玄龍先生奔走譚

呂句郎

第一話 もぐり芝居

 正月の二日。

 からからと、よく晴れた朝である。

 浅草は賑わっている。

 観音様へのお参りもそこそこに、誰もがわくわくしながら、むしろ人混みを楽しみたくて、西の門から奥山へと抜けていく。

 物売りや見せ物、飲み食いの屋台などが所狭しと立ち並び、まっすぐ歩くのも、ままならないほどだ。

 小日向に住むらんは、夜も明けきらぬうちから、妹分のタケに起こされた。

 無理矢理のように着物を着せられ、草履を出され、家を出た。

 急坂を下り、石切橋にあらかじめ言いつけておいた舟に乗ったのが、やっと明けの六ツ。

 立て続けに、あくびが出た。

(ふだんなら、戸板を閉めて眠ろうかというような刻限なのに……)と思う蘭は、堕落者だというわけではない。朝が夜となる、そういう生業なりわいなのである。

 舟はすいすいと神田川を下った。

 柳橋を折れ、大川を遡るころ、蘭は居眠りしていた。

ねえさん、姐さん、着きましたよ」とタケに起こされたのは、吾妻橋の船着き場。

 船頭に手を引かれながら陸へ上がった。

 雷門を横目で見ながら広小路へ出ると、いくつもの店が軒を連ね、大繁盛だ。

 タケは目を輝かせながら、

「姐さん、あのね、今日は、どんなものでも一つだけ買ってくれると、そうおっしゃいましたよね?」

 うわずった声でそんな言葉を繰り返しながら、何をどうしたらいいのかわからないほど、タケは、舞い上がっている。

「ええ、ええ。言ったわよ。どのお店(たな)でも、見てごらんよ」

 年が明けたいま、数えで十四のタケは、何もかもに目移りしてしまうらしい。

 なにしろ、ここは、正月の、浅草なのだ。

「でも、どこも人でいっぱいですねえ」

「そうねえ。なにせ、初売りだもの。売る方も買う方も、夢中になっているね」

「どうしよう……」

 どうも、人混みにをかき分けて品物を手に取るほどの勇ましさが、タケにはないらしい。しかし、タケのそんなところが、蘭には可愛くてならない。

「おタケちゃん、ここはまた後で通ったっていいから、奥山へ抜けて、お猿でも見ようか」

「うん、そうする」

 広小路のちょうど半ばから右手に入ると、伝法院の参道だ。

 斜めに抜け、金龍山浅草寺せんそうじを右手に見ながら行くと、そこが奥山である。

 広小路とはまた違った、混沌が、ある。

(それにしても……)と、蘭は、思う。

 浅草の賑わいの中でもひときわ目立つのが、タケに着せてやった振袖、この正月のために、自分ではもう着られない柄を仕立て直したやったものだが、よく似合っている。

 その晴れ着のタケが、もう朝から何度も何度も、

「姐さん、あのね、今日は、どんなものでも一つだけ買ってくれると、そうおっしゃいましたよね?」と、繰り返す。

「そうよ、言ったわよ。でもね、おタケちゃん、ちょっとは落ち着きなさいな」

「だって……だってだって……でもでも……」

 池のほとりに、いい感じの茶店が少し空いているのを見て、一服しようとした蘭の耳に、何やら大声が響いてきた。

 胴間声というには、少しばかり味のある声だ。

「さぁて、そこなる美男と美女らよ。めでたき元旦にはよぉく休まれて、今はすこやかに道を行く人たちさぁ! 聞いて損をする話はしない、しない! さて、よいですかぁ……」

 目をやると、顔を白塗りにし、突拍子もないほど長いまげを押っ立てた、ずいぶん背の高い男が、赤と白のだんだら模様の服をまとい、両腕を突き上げている。かたわらには、桃色の地に真っ赤に染めた《麗ノ粉うるわしのこな》とやらいう幟。つまり、大道の薬売りである。

 脇では、ひょろりとした鉢巻き姿の男が、褌とさらしに法被だけを羽織り、肩から提げた小太鼓をテンテケと叩きながら、猿みたいに飛び跳ねている、

「さ、始まるよっ。さ、始まるよっ。始まるんだから始まるよっ」

 だんだらの大道芸人は、それを軽く手で制して、声を張り上げた。

「さぁて、さてさて、この《うるわしのこな》は、そこらや、ちまたの白粉などとは、まるで違うのだ。遠くは天竺由来の抹香と、高麗からの人参と、唐の白檀びゃくだんなどなどなど……まあ、ざっと七種の渡来のものに、この、深川森下にしっかと店を構える香川幻龍が、秘伝の調合をほどこした、古今東西、たぐいまれなる美容の薬でござるよ!」

 口上はともかく、ちょっといい声じゃないかと思って立ち止まった蘭の袖を、タケが、ツンツンと引いた。

「姐さん……あたし、あれが欲しい」

「えっ?」

「何でも買ってくれるって……」

「そりゃそうだけど、あんな辻売りの薬なんかをかい?」

「うん!」

 蘭としては、できればちょっと品のいい黄楊の櫛とか、あるいは、求められれば帯のひとつだって買ってやろうと思ってきたのだ。それをタケは、大道で売っている、あやしい薬を欲しがっている。

 しかし、何か一つ買ってやるというのは約束だ。

「おタケちゃん、まずはお茶でも一杯飲んでから、よく考えなさいな」

「いいえ。あたし決めたのですよ。あれが欲しい」

 こうなると、頑固なのがタケである。

「わかったよ。そんなら、行こうか!」と言うなり蘭は、人混みをかき分ける。

 蘭の衣裳は、正月にめいっぱい着飾っている、ふつうの人たちよりは、一見、ずっと地味だ。

 うっすらと青のさした鼠色の無地に、黒い羽織をぞろりとかけている。それゆえに、れっきとした素人ばなれの味があるが、それなりのツウにはでない限り、目立たずに済む——と、少なくとも蘭は、思っている。

