第7話 母を、たずねて

 次の日の夜。晩ご飯を食べ終わった健斗は、台所で片づけをするお母さんに告げた。

「お母さん、ちょっと出かけてくるね!」

「えっ、もうおそいわよ。どこ行くの?」

「小春ちゃんの家。学校でグループ学習した時に、まちがって小春ちゃんのノート持ってきちゃった。電話したら小春ちゃんのとこにおれのノートあるって。宿題できないから、取りに行ってくる」

 これはうそだ。小春ちゃんには学校で事情を話して、口裏合わせ済み。小春ちゃんのお母さんは、今日は仕事で帰りがおそいらしいので、うちのお母さんが電話しても小春ちゃんが出るからだいじょうぶ。ちょっとおそくなっても、オコゲと遊んでいたことになっている。

 どうしても夜にぬけ出したかったのだ。

「もう暗いけど、だいじょうぶ?」

「ハナを連れて行くから平気ー」

 そう言って家を出て、ハナといっしょに夜道を急ぐ。行き先はもちろん、あの公園だ。

「いた!」

 しょうちゃんが、ぽつんとブランコに乗っていた。

 亜紀ちゃんのお姉ちゃんが夜に見かけたと言っていたので、今日もいるんじゃないかと思っていた。予想通りだ。

 あの家の事情を知ってしまった今、その予想が当たるのは悲しいことだったけれど。

 夜に会おうと思った理由は二つ。まず、夜の方が気がつかれない。健斗はそっと近づいた。

 街灯でのびる影が足元に届いてようやく、しょうちゃんは近づいてくる健斗に気づいた。ブランコを降りて、にげようとする。

「待って! だいじょうぶ! 犬いないから!」

 犬がいないと聞いて、しょうちゃんがふり返った。

「ちょっとお話聞きたいだけなんだよ。座って?」

 そう言って、健斗もブランコに腰を下ろした。しょうちゃんはどうしようと、とまどっている。

 ここからが、わざわざ夜にぬけ出してきたもう一つの理由だ。健斗は手に持っていたビニール袋の中をがさごそと探ると、メロンパンを取り出した。ここに来るとちゅうのコンビニで買ってきたのだ。

「食べる?」

 メロンパンを差し出すと、しょうちゃんはごくりとのどを鳴らした。昨日、しょうちゃんのあの家でのあつかいを聞いて思いついた。この時間になっても家に帰れないしょうちゃんは、ずっとご飯を食べていないはずだ。

 こわい犬がいないとはいえ、健斗は毎日追いかけてきた見知らぬ人だ。警戒心は当然ある。でもおなかがとてもすいている。目の前にはおいしそうなメロンパン。

 二つの気持ちの間でゆれ動いていたしょうちゃんだったが、食欲が勝ったようだ。おずおずと寄ってきてメロンパンを受け取ると、ブランコに座り、袋を開ける。

 そこからは、かぶりついて一心不乱にむしゃむしゃと食べだした。

 思ったとおりだった。いつから食べてないんだろう。お昼からならまだいいけれど、コタローは、しょうちゃんはあんまりご飯を食べさせてもらってないと言っていた。下手すると、今日は朝からご飯ぬきだったかもしれない。まるでそれを証明するかのように、メロンパンを持つしょうちゃんの腕は細い。

 健斗の心はずきんと痛む。何とか助けてあげたい。

 しょうちゃんは、あっという間に一つたいらげた。

「もう一個食べる?」

 用意していたもう一つをわたす。こちらもわき目もふらずかぶりつく。

 二つ食べたら落ちいて、少し警戒心も解けたようだ。今なら話が聞けるはず。健斗は聞きたかった質問をしてみた。

「ねえ、しょうちゃんって言うんだよね? おれは健斗。よろしくね。聞きたいのはね、しょうちゃんのうちってここから遠いよね? なのに、毎日この公園に来ているみたいだけど、何で……?」

