコンフィデンスレイティングをメタ情報として付加していました。
どの時代にも、どの社会にも必ず社会に迎合しない異端児がいて、多くは悲劇的な末路を迎えるものの、時にそれらは人類を新たな地平へと導いた――そのことの証左たちです。
「パシフィカに蔓延する全覚文は確かに素晴らしいものだ。きっと永久の安寧をあんたらに約束することだろう。しかし、その安寧にあぐらをかき、ありとあらゆる行動を、思想を、意志をその文脈に委ねてしまっては、進歩は生まれない。それはホモ・サピエンスの本質ではない。自己選択、冒険、遺伝子と文化に刻まれたその気質を、ルビコン川を渡った者たちの末裔であることをあんたらは忘れたのか!」
けれども、そこで熱狂的なノーを叫ぶ程、パシフィカンは短絡的ではありません。しかし、かすかに、ファルシードに向けられた懐疑的な視線は融解していたようでした。
その聴衆の中、武田洋平は受け取った仮想ドキュメントのタイトルをまじまじと見つめていました。
『
それはパシフィカ、そして
海面上のレベルC以上はパシフィカの主要な街区と異なり、可変フラクタルのモジュール都市とはなっていません。巨大な半球ドーム内下には広大な緑地と、ドームを支える柱を兼ねる円柱型の高層ビル林が広がっています。
その緑地の中でもとりわけ広大な面積を誇るセントラルガーデンの一角にセントラル・パシフィック・ドームはあります。その中でファルシードは選挙演説を行っていました。
当初はファルシードの声に呼応することのなかった聴衆でしたが、一度聴衆の警戒心を解いてからはまさしくファルシードの独擅場でした。パシフィカンの琴線に触れるような理知的で論理的な言葉遣いを片時も欠かさないその姿勢は、まるで自由意志党の言説がアンチ・パシフィックの舵取りではなかったかのように錯覚させることすらしていたでしょう。
『演説分析の中間レポートを送るわ』
武田の〈リュシャン〉が彼の視覚野にそのドキュメントを直接投げかけると、彼の視界に、その文面が展開されました。
――いかなる演説、会話サポートAIの兆候は見られず。彼の仕草と文面、口調との齟齬関係を調査したところ、それが第三者の手によってつくられた原稿である可能性は二パーセント未満。
ファルシードが再び叫び、聴衆が呼応する中、それを見た武田は小さく苦笑を浮かべていました。
「それなら全覚文頼りってことか」
武田は人工声帯を無音モードに設定し〈リュシャン〉にしか聞こえない声で応答します。
『全覚素は一切検出されてないわ。それに、パラメータをランダムチューニングした〈シェン・ルー〉を三十六体展開しているけれど、どれも効果は見られず』
「ファルシードが
『エビデンスばら撒きのように、拡張感覚へのインプットはあれど、どれも全覚素とは合致しないわ。少なくとも、今回の演説では公職選挙法への違反は見られないわ』
「
『匿名の提供者の故意によるものかはともかく、今回ばかりはそうでしょうね』
「そうかい、それは残念だ」
声のトーンの落ちた武田は周囲を見渡しました。自由意志党の勢力も、その支持者も、今やパシフィカでは無視できない程に大きなものになっていました。今日ここに来た非支持者の多くもファルシードの言葉がもたらす引き波に飲まれたように見えます。
「〈リュシャン〉、さっきばらまいていたエビデンスの山、分析できるか」
『〈チェリー・オブザーバ〉を回しておくわ」
ASLEへの依存からの脱却――それが自由意志党の唯一の公約でした。確かに、ASLEに覆われたパシフィカはその全覚文に人の言動を操らせ、最適化された平穏を享受しています。パシフィカンのほとんど――とりわけここで生まれ育って純パシフィカン――はそれを何とも思ってすらいません。ともすれば間違いやすい選択行動をASLEに外注することで、最適で間違いのない行動を取ることができる――それこそ最適解だと、
しかし、ASLEへの依存と過信は人間の本能に逆らうものであり、いずれは破局を招く――それが自由意志党の主張であり、どれだけ敬虔なパシフィカンであっても一度は抱いたことのある疑問の結晶でもありました。それ故に自由意志党は今勢力を格段と伸ばしつつあり、来る選挙のための演説に勤しんでいたのです。
「誤解を招かないよう補足をしておくならば、私はパシフィカへの反逆を主張したいのではない」
ファルシードの演説は続いています。
「私はただ、全覚文にすべての決断をゆだねることの危険性を多くの者に知ってもらいたいだけだ。もう一度だけ問う。あんたらは今、何故ここにいる? そしてあんたらはこれから、どこへ向かう?」
吐き捨てるような問いの後、ステージを煙が覆いました。武田には、それが〈スマート・アイ〉に投影されたARが実物かは判断がつきませんでしたが、どちらにせよ、煙が晴れるころにはステージからファルシードの姿は消えていました。
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