 野次馬をさっさとかき分け、だんだら模様の、大道商人の前に出た。

「ひとつくださいな」と、きっぱり言った。「この子が欲しがっているのよ」

 派手な衣裳の大道芸人は、白塗りの顔で、にっこり笑って、

「おやおや、これは! 売るのもはばかられるような、美なおふたりが!」

「おいくらですの」と、切り口上の蘭は、もう懐から財布を出している。

 大道の薬売りは、大声を張り上げ、

「ありがと?うございます! 一包で十日分、一分でございまする?!」

「ずいぶんな値段ね」

「ええ、なにせ、元手が掛かっております。本格の本草ですのでね……」

 大道の薬売りは、何とも言えない爽やかな笑みを、蘭とタケにひとしく向けた。

 蘭は四分銀を取り出し、派手な商人に差し出した??と、横から太い腕がにゅっと出て来て銀を受け取り、太鼓を叩いていた猿のような法被の男が、薬の包みを差し出す。

(ははん……商人はこいつらで、大声を出しているあいつは、まあ、役者だわね)

 カチんときた蘭だったが、正月早々のことだ。小娘を連れた浅草奥山でいらいらしている場合ではないと、心を調えた。

 すると、大道芸人は、太鼓を叩いていた法被の男に向かって、

「おい政次、こちらのご新造さんに、もうひとつ差し上げなさい」と言った。

「へーい」と、言われた通りにしようとする法被を押しとどめ、蘭は、

「一包で一分の値と伺いましたよ。もうひとつ頂戴するいわれは、ありませんわ」

「まあまあ、そうおっしゃらず。うそもいつわりもない、ホンモノですゆえ、ぜひにお納めください。決して毒ではございません」と、大道芸人は、白塗りの顔をくしゃくしゃにして笑いながら、骨張った大きな手で、手ずからそれを押し出した。

 ふつうなら、突っ返すか、ままよともう一分置くはずが蘭の気性ではあるはずだが、何故だかこの男には、そうする気になれなかった。


 猿若町の外れに、狭い間口の芝居小屋がある。その名を《蝙蝠座(こうもりざ)》という。

 奥の用部屋で、背中を丸くして金を数えているのは、座元の菊池長兵衛だ。

(吉原が男達の楽園だと言うなら、猿若もまた、女子供の桃源郷だろうぜ)と、その、ガマのような顔を弛めている。というのも、ここ一年ばかり、芝居が大当たりなのだ。

 大当たりなのには、わけがある。

 火の気を嫌い、夕刻には終わらねばならぬのがたてまえの芝居小屋だが、蝙蝠座にとっては、そこからが本番なのだ。

 夕暮れ、申の刻が過ぎると、いちおうは、客を、出す。しかし蝙蝠座には《巡りの木戸》というカラクリめいた狭い通路があり、それを通ればもういちど、席に戻れるしかけ。

 もちろん、そのまま帰る客もいるが、

「これよりは身内のみ」と書かれた戸を押して戻る者が、ほとんどだ。

 新たに百文一律の木戸銭を取り、もとの座敷へと戻す。その、込み入った裏の通路の狭さと薄暗さが、客には、こたえられない。

 小腹がへるころでもあるので、寿司折や酒も、買えるようにしてある。それがまた、飛ぶように売れる。

 こうして、ちょっとした手拭いや煙管で陣取っておいた席に戻った客は、《裏芝居》を観ることができる。

 赤々とゆらぐ灯りのもとで繰り広げられる芝居は、昼の部の芝居への《茶化し》だったり《謎解き》だったりするものだから、

「蝙蝠座の《裏》を観てねえようでは、通とはいえねえや」などと、話の種になっているのだ。

 朝の部の木戸銭を数えて銭箱に収め、ほくそ笑みながらも、菊池長兵衛には気がかりなことがあった。

 年の暮れに届いた、脅迫状のことだ。

 筆跡を隠そうとするような、カナ釘のような文字で、

『アクドイ儲フケガ、イツイツマデモ、続クナドトハ、思フナ、ヨ』と、書かれていた。

 そもそもが、もぐりの夜芝居であるのだから、そう言われてしまっては返す言葉もないが、だからこそ、それなりの筋にはそれなりのことをしている。

(なぁに、他の座元のやっかみか、そうでなければ、ただのいたずらに違えねえ)

 そう思いながらも、のちのち大切なものになるかもしれないその書状を、破り捨ててしまうわけにもいかず、角火鉢の引き出しの奥に、しまってある。

 そこへ、部屋の外で、番頭が咳払いをした。

「お入りよ」と、心の中の声とは言葉遣いの違う長兵衛である。

「蘭堂先生がお見えです」

「おお、そうかい。二階にお通ししておくれ。宴席ではなくて、客間にな」

《蘭堂先生》こと、小日向の蘭こそが、今の蝙蝠座が繁盛している、そのわけだ。

 女であることはもとより、本名も隠しているが、昨年来のアタリ芝居はすべてその、蘭の手になるものだった。

 十両で買い取った芝居がいくらの上がりになろうとも、欲深いことを言ってこない。こんな戯作者ほど、ありがたいものはない。

 今日は、午時からの新年会だ。

 一年を通して桟敷を買ってくれている旦那衆や、界隈を目付している同心たちをもてなす手はずに、ぬかりはない。

 襟元を整えた長兵衛は、階段を上がっていった。宴会の座敷にはもうすでに、客がほぼ揃っているのが、欄間越しの声で、わかる。

 先客には姿を見られぬように、そこを素通りして、奥の客間の戸を、開けた。

 蘭が、いる。

 床の間を背に、幅狭く、すらりと座っている。

 脇にいる小娘の派手な晴れ着にひきかえ、なんともいえず、いい色気ではないか、と長兵衛は、なまつばを飲み込みながらも、さっと裾を捌いて、ひざを折る。

「蘭堂先生、あけましておめでとうございます。なにとぞ本年も……」と、いんぎんな礼をする。

「あけまして、おめでとうございます」と、突く指の反りの、なんとマブいことか、と長兵衛は思う。

(いつ見ても、いい女だぜよ……)と、長兵衛は腹のうちでつぶやくが、それを打ち消して、

「午の鐘が鳴るまでには集まるようにと申し伝えておりますので、やがて各々がたもすべてお揃いかと存じます。それまで、狭いところではございますが、ごゆるりとお休みくださいまし」