 しょうちゃんの顔がこわばる。

「みんなと遊びたいの?」

 小さく首をふる。でもだまっている。

 健斗はじっと待った。

 街灯が照らす公園の夜は、うす暗く静まり返っている。どこか遠くで、かすかに家族の笑い声がする。それはむしろ、この公園の静寂を引き立たせていた。この冷たい孤独な夜を、しょうちゃんはいく晩、一人で過ごしたのだろう。

 しばらくして、しょうちゃんがボソッと小さな声で答えた。

「おかあさんに……」

「ん?」

「おかあさんに、あいたいから……」

「お母さん? お母さんて前の? 引っ越しちゃったんじゃないの?」

「このあいだ、あったの」

 つっかえつっかえ、しゃべり続ける。

「このあいだ、おかあさんとあって、公園でおはなししたの。そのひはおかあさん、おうちにかえりなさいって。またくるって、いってた。だから公園に、あいにきてるの」

「それでお母さんは来たの……?」

 首をふる。

「毎日きてるのに、おかあさんきてないの……おかあさんにあいたいよう……今のおかあさんはすぐおこるし、おうちにいれてくれないし……おかあさんといっしょがいい……」

 ぽろぽろと泣き出した。健斗はブランコを降りて、泣いているしょうちゃんをだきしめてあげた。

 大きな声で泣けばいいのに、いっしょうけんめい、声をおし殺している。ハナの時にはよほどこわかったのか大声を出していたけれど、きっとふだんからおこられていて、泣かないようがまんするくせがついてしまったのだろう。

 まだこんな小さな子供なのに。

 健斗は決心した。

「お兄ちゃんが、お母さん探してあげようか?」

「えっ!」

 しょうちゃんはびっくりして顔を上げた。

「お兄ちゃんといっしょの犬いたじゃん? あの犬はねー、警察犬なんだよ。においをたどって犯人見つけるのがお仕事だから、しょうちゃんのお母さんも、においで見つけられると思うよ」

「ほんとに?」

 しょうちゃんはブランコから飛び降りて、健斗に向き直った。見上げる瞳には、すがるような色がある。この一言が、しょうちゃんにとって、どれだけ重要な言葉かわかる。この瞳に、うそはつけない。

「うん、ほんと! 明日土曜日で学校休みだから、朝からお母さん探しに行こうよ! この公園に集合ね!」

 しょうちゃんはまだ信じられないらしく、ほんとかな、だいじょうぶなのかなと少し心配な様子で、健斗の方を何度もふりむきながら帰っていった。

「絶対見つけてあげたいね」

 健斗はぽつりとつぶやく。それを合図に、ハナはかくれていた植えこみのかげから出てきて、健斗のそばに並んだ。

「そうだねえ。お母さんに会いたい一心で、毎日ここに来てたんだものね。でも……」

 ハナは首をひねった。

「でもなんでお母さんは、一度っきりしか来てくれないんだろうね? 親権、離婚した時に子供を引き取る権利は、父親に取られてるみたいから、一度家に帰すのはいいんだよ。自分の子供といえど、親権がないのに勝手に連れて帰ると、誘拐になっちまうからね。ただ、また来るって言って来てないのは、ちょっと気になるねえ……」

「うん……でも、それも会って聞いてみないとわかんないよ!」

「そうだね」

 とにかくしょうちゃんのお母さんを探し出すことだ。

 必ず見つけるぞ。

 健斗はそう決意した。


 次の日の朝、しょうちゃんは公園で待っていた。健斗たちも朝ご飯を食べてすぐにやってきたのだけど、それよりさらに早かったようだ。ハナを見るとやっぱりびくびくとおびえている。そんなしょうちゃんに、健斗は優しく声をかけた。

