琴 線

「もうすぐ二十歳はたちだね。記念にどこか行こうか」

 海岸線をドライブした帰りに庸一郎が言った。

「どこかって…旅行?」

「うん。行きたいところある?」

「ハワイかな」

「ハワイーッ?」

 庸一郎が頓狂とんきょうな声を上げた。

「びっくりした…そんな大きな声出して」

「いや、びっくりしたのは俺…近場の観光地とか思ってたのに」


「お母様が行ってみたいって言うから」

「叔母さんが…家族で旅行ってことか…」

 そこで初めて庸一郎の考えていた旅行が二人だけのものだと知って、私は思わずうつむいた。

「でもさ、ハワイに行っても水着で海に入るか砂浜に寝そべるかくらいしかやることないけど、叔母さんには厳しいんじゃないか。せっかく行っても部屋から海を眺めるくらいしかできないでしょ」

 暗に胸を無くした母に水着を着て海辺に出るなど無理だと言っている。


 庸一郎の頭から決め付けた言い方に心ではイラついているのに、うまく言葉では言い返せない。

 誰に対しても思ったことを口にする、それが私である。それなのに、庸一郎の前では意に沿わないことでも言われるがまま押し黙る。

 これも恋をしているから…

 そんな言葉を心の中で呟いて漠然と胸の奥深くにもやを掛ける。


「庸一郎さんは、今年の桜を見る会はないほうがいいって言ってた」

 そんなことを言って怒らせたこともあった。多分喧嘩はあれが最後のような気がする。以来、私は庸一郎との距離を測り、互いの意見の食い違いを感じつつ、気付かないふりをして強引に行動してきた。

 それは彼が、意見の違いなど全く気付かず強引に事を進め、それが私にとっても最良の選択だと信じて疑わない鈍感さと互角に釣り合っている。

 私は二十歳の記念旅行を計画し、大学2年が終了した春休みの3月、父と母、庸一郎と私の4人でのハワイ旅行を決行した。



「蘭子、成人おめでとう」

 父はそう言ってカクテルグラスを軽く持ち上げた。

 ありがとうと、私も同じようにグラスを持ち上げる。


 いつもは朝食に誘われるガーデンホテルだが、その日は夕食後に誘われた。

「蘭子も成人したし、そろそろ行こうか」

 父はグラスを持つような手でグイっと酒を飲む仕草をした。

「庸一郎さんも誘いましょうか?」

 私が電話をしようと立ち上がると、

「いや、いいよ。蘭子と二人だけで飲みたいから」


 父の優しい微笑みに、私は頬の火照ほてりを感じ、心臓の鼓動が早まるのがわかった。

 外で夕食を食べる時は、父は必ず庸一郎を呼ぶ。庸一郎が父にとって特別な、私以上の存在であることは、すでに何の感情も介さず既成事実として私の根底に流れている潜在意識だった。

 私も大人として認められた。庸一郎さんと同じように…


 ホテルの最上階にあるバーはガラス張りの窓からキラキラときらめく美しい夜景が望める。

 朝食でも夕食でもない時間、父と二人並んで座っているだけで、私は気分の高揚が抑えられなかった。


「蘭子は本当に良いことをしてくれたね。ありがとう」

「お母様の幸せそうな笑顔が見られたから私も幸せな旅行だったわ…庸一郎さんには少し気を遣わせたけど。なるべく私たち3人だけにしようと思ってお買い物ばかり行ってたから」

「会社関係の土産物は庸一郎君に全部お任せだったからね。私の方から何か埋め合わせしておくよ」

「お父様は? 退屈しないでちゃんと楽しめた?」

 父がうんと大げさに頷くと、少し目を泳がせ、宙を見る。


「綺麗だねって言ったんだ」

「…お母様に?」

「他の誰に言うの?」とチラッと私を見るとまた視線を戻す。

「美しい景色の中にお母様が溶け込んで、一層綺麗に見えたよ」

「お母様喜んでた?」

「びっくりしてたよ」と、父が苦笑する。

「だけど、どうしても言いたかったから」

 父が照れたような笑みを浮かべ私を見た。

「蘭子のお蔭だって言ってたよ。水着を着て海に足をひたせるなんて夢にも思わなかったと言って喜んでた」


 母の着る水着の左胸の部分に肩パットを何枚か重ねて膨らみを作った。そして、2メートルほどのシフォンの美しい布を身体に巻きつけ、首の後ろで結んでふんわりとしたワンピースのようにして手術跡を隠した。

 鏡の前で母は何度もターンをしていた。

「全然わからないわね。涼しそうだし素敵だわ」

 そう言って私に少女のようなはにかんだ笑顔を見せた。


「これからも色々な所へお母様を連れて行きましょう。もっと笑顔になってもらわないと」

「蘭子が女の子で本当によかったよ。ありがとう」

 父が何気なく言った。

 その一言が心の奥深くに秘めていた小さな傷に触れられたような気がして思わず目に涙が溢れた。

「おいおい、泣くやつがあるか」

 父はポケットからハンカチを出して私に渡す。


「私、男の子だったらよかったのに…て何度も思った。男の子だったら、お父様とお母様を喜ばせて幸せにできたのに、女の子でごめんなさい…そう思ってた」

「そんなことを…」

 父は私の肩を抱き寄せた。

「すまなかった。お前には色々苦労をかけて…みんなお父様のせいだからな。恨むならお父様を恨むんだぞ」

 私は首を横に振った。

「お父様のことが大好きよ。誰よりも…大好き」


 父のハンカチで目を覆い、心を落ち着かせていると、ふと思い出した。

 父がハンカチで鼻をかむことを。

「お父様、このハンカチで鼻をかんでない?」

 しばらくの沈黙の後、父の口が動く。

「そう言えば…」

 バネのように父から身体を離して睨み付けた。

 父がからかうような目つきで私を見て、

「そんなわけないだろう」と、いたずらっぽく言うと鷹揚おうように笑った。

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