「蝙蝠座さん」と、蘭はいくぶんきつい口調で言う。「年賀のご挨拶に参りましたが、あたしは宴席というのが苦手なものですから、こちらで失礼しとうと存じます」

「ええっ?! いやいや、いやいや、それはない。蘭堂先生がいらっしゃらなければ、新年会に、華もなにもありません」

「ええ、ですから、その《華》というのに、なりたくないの」

「……」

「お約束の、二月の芝居の骨組みは、こちらに用意してまいりました」

 晴れ着の娘が、膝に載せていた風呂敷包みを、差し出してよこす。

「いや、これは……」と、引き取りながら長兵衛は、「これは後ほどゆっくりと拝見いたしますが、それにしても……宴席には、ぜひとも……」

 長兵衛としては、蘭が名を隠していてくれることは、ありがたい。

 つねづね、同業の《土竜座(もぐらざ)》やら《白鶴座(はくつるざ)》から、

「なんとか、その作者に引き合わせてくれないか」と、頼まれているのだ。

 その都度、紹介料の前金と称して、少なくない金を納めながらも、長兵衛が虎の子の蘭を、他に知らせるはずがない。

 その土竜や白鶴も集まる今日の新年会、蘭を宴席に加え、何食わぬ顔をしているというのが、旧年からの長兵衛のもくろみでもあったのだ。

 この、渋い美女が座敷にいてくれさえすれば、どれだけ宴席が、妖しげに華やぐだろう。

 もっとも、今日のために芸妓をおおぜい呼んではいるが、蘭は、格が、違う。

 その蘭が、もう帰ると言うのだ。

(この女め……)と、長兵衛は思う。(枯れた後家のナリをしていても、元は花魁だってことを、俺は知ってる。もっとも、俺は手合わせたことはないが……。万両を貯えていたという札差の、漆屋益兵衛に落籍されて、今があるんじゃねえか。それが何だと? 宴席は苦手だとは、よく言うぜ)

「では」と、立ち上がろうとする蘭を、両手で押しとどめようとしたとき、階下の舞台から、悲鳴のような声が聞こえた。芝居のキメでは、ない。

「火事だ!」と、たしかに、聞こえた。

 ありえない。夜の芝居はともかく、昼間は火の気など、まるでないのだ。

 長兵衛は、蘭への挨拶もなく、ガマが跳ねるように立ち上がった。

 キナくさい匂いがすでに廊下にまで及んでいる。

 芝居小屋は、濃い灰色というより、むしろ黒い煙で、舞台も見えない。

 誰しもが出口へ向かって殺到している。


 奥山では、人波も少しばかり、一段落したようだ。

 午になって腹を空かせた人々が、思い思いの店や屋台に寄り集まったせいだろう。

 大道芸人姿の男は、もう一声張り出そうと胸を膨らませて息を吸い込んだが、それをふうっと吐き出し、

「岩吉っつあん、私たちもここらで飯にしようか」と、優しい声で、言った。

「はい、そうしましょう」と答えたのは、固太りの身体に太くて短い手足のついた、もういい歳の、男である。

「やった! 飯だ飯だ!」と嬉しそうな声を挙げたのは、先ほどまで太鼓を叩いて跳ねていた、鉢巻きに法被の、これはずいぶんと、若い男である。

「おい、政次、飯を食いたいなら、どっかから、茶を買ってこい」と言ったのは、岩吉と呼ばれた男だ。

 懐から取り出した豆銀を、ぽーんと投げ上げたのを、政次は器用に受け止め、駆けだしていった。

 岩吉は、立てていた幟を倒し、風呂敷包みを取り出す。

「先生、そのだんだらは、お脱ぎにならないんで?」

「いや、いいだろう。飯の間にもお客が来るかもしれない」とにっこり笑う。

(そうだよな……)と岩吉は思う。(この白塗りに、馬鹿げた戦国ちょんまげでは、普通の木綿の方が、ヘンってもんだ)

 この大道芸人、口上での、本人の名乗り通り、深川森下町に住んでいる。ただし、構えているのは化粧品の店などではなくて、療養所だ。

 香川幻龍は、れっきとした、医者なのである。

 岩吉は、

(なんでまた、玄龍先生ともあろう方が、こんなことをしなくちゃならないんだろう)と、少し、切ない。

 そんな思いをよそに、玄龍は、

「岩吉っつあん、今朝は売れたかい?」

「まずまずだと思いますが……しょうじき……」

「ん? しょうじき……なんだい?」

「先生は、売るのとただで配るのが、五分五分ですから……」

「なあに、いいのさ。正月じゃないか」

「でも、儲けもなにも、掛け値のない本草をあれほど使った薬ですよ……」

「まあ、言うなよ」

 岩吉は、この玄龍先生が、大好きなのである。

 白塗りの下の、浅黒い木彫りのような顔立ちは、笑うとくしゃくしゃになる。

 やたらに理詰めなところがあるかと思うと、むやみな人情肌で、損得なんかは忘れて、誰にでもかまい、始末をする。

 そんな玄龍に仕えてもう三年になるが、岩吉はいちどだって、役目を重荷に思ったことはない。ただし??

「やりくりでは、岩吉っつあんには、世話をかけるよなあ」と、岩吉の心を見透かしたように、玄龍は笑っている。

 岩吉は赤面を隠しながら、

「先生、そこなんですが。いかがでしょう、二月になったら、習い所の餓鬼どもから、きっちりときまった束脩を収めさせては……」

「うん。金持ちからは、きっちり、がっぽりもらうさ」

「ですがね……」

「まあ、みなまで言うなよ。その、金持ちの子弟が、うちにはロクにいないって言うことが、悩みどころなんだよ、な」

 その通りなのである。

 貧乏人の子が、たまに商売ものの青物や味噌を持って来たり、今日は太鼓を叩いて浮かれているあの政次が、売れ残りだと称して、貝や下魚を持ってきてくれるおかげで、療養所はギリギリで成り立っているようなものだ。

 どうしても現金が足りないとなると、今日のように、縁日を目がけて大道で《麗ノ粉》を売ってしのぐのだが、元手のわりに利が薄い。それどころか、医者にはあるまじき行いと、習い所にその子弟を通わせている、数少ない武家や大店の親からの評判が、落ちるのである。