「だいじょうぶだよ、しょうちゃん。ハナは警察犬だって言ったでしょ? ばっちり訓練されてるから、関係ない人にほえたりかみついたり、絶対にしないから」

「ほんと?」

「ほんとだよー。犬のおまわりさんなんだよ。迷子の子猫ちゃんをお家に連れて行くんだよ。お家じゃなくてお母さんのところだけど」

「……ぼく、こねこちゃん?」

「うん、そう」

「えへへ」

 しょうちゃんがちょっとだけ笑った。ハナに対するおそれも、少し減ったみたいだ。それでもまだ、そばには近づこうとはしなかったけれど。

「しょうちゃん、なんかお母さんのにおいのする物、持って来てくれた? ハナにかがすから」

「うん」

 しょうちゃんはポケットからハンカチを取り出した。ピンクのかわいい花柄。お母さんの残していった物なのだろう。

 受け取った時に、さりげなく健斗もにおいをかいでみた。

 なみだのにおいがした。

 きっとしょうちゃんは、これをいつも持っていて、さびしい時にはこれでがまんしていたにちがいない。

 しっかりついているしょうちゃんのにおいの向うに、女の人のにおいがする。優しそうなにおいだ。

 ハナにもかがせる。ハナは力強くうなずいた。

「よし、行こう」


「公園でお母さんと別れたんだから、まず公園からスタートだね」

「これはなかなか難しいね。しょうちゃんの話だと、もう十日ぐらい前だろ? ふつうは事件が起きてすぐ始めるからねえ」

「無理そう?」

「難しいけど、見つけるよ。あたしだって、しょうちゃんをこのままにはしたくないからね」

 ハナはくんくんと地面をかぐ。

「ここは毎日みんなが遊んでいるから、においが入り乱れてて……しょうちゃんのにおいは見つけた。ああでも、これは昨日のやつだね。においが新しい。お母さんといっしょのやつはどこだろう」

 かたずをのんでしょうちゃんが見守っている。しょうちゃんはやっぱりハナのそばに来ないので、健斗とハナが小声で話しているのは聞こえない。

「しょうちゃん、お母さんとお話したのは、公園のどこら辺?」

「えと、あっち。ベンチでおはなししたの」

「ハナ、ベンチだって」

「了解」

 ハナはベンチへ向かうと、そこらの地面をかぎ始めた。ここはいつもお母さんたちの井戸端会議の場所になっているから、女の人のにおいがたくさん残っている。その中から、しょうちゃんのお母さんのにおいを見つけ出さなければいけない。

 しかもずいぶん前のにおいだ。これはベテラン警察犬のハナでも、困難な仕事だ。

 けれどハナにも、しょうちゃんを助けたいという強い決意があった。

「見つけた!」

「よし!」

 ハナは足あとをたどって歩き出した。公園を出るところで足ぶみしている。きっとこれは、お母さんがしょうちゃんを見送っていた時の動きだ。行きつもどりつ、お母さんのためらいが、かいま見える。

 公園を出た。ハナの足取りはいつもほど確信に満ちていない。やはりこれだけ古い痕跡をたどるのは、難しい。いろいろな新しいにおいの下にうずもれているのだ。さすがのハナも、何度か見失う。

「やっぱり消えかかってるねえ……。よし、これだ」

 そのたびにハナは辺りをかぎまわり、もう一度見つけ直した。

 追跡は根気のいる仕事だ。並みの犬ではすぐ気が散って、足あとを見失う。警察犬はそこを訓練するのだが、しぶとくがんばるハナは、警察犬としても並みのレベルではなく、本当に優秀だった。

「ねえ、これ、駅に向かってるんじゃない?」

「それっぽいね」

 しばらく足あとを追って、健斗はそう推理した。この道を十分ほど歩くと駅に着く。

「やっぱり!」

 駅に到着した。駅前には広場があって、そこから何本かの道が出ている。

「そっちの商店街で買い物とか?」

 健斗は右手を指した。そっちにはお店がそろっていて、お母さんもよく買い物をしている。おそくまで開いているスーパーもあるから、しょうちゃんを見送ったあと、そこに寄ったのかもしれない。

 しかしハナの返事はちがった。それは、この追跡にとって、よくないものだった。

「いや、ちがうね。駅構内に向かってる。電車に乗ったんだ」

「うわー。それじゃもう追えないよね?」

「うーん。電車の車両はたくさんあるし、それをつき止めても、どの駅で降りたか、わからないからねえ」

「え、ダメなの」

 ハナの言葉はわからないしょうちゃんだったが、思わず大きな声が出た健斗の「もう追えない」という言葉に、ショックを受けたようだ。

「あ、だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。電車に乗ったみたいだから、簡単には見つからないねってだけ」

