三十

 安斎先生は、酒の用意を政次に言いつけると、鮫の懐にあった紙を手に寝所へ引きこもった。

 本所横川の捨て鐘が三つ鳴り、刻を知らせる鐘がなる。

 夜の八つだ。

 そんな時刻に起きていたことがない政次は、出てくるあくびをこらえきれない。

 それでも銚子に酒を温め、安斎先生の好きな熱燗になるまで、火鉢のそばにしゃがんでいた。

 酒を運んでいくと、安斎先生は机に向かい、さきほどの紙を手本に、なにやら写しているらしい。

「よし終わった」と言うと筆を置き、手本の紙を元通りに畳んで政次に渡し、「これを、あの鮫の懐に、元通りに戻しておけ。

 言われた通りにした。

 相変わらず二人は大いびきで、ただ、もぐらだけが、身体の位置を変えたようにも見えた。

 安斎先生の部屋に戻って、それを告げると、

「もうそろそろ、起き出すころかもしれないな」と言い、立ち上がって、診療所との境になっている板戸の真ん中あたりを軽くいじった。

 横に走っている桟と桟との間が開いて、小窓ができる。

「政次、おまえはそこから、やつらの様子を、じっと見ていなさい」

「へぇ」

「眠くてたまらぬという顔をしておるな。気付けに一杯どうだ」

「まさか。一口でも飲んだら、ことんといってしまいそうです」

「ぱっちりと目が覚める薬もあるぞ」

「いえ、めっそうもない」

 小窓から診療所を覗くと、暗がりに三人の姿がある。

 相変わらず眠りこけているが、やはりもぐらだけは、もじもじと動いて、じきに目覚めそうなようす。

 政次のまぶたは重しでもつけたように落ちてきて、自然と白目を剥いてしまいそうになる。太腿の内側を思い切りつねった。力余って、今度は痛さで涙がにじむ。

 やがて――

 むくりと起き上がったのは、もぐらだった。

 怪訝けげんそうにあたりをきょときょと見回しているのが、暗さに慣れた政次の目に、だいたい見える。

 やっとそこがどこか思い出したものか、もぐらは後ろ手のいましめを解こうと両肩を揺すりはじめた。ひねられた手首が痛いのか、情けないうめき声を漏らしている。

 安斎先生の指図通り、緩く結んでいたひもはやがて解けたようで、もぐらは両の手首をさすっているようす。

 そのまま逃げ出すかと思われたもぐらだったが、しきりに鮫の身体を探り回している。

 とはいえ、目当ては財布などではないらしい。

 政次は目を離さないようにしながら、後ろ手で軽く畳を叩いた。

 部屋の向こう隅で一人ちびちびとやっていた安斎先生が、合図に気づいていざり寄って来る。

 無言のまま、政次に並んで小窓を覗き込む。

 ぷんと酒が匂う。

 もぐらはやっと、鮫の懐の紙を探し当てたらしく、それを自分の懐にねじ込んだ。

 あたりに注意しながらそっと立ち上がったつもりらしいが、上がりかまちの縁で足を滑らしたらしく、どんと尻餅をつき、あわててあたりを見回す。

「ぷっ」

「くっくっく」

 政次と安斎先生は、口を抑えて笑いをこらえる。

 戸を開けて、未だ明けない闇の中に出ていこうとするもぐらを見て、政次は、

尾行つけなくて、いいんで?」

「いや、あいつが行きたいところには、おおむね見当がついている。だがこの時刻では、いずこの木戸も閉まっているだろうから、それもならぬだろう。どこぞの神社にでも潜り込んで、朝を待つしかないというところだな」

「あいつ、開けっ放しで行きやがった。戸締まりをしてきます」

「なあに、家の中にごろつき二人を寝かせたままで、戸締まりもあるまいさ。さて、明日はちょっと、遠出をするぞ。今からでも少し、休むがよいよ」

「へぇ。そうさせてもらいやす」と、政次はその場に手枕で横になって、眠ってしまった。

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