 玄龍はあぐらのまま毛氈に後ろ手を突き、

「《麗ノ粉》はさ、今に大評判になるよ。なんたって、本物なんだから。江戸中どころか、お城の大奥から御用達になるかもしれないぜ」と、真顔で言う。

 政次が、紐の付いた太い竹筒を三つぶら下げて、戻って来た。

「あっついところを、たっぷり汲んでもらいやした」

 岩吉が解いた竹皮の包みには、でかい塩むすびがぎっしり。

 年の瀬に買っておいた、味噌漬けと塩昆布が添えられている。

「これは豪儀だね!」と、玄龍は、顔をほころばす。「さ、食おうじゃないか。私は、岩吉っあんの炊いでくれる飯が、いっとう好きだよ」

 と、玄龍が、塩むすびに手を伸ばしかけたとき、目の前にさっと影が差した。

「ご免!」と言いながら片膝を立てて屈み、険しい声を出したのは、若い同心の伊藤十蔵だ。

「おう、これは十蔵どの。あけましておめでとう。息を切らして、どうされた?」

「玄龍先生、おめでとうござる。やはりここでありましたか」

「まさか森下までゆかれたましたか?」

「いいえ、途中でふと思い、寄ってみたのでござる」

 伊藤十蔵は浅草奥山の西、本願寺に面した番所に詰めている。

 大川から向こう、本所深川は仕事の場ではないのだが、玄龍をしたって、月に二度は遊びにやってくるのだ。

「よいところに来られた。握り飯が、こんなにあるよ。一緒に食いましょう」と、時ならぬ客に、嬉しそうな玄龍に、十蔵は、

「玄龍どの、昼餉時に、申し訳ござらぬ。しかし今は火急の時にて、手助けをお頼みもうしたい」

「どうなされた」

 十蔵が、赤くなったり青くなったりしながら言うのには、猿若町の芝居小屋で煙玉が破裂する騒ぎがあり、怪我人も出て大騒ぎだとのこと。

 玄龍はさっと顔を引き締め、その場に立ち上がった。

「行こう。……岩吉っ!」

「はいっ!」

 と答えながら、岩吉がとっさに考えるのは、薬箱が無いことである。

 岩吉の心を察したように、玄龍は、

「十蔵どの。他の医者にも、お声は、かけなされたか」

「四方八方の医者には、番所から使いを出しました。ただ、玄龍どのには、それがしが……と」

「ごらんの通り、手当の支度がない」

「先で、何とかなりましょうぞと存ずる」

「わかった」と言いながら、玄龍は、すでに駆け出す様子である。「で、猿若の、なんという小屋なのですか」

「蝙蝠座……実は公許のない、もぐり芝居なのでござるが」

「怪我人に、もぐりも公許も関係ないさ。さっ、駆けくらべするか」と言いながら、玄龍は裸足で土に立っている。

「おいらは、どうしたらいいんで?」と情けない声を出しているのは政次だ。

「馬鹿野郎! おまえはしっかり留守番をしてろ!」と岩吉が、叱りつける。

「しばし待たれよ」と言ったのは、十蔵だった。「実は、先回りで、森下の二つ目の橋のところへ、お迎えの早船を急がせてござる。もし政次が今から療養所へ急げば、おおむね一里と存ずる。こやつに薬を取ってこらせてはいかがか」

「俺、一里くらいは、あっという間だぜ。帰りの舟だって、いらねえや」

 玄龍と岩吉は、いっしゅん顔を見合わせたが、玄龍は、

「なるほど、それがいいな」と言ったなり、駆けだしていた。

 岩吉は、人混みの中をたちまち消えて行く玄龍を横目で見ながら、政次に、急ぎ用の薬籠のありかを、詳しく教えた。


 蝙蝠座の煙は、どうやら収まっていたが、松脂を燻したようなキナ臭い匂いがまだ充満していた。

 蘭はタケに、通された客間にじっとしているようにと厳しく言いつけ、舞台を見下ろす桟敷へ出てみたのだった。

 さいわい、血を流している者こそいない様子だったが、むせて咳き込む者や、骨を痛めたものか、うめき声を上げながらうずくまる人々が、おおぜいいる。

 それが自慢の、狭くくねった木戸があだになったものだろう。力ずくとなれば、弱い者やおとなしい者が、いつもワリを食うのだ。

 蘭は廊下に戻り、菊池長兵衛を探したが、どこにもその姿はない。

 宴席が設けられていたはずの座敷を覗いてみると、小鉢や杯が膳ごとひっくり返り、見苦しく乱れているだけで、人の姿は、ない。

 そこに、大声が響いた。

「蝙蝠座というのは、ここか! 舞台はどこだ?!」と呼ばわる声に向かって、蘭は階段を下りた。

 廊下の角を曲がってきたのは、赤白のだんだら服を着て顔を白塗りにした、今朝の大道商人の男ではないか。

 はっとして声もない蘭に、男は、

「あなたは誰だ? この小屋のひとか? 怪我人があると聞いて来たのだが」と、立て続けに尋ねるが、険しい顔の白塗りは、すでに半ば、はげ、この寒さの中でも汗が玉になっている。

「そうおっしゃるあなたこそ、なぜここへ……」

「私は、深川森下町の医者、香川幻龍と言う者です。とにかく、怪我人のところに案内してくれ!」

(医者……?!)

 蘭は、胸をドンと突かれたような気持ちになった。

(この男、ナリこそ妙だが、ほんものだ)と、直覚した。

 いっしゅん固まった蘭は、返す言葉に戸惑った。

 そこへ駆けつけたのが、二本差しに紋付きの、同心。

 蘭は我に返り、

「舞台はこちらです」と、思わず答え、身を翻していた。

 入り組んだ廊下の勝手は、わかっている。花道に通じる楽屋を抜けると、座敷と土を叩いた上にむしろを敷いただけの《切り落とし》に出る。

 玄龍と名乗った男は花道から、その大きな身体でひらりと飛び降り、そこかしこにうずくまっている人々の間を素早く歩き回った。

 しかし、ただ、おろおろと歩き回っているのではない。

 ひとりひとりを見下ろし、屈み込み、ことによっては声をかけ、身体に手を触れている。

 玄龍と名乗った男は、平土間の向こうから、大きな声で、

「十蔵どの! だいたいの見立てです」

「はい、玄龍どの」

 と答えた同心に、きびきびとした口調で、

「小骨を折っている者が五人、脱臼と打撲が十人余り。あとはひっかき傷と、擦り傷。咳をしている者が、その他おおぜいです」と言い、「なに、大ごとではなさそうだ。ともあれ、骨から行かねばなりません」と、笑ってみせた。

 蘭は、まるでこの修羅場を楽しんでいるかのような、その男の笑顔に、目が止まってしまった。

「やあ、そこのご新造さん、突っ立っていないで、何か添え木になるようなものを探してきてくれませんか。ひしゃくでも箒でもかまわないから。あと、膏薬を練るための水を、五合ほど頼みます」