 健斗はあわててしょうちゃんをなぐさめた。ただ、状況としては本当によくない。

「とにかく電車に乗ってみようか? 一駅ごとに降りて、ホームでにおいを探してみたら、降りた駅がわかるんじゃない?」

「時間はかかるけど、それしかないかね」

 階段を上がって駅に入り、改札横の切符売り場に着いた。自動販売機で乗車券を買おうとして、ふと気づく。

「ハナと電車に乗ったことないけど、犬の運賃っていくらなんだろ?」

 ちょうどそばを駅員さんが通ったので、聞いてみることにした。

「すいませんー、この犬と電車に乗りたいんですけど、運賃はいくらなんですか? 子供料金ですか?」

 駅員さんはハナを見て、さらっと言った。

「ああ、その犬は乗れないよ」

「ええっ!」

 健斗もハナもびっくりだ。駅員さんは続けて、ていねいに説明してくれた。

「小型犬ならきちんとかごに入れてれば、手回り品っていう料金で乗れるんだよ。だけど、こんな大きな犬はだめだねー。かごの大きさとか重さ制限とかがあるからね。盲導犬とか働いてる犬ならいいんだけどねえ」

「警察犬は? 警察犬はダメなんですか?」

「えっ警察? なにか事件なの? それなら駅長さんと相談してみるけど、警察の人は?」

「あー、えーと、今は警察の仕事じゃないんですけど……」

「何だー、それじゃだめだよ。ごめんねー」

 なんとハナは電車に乗れないのだった。それを聞いたハナは、すっかりおかんむりだ。

「犬はだめだなんて! とんだ差別だよ! 他のお客さんに迷惑をかけるって言うなら、そこらでゲロはくよっぱらいの親父の方がよっぽど迷惑だよ!」

「そうかー、だからハナといっしょの時はいつも車だったんだ」

 健斗は納得した。お父さんがハナ用に大きな車を買ったと言っていたのは、ただ荷物のためだけではなかったのだ。

 とにかく電車に乗れなければ、となりの駅に行けない。それならバスはどうかと、バス停に止まっているバスの運転手さんに聞いてみたけど、やはり電車と同じで、大型犬をそのまま乗せるのはだめだった。

「どうしよう、タクシーだったら、たのんんだら乗せてくれるかな。でもタクシー高いから、おこづかいがすぐなくなっちゃう。ハナがいないんじゃ、においを追えないし」

 健斗はまるで犬のように鼻が利くけれど、本物の警察犬のハナにはとうていかなわない。その辺にお母さんがいるならかぎ当てられるが、十日以上前の足あとを追うのは難しい。

 お父さんにたのんで車を出してもらうのは、そもそもなんでしょうちゃんのことを知ったのかを説明することができないので、無理だ。そうなると、最後の手段。

「歩く……?」

「あたしは平気だけど、となりの駅まではけっこうあるよ。しょうちゃん、だいじょうぶかねえ」

 確かにそうだ。都会なら駅と駅の間が目で確認できるぐらい近いところもあるけれど、ちょっと田舎のこの辺だと、かなりの距離になる。健斗はしょうちゃんに確認してみた。

「へ、へいきだよ。ぼくもあるけるよ」

 となりの駅と聞いてちょっとひるんだしょうちゃんだったけれど、すぐ気を取り直してうなずいた。公園も家からはわりとはなれていたのに毎日通っていたし、他の子よりも歩くことに抵抗がないようだ。

「よし、とりあえず、となりの駅へ行こう!」

「あたしも警察の仕事が長いけど、実際の捜査ってのは、探偵物のお話みたいに派手な推理で解決するんじゃなくて、しらみつぶしに歩き回るのが基本だからね。がんばろう」

 三人は一番わかりやすそうな、線路沿いの道を歩き始めた。となりの駅までは電車でなら十分かからないぐらいだけど、歩くとどれぐらいだろう。だいぶかかりそうなので、ちょうど出会ったコンビニで買い物をしていくことにした。