「はい!」と、蘭は我知らず答えていた。

 それからどう動いたのか、蘭にはほとんど覚えがない。

 言われた通り、ひしゃくや箒、もしや使えるかと思って、白鞘の脇差しやずっしりした喧嘩煙管なども集め、脱いだ羽織りで一抱えにして玄龍に届けた。

「上出来上出来」と背中で言いながら、玄龍は治療に余念がない。

 気づくと、今朝、あの太い腕で薬の代金を受け取った、猪のような男がいる。

「ああ、岩吉っつあん。迷ったかね」と、玄龍が言う。

「遅くなりました。小屋までは、あっしの遅い足でも、すぐでやしたが、表の木戸では、なんだかお客に銭を配っていて、わあわあと大騒ぎでさ。裏に回りやしたが、なんとも面妖な作りで……」

「政次は?」

「太鼓も幟もそのまんま、とてつもない速さで、突っ走っていきました。あれなら二里も、すぐでございましょう」

「そうか……」と言うと玄龍は、しばし宙を仰いで考え、「十蔵どの、すまぬが、小屋の表で政次を迎えてやってくださいませんか」

「わかりました。そういたそう」と、同心。

「で、岩吉っつあんは、脱臼の人々を、得意の柔で、はめてやってくれないか」

「へい!」

 流れを見ながら突っ立っていた蘭と、玄龍の目が合った。

(そうだ、次は水だったっけ)と思いながら、蘭は、蝙蝠座の中を走り回った。

 水屋に向かう途中で、話し声が聞こえた。

 用部屋を覗くと、そこには、派手な十徳を着た医者らしき坊主頭が三名、それに相対して、揉み手をしている長兵衛がいた。

「蝙蝠座さん! 何をしているのさっ!?」

「いやいや、こちら方はみな、お医者様でして」

「席にはまだ、痛んでいる人がおおぜいいなさるわよ」

「へえへえ、もちろんこれから、先生方に診てもらいますが、その前に……」

「その前にって……お医者様がたも、ごゆっくりされてる場合ですかっ!」

 蘭の剣幕に、医者達は揃って首をすくめた。

(こいつらは、なんだい? まるで、甲羅にコケでも生えた亀のようだ!)と、蘭は思った。

「いやなに、ちょうどたった今、薬代の話もまとまったもので」と、長兵衛は悪びれた様子もない。

「薬代ですって?! あんた方はそれでも……」と、言いかけた蘭は、あまりの怒りに喉が掠れた。

(とにかく、水だ)と、蘭は亀のようなやつらをうち捨て、無我夢中で、水を汲んだ。

 そこからの覚えは、あいまいだ。

 舞台へ戻ると、あの太鼓を叩いていた猿のような男が、息も絶え絶えの様子で突っ伏していた。

「政次よ、おまえは、棒手振の魚屋なんかをやめて、飛脚にでもなるといいよ。ごくろう」と、ねぎらいのこもった声で言いながら、玄龍は、蘭に向き直り、「やあ、ご新造さん。その桶の水を、まずは一杯、こいつにやってください」

 柄杓にたっぷり汲んで差し出してやると、

「ああっ、ありがてえ」と、たちまち飲み干す、政次と呼ばれた男。

「さあ、やるぞっ!」と、玄龍が声を挙げる。

 ここからまた、蘭の覚えはあいまいになる。

 気がついた時には、晒木綿を次々と歯で切り裂きながら、それに膏薬を塗りたくる岩吉に手渡していた。

「姐さん、どうやらもう、湿布は足りたようです」と岩吉が言った時、やっと我に返ることができた。

 玄龍はひとわたり小屋の中を見回すと、満足そうにうなずいている。その背中しか見えないが、おそらくはあの笑顔が浮かんでいるんだろう。

 案の定、振り返った玄龍は、引き締めた唇の端にも、うれしそうな表情を浮かべている。

 最後の一歩を、わっという調子で飛んできて、蘭の両手を取った。

「ご新造さん。おかげさまで、助かった。みんな無事だよ」

 蘭は両手を取られるに任せながら、なんだか涙が出てくるような気持ちになった。

「お役に立てて、なによりでございました」と言うのが精一杯。

「うん。悪いが、岩吉といっしょに、もうひと働き願いたいのだが、いいかい?」という玄龍の視線の先では、すでに岩吉が、三寸四方ほどの紙に、何やらキメの細かい粉を取り分けはじめている。

 玄龍は、すとんと落ちるように切り落としの土間にあぐらをかき、

「まだ、咳き込んでいる人たちに、一包ずつやってくれないか」と見上げる。

 有無もなくうなずいたとき、後から、

「姐さん……」と、声をかけてきたのは、タケだ。

 かわいそうに、すっかり忘れていた。

 あれからどれだけ経ったのかわからないが、さすがに一人、座敷に座ってはいられなかったのだろう。

「ほっといて、ごめんね。さ、おまえも手伝いなさい」

 タケはわけもわからないまま薬包を押しつけられ、咳き込んでいる人たちに薬を配った。

 玄龍はあぐらのまま、後に手をついて身を反らせながら、

「あー、その薬は、粉のままだとむせるからね。お姫さんは薬を配って、姐さんは水をやるといい。あとの様子は、岩吉が見ていくからね。俺は、ちょっと疲れたよ」

 なるほど、もっともなことだと思い、手桶に水を汲みなおしに行こうとしたとき、菊池長兵衛と三人の医者が、おもむろに楽屋口から現れた。

 蘭は空の手桶で連中を小突き、押しのけようとした。

 何か啖呵のひとつでも切ってやろうと思った時、いつの間にか後に立っていた同心十蔵が、厳しい声で、

「菊池長兵衛、そなたの調べは、きっとするから、そう思え」と言った。

 長兵衛は、そのガマのような顔を歪めながら不敵に笑い、

「ええ、ええ。お呼びとあらば、どちらへとも、出かけていきますとも」と、しゃがれた声で言った。


 森下町の療養所。

 玄龍は《勉強部屋》と呼んでいる奥の二畳で、手枕をして仰向けに寝転んでいた。

(火事ではなかったからよかったものの、芝居小屋というのは、危ない構造をしているものだな……)と、あの日の小屋を思い浮かべている。

(それにしても、あの匂いは、尋常のものではなかった。火薬はもちろんだったが、ヤニのような、香料のような、ヘンな匂いがしていた……)