「そう言えば、しょうちゃん、朝ごはん食べた?」

 健斗がたずねると、しょうちゃんはちょっと悲しそうに小さく首をふった。

 やっぱりか。ほんとひどいな。

「昨日の晩ご飯は? おうち帰ってから食べた?」

「うん。メロンパンもたべたから、おなかいっぱいでうれしかった」

 くわしく聞いてみると、どうも一日一食か二食で、三食食べさせてもらえることはめったにないようだ。おやつなんてもってのほか。

「好きな物買っていいよ」

 健斗に言われておどろいたようだ。コンビニの棚をあっちを見たりこっちを見たり。最後はパンの棚の前に張りついて、右に行ったり左に行ったりうろうろして、どっちのパンにしようか、ずっとなやんでいる。

「食べられるなら、二つとも買ったげるよ」

 またおどろいて健斗の顔を見つめている。別にパン二つだから、大して高い買い物じゃないのに。こんなことでいちいちおどろくなんて、本当にふびんだ。

 絶対お母さんを見つけてあげないと。

 コンビニ前の駐車場で、しょうちゃんはおいしそうに、アンパンとクリームパンを食べた。

 しょうちゃんの朝ごはんをすませて、また歩き出す。そのまま行くと、道が大きく曲がって、線路からはなれはじめた。

「ああ、そうかー。この先は国道につながってて、確かその国道も大きくぐるーっと遠回りしてるんだよ」

 健斗はお父さんの車で出かけた時のことを思い出した。真っ直ぐ行くのに比べると、けっこう距離が長くなりそうだ。しょうちゃんもいるから、なるべく短い方がいいような気がする。

 目の前は小高い山林になっている。道路はこれを迂回しているのだ。

「ここを真っ直ぐ行った方が早いかな」

「そうだね」

 三人は舗装路を外れて山道に入っていった。

 しかし、十分もしないうちに、健斗は後悔し始めた。山道は思ったよりつかれるのだ。入り口はそんなでもなかったのに、ちょっと奥に入ったところから急傾斜になっていた。

「しまったあ。大回りでも、国道を行った方が楽だったかも」

 しょうちゃんを見る。泣き言も言わず、いっしょうけんめいついてくるけど、つらそうだ。健斗は少しペースを落とした。

 ハナがふと空を見上げる。

「まずいよ、健斗。雨のにおいがする。雨雲が近づいてきてるよ」

「ほんとだ」

 健斗も気づいた。向こうの空から、あやしい黒雲がやってきていた。五分ほど経つと、ぱらぱら雨粒が降りはじめた。このまま本降りになりそうだ。

「やばいよ、かさもってきてない」

「どこかに雨宿りできるところはないかねえ」

 山林はそこまで密集して木が生いしげっているわけではないので、ぱたぱた、ぱたぱたとしずくが落ちてくる。歩いているとけっこうぬれそうだ。黒雲といっしょに冷たい風もふきはじめた。このまま寒くなりそうで、ぬれた状態でそれは困る。

「あそこはどう?」

 ハナが指した先には、大きく反り返った岩があった。岩棚の下に、ちょうど三人もぐりこめそうなスペースがある。

 そこに入って腰を落ち着けたタイミングで、ちょうどざあざあと雨が降ってきた。

 それと同時に冷えこみも厳しくなる。ぶるりと思わず身ぶるいする。風邪を引きそうだ。こういう時に一番たよれる暖房は。

「ハナ、ハナ、こっち来て」

「はいよ」

 ハナをそばに呼び寄せる。犬の方が人より体温が高く、そのうえ毛皮でもこもこだ。

「しょうちゃんもこっちおいでよ」

 しょうちゃんも呼んだが、ちょっとおよび腰。しょうちゃんはやはりまだ、大きな犬がこわいようだ。

 健斗は言葉を重ねた。

「だいじょうぶ。ハナはメスでお母さんだから、優しいよ」

「……おかあさん?」

 お母さんという言葉に引かれたようだ。おずおずとそばに寄ってきた。しょうちゃんを真ん中に、みんなで丸くなって横になる。ちょうどいいから一休み。

「ね、あったかいでしょ?」

「うん」

 健斗は上着を脱いで、自分としょうちゃんの上にかかるようにした。

 一時間ほどうとうととまどろむ。その間に雨もやんだ。通り雨だったようだ。

 くしゅん。

 ただ、やっぱりちょっと寒かった。鼻水が出て、健斗の鼻が今ひとつ利かなくなる。

「風邪引いたかも」

「ひ弱だねえ」

「だってハナは毛皮着てるんだもの。しょうちゃんは平気? 寒くなかった?」

「うん、へいき。あったかかった」

 しょうちゃんはハナの背中をなでている。お母さん犬ハナが好きになってくれたようだ。ハナもうれしそうにぱさりと尻尾をふった。

「よし行こうか」

 しばらく歩いて、山頂をこえた。

 向うにのびる線路。そして駅も見える。

 あそこが目的地だ。


 山を降りてからもしばらく歩き、ようやく駅に着くことができた。駅の出口の辺りで、ハナはふんふんと地面のにおいをかぐ。なかなか見つからないので、そこら辺を行ったり来たり。そんなハナを、道行く人が不思議そうに見ている。

 ここからもう一度足あとをたどれるか。ただ、その前に一つ問題がある。

「ここで降りててくれればいいけど、もう一駅歩くのはつらいねえ」

「そうなったらもう、お父さんに事情を話して、車出してもらわないとダメかなあ。でもしょうちゃんちの事情をどうして知ったのかとか、説明難しいよね。コタローに聞いたなんて言えないし」

 そうなのだ、となり駅で降りたとは限らない。次の駅かもしれないし、その次かもしれない。さらには、逆方向の電車に乗った可能性もある。

 そうなるとさすがに歩いて探し回るわけには行かないから、大人の協力が必要だ。お父さんは、こういう話はミステリー作家という仕事柄好きそうだから、難題ではあるけれど、うまく説明さえくぐりぬけられれば……。

「む!」

 健斗がそんなことを考えていると、ハナがぴたりと立ち止まった。

「ハナ?」

「当りだよ健斗。見つけた」

「えっ! ほんと! しょうちゃん! お母さん、この駅で降りたみたいだよ! この町に住んでるんだよ!」

 しょうちゃんの顔がぱっとかがやいた。ハナは追跡を再開する。

 駅の前の通りをたどって、商店街へ。この辺は健斗の町の駅と似た感じだ。そういえば何時間か歩いてきたので、お昼をすぎている。お肉屋さんからはおいしそうなコロッケのにおい。パン屋さんからは焼きたてパンのにおいがする。扉が閉まってたってかぎ取れるというのに、これ見よがしにけむりをたなびかせている焼き鳥屋さんときたら……!

 何か食べようかと健斗はちらりと思ったが、すがるようにハナを見つめるしょうちゃんを見て、考え直した。ここまできたら、しょうちゃんのお母さんを見つけるのが先だ。

 商店街をぬけると住宅地になるのも、健斗の町といっしょ。その道を、やはり何度か見失いながらも、根気よくハナはたどっていく。

 やがて一軒のアパートの前に来た。ちょっとみすぼらしい、古いアパートだ。年季の入った郵便受けの前をぬけ、日当たりが悪くこけむした玄関先へとへハナは入っていく。そのまま一階の一番奥の部屋へ。ここは本当にうす暗くて、ひんやりとしている。