 廊下を挟んだ板の間では、岩吉がゴロゴロと薬研を転がしている音が聞こえる。

(あの音は、貝の殻だな。それにしても、岩吉には世話ばかりかけてるよ……)

 頭と心の髄からそう思いながら、それでもなんだか、うとうとしてしまう。

 と、突拍子もない声は、政次だ。

「先生はいるかい? おいらぁ、お客をご案内してきたぜっ!」

「あいかわらず、うるせえやつだな。先生はお勉強の最中だ」と、岩吉が答えている。

「こないだ、あの、なんだかいう芝居小屋で打ち身をやった奥様が、ご挨拶をしてえって!」

「だから、先生はお勉強中だと言ってるじゃねえか。とにかくおまえ、声がでかすぎるぜ」

 玄龍は、手枕の姿勢から、すっと身体を起こした。

「でかすぎるたって、これが俺の、商売もんの地声だもん」

「じゃあ、口に綿でも突っ込んでからものを言えよ」

「なんだとう?!」

「あのう……」と、たしかに、女の声が聞こえた。

 玄龍は立ち上がり、勉強部屋を出た。

 狭い廊下に出て、間仕切りを開けると、そこが治療部屋の板の間である。

「やあやあやあ、おまえたち、また口喧嘩か? まあ、たいていは、九分と一分で岩吉っつあんに分があるんだよなぁ……」などと言いながら、板の間に出ていく。

 岩吉は軽く頭を下げる。

 政次は口をへの字にしながら、

「クブとイチブって、それあ先生、どういう計算ですかい!」と息巻く。

 それには取り合わず戸口を見ると、腰を屈めた女がたしかに、いる。

「どうぞ、お上がりなさい。火の気が少なくて、寒いところだけどね」

 玄龍が手招くと、女は政次を突きのけるようにして、土間に入ってきた。

「あたしはこないだ、先生に手当てをしてもらった者でございます」

「あ、覚えているよ。舞台にもたれて、腰を痛めていたんではなかったかい」

「まさに、そうでございます。手厚く、指圧と湿布をしていただきました」

「そうして歩いているところを見ると、快癒したんだな。よかった」と、言いながら、玄龍は岩吉を見る。なにせ指圧と湿布はすべて、岩吉の仕事だったのだから。

 女は狭い土間を小股で走り寄り、土に手を突き、

「恥ずかしいことでございました」と言う。

「何を。怪我や病気に、恥もなにもないでしょう。どうぞ上がりなさい」

「いいえ。私はここで……」と言いながら女は、「どうかお納めくださいまし」と、小脇に抱えていた風呂敷包みを両手で捧げた。

 玄龍は少し険しい顔になり、

「おかみさん、まずは上がりなさい」と言い切った。

 女は勝手に話し出した。

 自分は夫のある身でありながら、あの日は《男友達》と芝居を観に行った。目の前で煙玉が弾けて、思わず身を反らせた時に、強く腰を打った。気づけば男は消えていて、ただ腰が抜けて途方に暮れていたところに、玄龍が来たのだと。

「まあ、なんというか、身を慎めということなのかな」と、玄龍は頭を掻く。

「つまらないものですが、どうか、お納めください」と、女は包みを押し出す。

「無礼ながら伺うが、これは、何ですか」

「あたくしの在所、神田佐久町の、おまんじゅうです。お口に合うかどうか……」

「わかりました。ありがたくいただいておきます。このようなお気遣い、かたじけない」

 玄龍は、あの日、蝙蝠座で、よく手助けをしてくれた、あの女房にしか名乗っていない。なのに、どうしてだか、こうしてわざわざ訪ねてくれる患者がいることが、素直に嬉しかった。

 しかも見たところ、この女はすっかり治ったようだ。それが何より、いい気分だ。

「ああ、そうだ。せっかくお運び下さったのだから、いいものを差し上げよう」

 岩吉は察して、《麗ノ粉》の小さな試し包みを取り出してくる。小ぶりの貝殻に、少しばかりの丹薬を塗りつけて紙で包んだものだが、実は岩吉手彫りの不器用な印判で、《深川森下玄龍治療処》と捺してあるところが、これまでと、違う。

 女を見送り、板の間に戻った玄龍に、岩吉が、

「見ている人は、見ているものでござんすね」

「うん、そうだな」と言いながら、玄龍は、紫色の風呂敷のままの包みが、妙に、気になっていた。

「おまんじゅうかぁ……」と、いつの間にか板の間に上がり込んでいた政次に、

「開けていいぞ。こないだの走りの褒美だ」と、玄龍が言う。

「あれっ?」と政次は首を捻る。「これ、ヘンだよ先生」

「何がヘンなんだ」

「いや、なんてか、おまんじゅうじゃなくて、これは、餅かな……なんだか重い」

 包みを解くと、桐の箱に収まった、立派なまんじゅうが出てきた。が、その底には、丁寧に包まれた、別のもの。

「ヤバいぜ、先生!」と、政次の顔は、あれこれに輝いている。「これあ、キンの小判だよ、先生!」

「おまえ、今から追っかけて、これ、返せるか?」

「あのおかみさん、神田だってんでしょ? やってやれないことは、ないけどさ」と、鼻息を荒くする政次に、短い両手を出して押しとどめたのは、岩吉だった。

「先生……。これはこれで、受け取っておきましょう。いや、金のためというのではないのです。あの女、マブと芝居に行っていたのでしょう? で、女は怪我をしたというのに、男は逃げた、と。家ではさぞかし、あれこれあったかと思います。この金も、出どころは、恥を怖れたあの女の旦那……」

 玄龍はしばし宙を仰いでいたが、顔を戻すと、

「うん。岩吉っつあんの言う通りだな。追っかけてまで、女に恥をかかすこともあるまい。まあ、どこのやさしい旦那か、せんさくするのもやめよう」と言った。

 岩吉は、もともと丸い肩を、さらにほっと落として、息をついた。

「まんじゅう、食っていいかなぁ……」と、政次がその手を、すでに伸ばしているところへ、

「馬鹿野郎! 汚ねえ足で勝手に上がりやがって! 湯にでも行ってこい!」と怒鳴りながら、岩吉は自分の懐をまさぐって、ありったけの銭を政次に押しつけた。


「冷たい野郎が、割り込みますぜっ!」と、約束通りのあいさつをしながら、政次は石榴口をくぐった。「うわっ! これぁまた、ちょうどいい湯加減で……」とは言うものの、昼下がりの湯はまだ、からだじゅうが揚げ物になってしまうほど、熱い。