 ハナはその扉の前で、ぴたりと立ち止まった。


 ついに、見つけた。


「ここだね」

 健斗からそれを告げられ、しょうちゃんは扉にすがりついて、たたき始めた。

「おかーさん! おかーさん!」

 返事はない。出かけているのだろうか。それでもしょうちゃんは必死だ。

「おかーさん、おかあさあん!」

 どんどんと扉をたたいていると、となりの部屋からおばあさんが顔を出した。

「なんだい、うるさいねえ、そんな乱暴に扉たたいて。あんたたちだれ? 何の用?」

 いぶかしげなおばあさんに、健斗はすかさず説明する。となりの人なら、しょうちゃんのお母さんのことを知っているはずだ。

「あの、この部屋に女の人住んでますよね? この子のお母さんなんですけど」

「ああ、裕美さん? あれ、そうなの、子供いたの」

 果たしておばあさんは知っていた。みんなの顔がぱっと明るくなる。けれど次の瞬間、その口から語られたのは、衝撃の事実だった。

「裕美さんねえ、入院してるんだよ。十日ぐらい前にたおれて、救急車で運ばれてねえ」

 となりでしょうちゃんが息を飲むのがわかった。健斗は急いで質問する。

「そ、それはどこの病院ですか?」

「ああ、確か桃山総合病院だよ」

「えーと、それはどっちに行けば」

 おばあさんに道を聞くと、お礼の言葉もそこそこに、三人は道へ飛び出した。大急ぎで病院へと向かう。

 幸いそこは同じ町内にあって、子供の足でもそんなに時間はかからなかった。たどり着いて目に飛びこんできたのは、何棟も続く大きな建物。総合病院というだけあって、とても立派な病院だ。それが健斗たちの不安を呼び起こす。こんな大きな病院に運びこまれるなんて、もしかして重病なのか。

 病院のロビーにかけこんだ。ハナもいっしょだ。

「わー、わんわんだー!」「えっ、犬?」「いいの、ここ?」

 動物病院ではない人間の病院は、基本的に犬は禁止だ。病気で免疫が弱っている人がいるので、動物の持っている雑菌がこわい。セラピー犬など病院で働く犬もいるが、その場合は犬も毎日しっかり消毒する。

 なので、ロビーは騒然となった。さわぎを聞きつけ、受付のお姉さんや看護師さんたちが飛び出してきて、健斗たちの前に立ちふさがった。

「あなたたちダメよ、病院に犬なんて連れてきちゃ。外で遊びなさい」

 勢いよくかけこんできたので、元気のあまった子供の起こしたさわぎだと思われたようだ。

 ハナの首輪に手をかけて、看護師さんがハナを外へ連れ出そうとする。この場合、健斗とハナが悪いのだが、病院側のその辺りの事情を知らないもんだから、しょうちゃんのお母さんを探さなくてはとハナは全力で抵抗。看護師さんと綱引きになる。

 本気になった大型犬のハナは、人一人ぐらい引きずれるほどの力があるので、むしろ看護師さんの方が劣勢だ。ずりずりと引っぱられていって困った看護師さんが、健斗を問いつめる。

「ちょっと、君が飼い主なの? この犬を外へ出しなさい!」

 そんなさわぎの中、人見知りがひどくびくびくおびえていたしょうちゃんが、勇気を出して、大きな声でさけんだ。

「おかあさんはどこですか! ぼくはかたひらしょうたろうです! おかあさんはどこですか!」

 その声を聞いて、看護師さんたちの動きが止まった。お互い顔を見合わせる。

「かたひらさん?」

「片平さんなんて女の人、入院してたっけ?」

「えーと、いないと思うけど」

 みんな首をひねっている。

 おかしい。

 受付の人や看護師さんなら、入院している人の名前は知っているはず。大きな病院なので、全員を覚えていないとしても、何人も出てきているのだから、一人ぐらい知っていてもいいはずだ。アパートのとなりの部屋のおばあさんは、確かに、この病院だって言ったのに……。

 その時健斗は、大きな見落としに気づいた。

 そうか、しょうちゃんのお母さんは離婚したから、苗字が元にもどってるんだ!

「しょうちゃん、お母さんの元の名前は?」

「えっ、おかあさんはかたひらゆみだよ」

「ちがうよ、元の名前!」

「ええー……」

 しょうちゃんは泣きそうだ。小さいから、結婚して苗字が変わるということがよくわかってないのだ。

 アパートの表札をしっかり見ておけばよかった、と健斗はくやんだ。あそこにはお母さんの苗字が出ていたはずなのに。

 どうしよう、一度もどって、確認するか……。でも、ここまで来たんだから……。

 ぐるぐると迷っていた、その瞬間。


「健斗! 上!」


 ハナがほえた。

 ハナの言いたいことに気づいた健斗は、急いでにおいをかぐ。ちょっと鼻がぐずってきたせいで気づかなかったが、しっかりかげばわかる。

 お母さんのにおいがする!