 しかめた顔を、いかにも悦に入っているように演じながら、政次は湯に浸かっていた。

「で、おまえさんは、その、戻しの木戸銭ってのをもらったのかい」と、湯気の向こうで声がする。

「いや、おれっちはツイてねえのさ。たしかに芝居は観たんだが、前の日だった」

「ハハハ。おめえなんざ、そういう奴よ……」

「……ったく、この野郎! だけどな、草履代なんて言って、あくる日からもだいぶん、銀が出たって言うぜ」

(こんな熱い湯の中で、よくも世間話なんて、できるもんだなあ)と思いながら、政次は湯船の隅っこで、身を固めていた。

「それにしても、豪儀なもんだな、その芝居小屋もさ」と、渋い声が言う。

「なあに、もぐりの奴らは、どんな知恵だってあるのさ」と、甲高い声が言う。

「で、その芝居、なんてえ小屋なんだ?」

「コーモリだ。猿若町の、いっち奥の外れの、半分地面を掘ってる怪しい小屋さ」

 熱い湯の中で固く閉じていた政次の目が、ピーンと開いた。

 ざばっと上がり、けちくさい陸湯をもらって、浴衣を着た。

 二階に上がる銭は、岩吉からもらったうちから、すでに払ってある。

(あいつら、かならず来るぜ)と、わくわくしながら、窓辺に場所を取った。

 案の定、二人の男が上がってきた。

 湯煙の湯船では声で察しただけだったが、太った男と痩せぎす。

 それぞれ、冷ました甘酒と麦湯を、運ばせようとしている。

 政次は意を決して、

「あのぅ……」と、声をかけてみた。「こちらさまは、両国広小路の旦那様ではございやせんか?」と、でぶの方に声をかけてみた。

「いや、俺ぁ……いや私は、両国の者ではないけどね」と、でぶ。

「ああ、とんでもない失礼をいたしやした。あんまりな恰幅に、失礼いたしやした」

「という、おまえさんは?」

「あ。名乗りがあとさきで申し訳ござんせんでした。おいら……いやあ、あたくしは、森下町の、ちょっとした医者でござんす」

「おお、お医者様かね」

「まあ、お医者のような、そんなもののような、そんなものでござんす」

「お医者に、そんなもこんなもないでしょう。ぜひこちらに」

 痩せぎすはいくらかキツい目をしていたが、でぶはすっかり信じた様子。

「では、失礼つかまつる」などと言いながら、政次はみずから、座布団を二枚重ねてみた。

「先生、将棋は?」と、でぶが言う。

 じつは政次、金と銀との動きを覚えたまでで、まるで駄目である。

「指せないことはないが、喧嘩になっちまうので……なってしまいますから、ね」

「喧嘩、ですか?」

「えーと。いやいや、勝負ごとは、からだによくないさ……でござるよ」

「そういうものですかね」と、思いのほか素直な、でぶである。

「うん。そうであるのだぜぇ」と、つるつるなのに、あごの髭をしごいてみせる政次。

 でぶと痩せは、顔を見合わせている。

 これ以上に芝居はきついと感じた政次は、

「ときに、そなたらが言っていた、コーモリの、あれやこれとは、なんぞや」

「えっ? 湯の中での話を聞いていなさったんで?」

「うむ。聞こえておったよ」

「いやなに、芝居小屋での話でさあ。ある日の芝居で煙玉が出て、誰も彼もが木戸から飛び出そうって時に……」と、でぶが言いかけたのを、痩せぎすが制して、

「そのへんにしておけよ」

「なんでだ?」

「言っちゃ悪いが、この御仁、お医者様には見えねえ」と言いながら、鋭い目を政次に向けた。

 政次は心底から、ひるんだが、玄龍先生を思い浮かべながら、

「これは心外なりなり……」と、ここまでは抑えたものの、「あのなあ! 医者にも、上中下とあるらしいが、お城や屋敷に入り込んで、のこのこしてるのが上ってワケじゃねえんだよ。あんなのは、俺から言わせりゃ、下の下だぜっ。そん次は、町内で、もぞもぞ言っているのが、まあ、許しに許して、中だとしてやらあ。さあ、よく聞けよっ? な、いいかっ? 上の医者ってのはなあ……」と言いかけたとき、何者かに、肩口のツボを、痛烈に押さえつけられた。

 政次が、畳の上にへなへなに這わせられながら、目の端に見えたのは、玄龍先生だった。

「このやつは、恥ずかしながら、わたくしの弟なのですが、そそっかしい奴でしてね。旦那様がたには、たいそうなご迷惑をおかけしたことでしょう」と、ひざを畳んで丁寧に言いながらも、威厳が、ある。