「しょうちゃん、こっち!」

 健斗はしょうちゃんの手を取ってかけだした。

「あっ! ダメよ! 病院の中走ったら!」

 ハナに気を取られていた看護師さんたちは、走り出す二人を止められなかった。

 ふりむかず健斗はしょうちゃんに告げる。

「今度はおれが犬のおまわりさんだから、お母さんのところへ連れてったげる!」

 しょうちゃんがきょとんとした様子が伝わってくる。

 健斗が犬みたいに鼻が利くなんて理由は教えられないから、意味のわからない言葉だろう。でも、しょうちゃんは素直についてくる。お母さんのところに行ける。それだけが重要だ。

 二階、三階と階段をかけ上がっていく。もう一階上がろうとして、においが薄れるのがわかった。この階だ。

 廊下へ出る。おくれてついてきた看護師さんが、ひいひい言いながら階段を上がってくる。

「廊下は走らないでえー。病気の人が歩いてるんだから……」

 点滴を打ちながら歩いている人が健斗の目にとまった。確かにぶつかったら大変だ。しょうちゃんの手を引いて立ち止まる。

 それでようやく追いついた看護師さんが、息を切らせながらたずねた。

「急に上の階に来てどうしたの? お母さんがほんとにこの病院に入院しているなら、ちゃんと調べてあげるから……」

「しっ」

 健斗は看護師さんを制した。

 においをかぐ。

 近い。

 右手からだ。しょうちゃんの手を引いて歩いていく。においはどんどん近くなる。

 自信と緊張感をみなぎらせる健斗の態度に、看護士さんは言葉をつげず、いぶかしげについてくる。

 通り過ぎそうになって、またもどる。この病室だ。

 扉を開けて中に入る。何人かの患者さんがいっしょに寝ている大部屋だ。ベッドの周りをカーテンで仕切れるようになっている。

 今はみんな起きていて、カーテンは開けられていた。手前はおばあさん。子供が入ってきたので、どうしたのだろうとこちらを見ている。そのとなりのお姉さんも、こっちを見ていた。

 そして一番奥のベッドに、身体を起こして、窓の外をながめている女性がいた。

 しょうちゃんはその人を見て。


「……おかあさん!」


 しぼり出すような泣き声で呼びかけると、かけよって、飛びついた。

 その女の人は突然子供にだきつかれて、本当におどろいたようだ。そしてふりかえり、その子の顔を見てさらにおどろいた。

「しょうちゃん? どうしてここへ……」

「おかあさん! おかあさん!」

 しょうちゃんは、ただひたすらお母さんにしがみついて、わあわあと泣いていた。すぐにだきしめ返したお母さんも、顔をゆがませたかと思うと、なみだをぽろぽろと流しだした。

「え? お母さんって、川原さん? 身寄りないって聞いてたけど、あれ?」

 看護師さんは何が起きているのかわからない様子。周りのベッドの患者さんたちも、ふってわいた母子の再会におどろいて、ぽかんと見つめている。

 そこに、窓の外からハナのほえ声がした。

「ちょっとー、どうなったんだい!」

「あ、いけね」

 健斗は病室を出て、外へ向かった。

 ハナは玄関を出た向かいの大きな木に、ひもでつながれていた。ぷりぷりとおこっている。

「まったく、ここまで来たんだから、あたしには二人の幸せを見届ける権利があるって言うのに、ここのわからず屋たちときたら!」

 ひとしきり文句を言ったのち、健斗にたずねた。

「それで、ちゃんと会えたんだね?」

「うん!」

 二人は病室の窓を見上げた。

 ここから部屋の中の様子は見えなかったけれど、ふんわりとあまい、喜びのにおいがただよってきた。

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