 気押された、でぶと痩せは、ともに目の前で手のひらを振りながら、

「いいえいいえ」と、口々に。

「盗み聞きをしたつもりはありませんが、その芝居小屋での話、詳しく聞かせてくださいませんか」と言う玄龍に、でぶと痩せとは、噂のすべてを話した。


 小日向は、坂の多いところだ。そのぶん、大雨が来ても水が付くようなことはないが、冬にはどうにも寒さがきついような気もする。

 蘭は掻い巻きを羽織り、毛織りの襟巻きをぐるぐる巻き付けて、机に向かっていた。

「姐さん!」と、階下からタケの声がする。「雪ですよ! 雪!」

 今日はなんだか、そうなるような気がしていた。

 とんとんと階段を上がってきたタケは、

「窓を開けても、いい?」と聞く。

「いいともさ」

 返事を待つまでもなく、タケは閉め切っていた板戸を開け放つ。

「あたしは、雪が大好きなんですよ」と、興奮しているタケは、秋田の子だ。

 深くて困る雪より、江戸の雪はどんなに風情があるか知れない。

 ひとしきり雪見をしていたタケが、はっとして、

「姐さん! 火鉢の炭が、無くなっているじゃないですか!」

 それもそうだ。仕事をしているときにはむやみに上がってくるなと言いつけていたのは、蘭なのだから。

 タケは大急ぎで火を取りに降りて行ったが、窓は開け放たれたまま。そんな、粗忽なところも、なんだか、かわいくて、憎めない。

 蘭は筆を置き、窓辺に立った。

 大きな粒のぼたん雪が、ゆっくりと降りしきり、平屋の屋根瓦を半ばまで白く埋めている。

 この土地からほどない、音羽での暮らしを思い出す。

 蘭の父は、御賄組の役人として、小さな家を与えられていた。

 お城の会計の一端を担うという仕事がらか、何事にも律儀で厳しい父だった。

 蘭には父の扶持など知るはずもなかったが、それでも教育にはとにかく熱心で、あらゆる習い事をさせられた。

 華に、茶に、そして手習い。

 蘭がとりわけ夢中になったのが、関口町の剣術道場で習った小太刀だった。

 稽古が楽しくてたまらず、家に帰ってからも、短い木刀を振り回して、まだ幼い妹を追いかけ回しているのを、母から父に言いつけられ、木刀を取り上げられた。

「お転婆にするために武術を習わせているわけではないのだぞ」と、こっぴどく叱られたものだ。

 そんな父が病を得て倒れて、そしてあっという間に亡くなってから、男の子もいなかった家は、たちまちバラバラにならざるを得なかった。

 母と妹は、上州の親戚を、あても約束もなく頼っていったが、蘭には、江戸に残る、決心があった。

 蘭の美貌に、つねづね目をつけていた口入れ屋に、

「たわむれも、ほどほどにせよ」と、刀に手をかけてでも追い払ってくれた父が、今思っても、ありがたい。

 その墓に手を合わせたその足で、蘭はみずから吉原に入った。

 それが、数えで十五の歳のこと。

 大きな店に抱えられ、すぐに振り袖で売り出したのもつかの間、あっという間に、花魁になっていた。

《唐ノ蘭》と名付けたのが誰だったか、今となっては思い出せない。

「ぬしには、白い人の血が入っておるな」と、誰かが言った。

 たしかにひとより肌が白く、髪も少し赤みを帯びているのが、子供のころには嫌なことだったのだが、郭の中ではむしろ、ウリになったのが、ありがたい。

 悪い客は、ほとんど、いなかった。

 いくらかタチの悪いのは、さむらいの次男坊くらいだったが、それにしても、子供のようなもので、手もないことだ。

 やがて、高利の札差というにはずいぶんと洒落た遊びをする、漆屋益兵衛というじいさんが、馴染みになった。

 おおぜいの客をもてなし、客ですらないものまで座敷に入れ、お茶を引いている芸妓をも、ここぞと呼び寄せてやり、何の芸もない、たいこもちどもにまで、祝儀を振りまく。そうやって、遣いたい放題の金を遣いながら、自分はその座から一歩しりぞき、床の間にでもはまり込むようにして、黙って下手な俳句をひねっているのだ。

 初めこそ、なんだかうさんくさい成金めと思ったものの、引けて二人きりになってみると、その人柄がわかってきた。

 だから蘭も、本音で付き合った。

 漆屋に身請けされたのは、それからすぐのことだった。

 蘭は、ひとつだけ条件を出した。

「あちきには、かわいい妹分がいるのです。その子をつけてくれなんすかえ」

 当時は十歳になったか、ならないか、秋田から送られてきたという小娘。ほっぺたの赤い丸顔、でも、やがてはかなりの美貌になるはずのタケは、見世ではもうじき振袖で売り出そうというところだった。

 明るく従順な性格は、売れっ子になること間違いなしとは思ったが、やはり吉原は苦界。出してやりたかった。

 漆屋益兵衛は、あっさりと、

「うん。かまわないよ。町で誰かを雇うより、よほどいいだろう」

 落籍の金は千両とも噂されたが、蘭はまるで気にしなかった。

 家も、どこだってよかったが、なんとなく、吉原より遠くの土地に住んでみたかった。

 本音を言えば、生まれ育った小日向音羽の地に、戻りたかった。

 もっとも益兵衛は、

「よくもこんな坂の上で……私の心臓を破るつもりかね」と、笑っていたが。

 その漆屋益兵衛が没して、もう三年になる。

 貯えはあるし、いついかなる時でも漆屋が用立てする旨の書状もある。

 だが、蘭は、何も要らないのだ。

 ことさらに菩提を弔っているつもりなどないが、着物だってすべて、益兵衛の男ものを仕立て直して着ているだけだ。

(あたしは、しあわせなんだろうか。それとも、ほかの何かなんだろうか)

 追憶は、寒さで、途切れた。

 窓を閉めたところに、タケが炭を持って、やってきた。

「寒いよ、姐さん」

「あんたが窓を開けてったんじゃないの」

「ごめんなさい」と言いながら、タケは火鉢に炭を継いでいる。

 大きな鉄瓶を火に掛け、煎茶の道具一式と、菓子を揃えてくれた。

「あんたはもう寝なさい」

「あい。姐さんも、あんまり根を詰めずに、ね……」

「わかってますよ」とは言ったものの、このところまったく筆がはかどらない。

 あの日の蝙蝠座での事件以来のことだ。

 読み書きが好きな蘭の手慰みにと、漆屋がわたりをつけてくれた蝙蝠座。

 菊池長兵衛があまりタチのよくない男であると、蘭はすぐに見抜いていたが、まさかあれほどまでとは思わなかった。

 もぐり芝居をやっていることまでは、まあ、蛇の道は蛇と言ったところ。蘭も、裏芝居や謎解きを書くのは、楽しい。

 しかし、小屋に怪我人が呻いているのをほったらかして、坊主みたいな藪医者どもと薬代の相談が先だとは、下劣にもほどがある。そんな男の片棒を担いでいるのかと思うと、自分が嫌いになる。

 それにひきかえ、あの若い男の働きは素敵だった。

 素早く、かといって慌てるわけでもなく、怪我の重い順から、次々と手当をしていった。晒し布や薬も惜しまず、わけへだて無く一人一人を、診た。

 蘭がタケの帯を直してやっているあいだに、名乗りを上げることもせず、いつの間にか下男とともに、消えてしまっていた。

(あの男は、いや、お医者は、ほんものだった)と、蘭はまた思う。

 いや、あの用部屋の前で、たしかに名乗った??深川の……そう、森下町と言っていた。

 ざらざらした木綿の着流しの背中が、なんだかまだまぶたの裏に残っている。

 あんな男、吉原では見かけたことが、ない。

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